「いじめ」の社会関係論 前半

1996年、『ライブラリ相関社会科学3 “資本”から人間の経済へ―20世紀を考える〈3〉』(鬼塚雄丞丸山真人・森政稔編、新世社)に掲載された内藤朝雄さんの文章です。この文章は加筆・修正されたうえで『いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体』の二章部分にも収められ、「社会秩序群の生態学的布置連関モデル」や「IPS(inter-intra-personal spiral system)」概念など、内藤さんの「いじめ」論の骨子にあたる議論が読めます。


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「いじめ」の社会関係論


0・はじめに
 群れであることの構造的な「いきがたさ」を、人々がリアルな体験を生きることそのこととその人たち「なりの」社会秩序の存在様式とが分かち難く結合した相において、明らかにしたい。これが筆者の問題関心である。この「いきがたさ」は人類の宿痾の病とも言うべき普遍的なものであり、その置かれた社会的設定条件により様々に形を変え消長する。この「いきがたさ」の普遍的な形を、職場組織・地域社会・学校といった生活体験領域の個別の諸相からくっきり染め出す、特殊な媒体が「いじめ」である。

 上記の問題関心に照らして「いじめ」を次のように操作的に定義する。(1)集合性の力を当事者が体験するような仕方で、(2)意識的・無意識的を問わず、(3)一方に対する他方の嗜虐的な関与が、(4)社会関係において構造的に現実化すること。「いじめ」関連事象は次の2つを包摂する。(1)「いじめ」が実際に生起する仕方そのもの。(2)生活体験領域に「いじめ」が(話題としてあるいは事件として)差し挟まれる事態に応答するさまざまな営為。

 今回特定した研究対象は次の2つである。(1)「いじめ」そのもののメカニズム。(2)「いじめ」関連諸事象を導きの糸として索出される体験構造と社会秩序、およびこの2つの錯綜態(さらに(2)’一定の社会秩序-体験構造が再産出されるメカニズム)。当論考では学校関連のものを中心にこれらの研究対象を扱う。そして幾つかの有用な理論モデルを提出する。

 ところで、有限な認識者にとって現実は無限に多様であり、そのままでは、普遍的なメカニズムは他のメカニズムが混在するなかに紛れ込んでいる。従って、広範な現実に当てはまる普遍的な理論モデルを構築するためには、もっぱら単一のメカニズムだけが際立っている特殊な事例から特徴を整合的に抽出しつつ形をプロットしていくことになる。当然、「いじめ」の場を生きる人々は、現実には、ここで理論化したメカニズム以外の様々な生の形態をも同時並行的に生きている。


1・「いじめ」関連諸事象が照らし出す問題領域 :独自の体験構造と社会秩序
 事例1〜4は、ごく普通とされる中学生の事例である。

【事例・1】  青木悦はある中学校で浮浪者襲撃事件について公演をした。大人たちが「人を殺したという現実感が希薄になっている」といったことを話しているとき、中学生たちは反感でいっぱいになった。ほとんどの生徒たちは挑戦的な表情で、上目づかいににらんでいる。突然女生徒が立ち上がり「遊んだだけよ」と強く、はっきり言った。まわりの中学生たちもうなづく。「一年のとき、クラスで“仮死ごっこ”というのが流行ったんです。どちらかが気絶するまで闘わせる遊びなんですが、私は『ひょっとしたら死んでしまうんじゃない? やめなさいよ』と止めました。そしたら男子が『死んじゃったら、それはそれでおもしろいじゃん?』というんです。バカバカしくなって止めるのを止めました」。「ほんとに死んじゃったらどう思うだろう?」耐えかねたように1人の教員が言った。「あっ、死んじゃった、それだけです」。別の生徒が続ける。「みんな、殺すつもりはないんです。たまたま死んじゃったら事件になってさわぐけど、その直前まで行ってる遊びはいっぱい学校のなかであります」。彼らは、どちらかといえば優等生の部類に入る、普通の中学生たちだった。〔青木,1985〕

 【事例・2】  「いじめ」をしているある女子中学生は教員に抗議する。「いじめは良くないと思うが…やっている人だけが悪いんじゃないと思う。やる人もそれなりの理由があるから一方的に怒るのは悪いと思う。その理由が先生から見てとてもしょうもないものでも、わたしたちにとってはとても重要なことだってあるんだから先生たちの考えだけで解決しないでほしい」。別の中学生は非難する。「いじめられた人はその人に悪いところがあるのだから仕方がないと思う。それと先生でもいじめられた人よりいじめた人を中心に怒るからものすごくはらたつ。だから先生はきらいだ。いじめた人の理由、気持ちもわからんんくせに」。〔竹川,1993:117-120〕

 中学生たちにとって「いじめ」は「ただしい」。彼らが「遊んだだけよ」というときの「遊び」は、彼らなりの集合的な「生命」感覚にとっては極めて重要なものであり、少なくともやられる人間の命よりは重い。彼らにとって最も「わるい」ことは、「みんな」が共振し合うなめらかな空間に、個を析出させたり普遍性を隆起させたりして、罅(ひび)を入れることである。彼らは人権やヒューマニズムを生理的に嫌悪する。彼らは自分たちなりの「いい」「わるい」を体得しており、それに対してかなりの自信をもっている。彼らは、彼らなりの社会にとっての「ただしさ」(彼らなりの倫理秩序!)にそぐわない「わるい」ことを押しつけてくる大人に対して、本気で腹を立てている。われわれの市民としての善悪と彼らの群れとしての「いい」「わるい」との間には懸隔がある。

 共同性についても同じことが言える。子供たちには子供たちの体験構造と社会秩序に根ざした濃密な世界がある。だが、その濃密さは、われわれが思い浮かべるものとは趣を異にしている。

 【事例・3】 東京の中学1年生、C子のケースは、女子に多い「依頼いじめ」だった。放課後の教室でC子は、3人の男子生徒に体を押さえつけられた。体の自由がきかなくなったC子の髪にハサミが向けられた。クラスの中でもかなりの美人だったC子の黒髪は、無残な姿になってしまった。しかも、その3人の男子生徒のうちの1人は、C子の彼氏だった。〔大田,1995〕

 【事例・4】  精神科医町沢静夫の外来に、心因性と思われる足の麻痺を起こした中学2年の女子A子がやってきた。ストレスを探り出そうとしても、「全くそんなものはありません」と「しらっ」と答えていた。時と共に筋肉の萎縮が始まる。「自白剤」としても用いられる薬物を注射しながら催眠を何回もかけたが、あまりにも強い抑圧のために話さない。町沢は、ストレス探しをあきらめ、やはり神経の病気ではないかと思いつつも、最後にもう一度催眠をかけたいのだが、と聞いた。すると、催眠はもうやめてほしい、自分から話す、と言い出した。彼女の場合、無意識に抑圧されているのではなく、最初から最後まで事を意識していたが、話すことが極めて強いタブーになっていた。彼女が属する部では、ボーイフレンドができた場合は、全員に、特に部長に知らせねばならない、ということになっていた。ある男子生徒が彼女を好きになったが、彼女は彼には興味がなかった。ところが、同じ部のB子が彼を好きになった。彼女は親切心でB子の気持ちを彼に伝えてあげた。それから、B子と彼は付き合いだした。しかし、B子は彼との交際を秘密にしておきたかった。そのためにB子はA子に「彼があなたを好きであるかのようにしておいて欲しい。自分と付き合っていることを秘密にしてあなたと付き合っていることにしてくれないか」という話を持ちかけた。A子は了承した。その「交際」を部活の部長がみつけ、みんなでA子に酷いリンチを加えた。その中にはB子もいた。A子は裸同然のような姿にされ、靴もなく、裸足で家へ歩いて帰った。裏から家に入り、そのまま着替え、なに食わぬ顔で風呂に入ってけろっとしていた。しかしその翌日から足の麻痺が起こった。いかにリンチがひどかったか、どれほど苦しかったかを、A子は涙を流しながら語った。この足の麻痺のためにA子は一年留年せざるを得なかった。しかし、彼女はリンチをした仲間を非難しない。町沢は、事態を担任の教員に説明し、学校でいじめ問題に取り組むべきことを説いた。するとその教員は「それではいじめた方も傷つきますからお断りします」と言い、がちゃと電話を切った。〔町沢,1995他〕

 彼らは、個人と個人との間の信頼関係が全くないにもかかわらず、濃密に密着し合っている。そこには彼ら独自の、濃密な共同性がある。われわれの基準からは、残酷で薄情なものでしかない群に対する彼らの忠誠と紐帯は、日露戦争で「新でもラッパをはなさなかった」兵士にまさるとも劣らない。われわれと彼らとで、濃密-希薄の、さらには絆とは、信頼とは何かについての、尺度が全く異なるのである。

 これまで論じてきた彼我の懸隔は、学校の論理と市民社会の論理との懸隔でもある。森政稔は次のように論じる〔森,1996〕。「市民社会ではあたりまえの自由とされることの大半が学校では禁じられ、そのかわり市民社会では暴行、傷害、恐喝その他の犯罪とされるものが学校では堂々と通用し、場合によっては教育の名において道徳的に正当化され」る。学校で子供が教員や生徒集団に殺された場合ですら、しばしば奇妙な論理(「教育」の論理!)で殺した側が弁護され、「生命の尊重のような、市民社会のルールの最も根源的な規範が脇に追いやられ、ついには無視され」てしまう。「市民社会にあっては、身体と身体とは、たとえば電車のなかでたまたま触れ合ったなら、ただちに引っ込めるような、相互の不可侵性でもって共存している。教師による、あるいは「いじめ」の暴力は、ただちにこのような市民社会の空間に出現するには、違和感がありすぎる。身体相互の関係を根本的に作り替え、日常的に暴力を行使できるようにするためには、おそらく軍隊や学校のような濃密な閉鎖的空間に身体を慣らせる」集合的な現実感覚変造の装置が必要である。この変造装置、「その内部にある生徒や教師にとっての道徳や正義などの規準を、外部とは全く異なるものに取り替えてしまう」、「価値の転倒をひきおこす仕掛け」を、森は「学校的なもの」と呼ぶ。森によれば、この「学校的なもの」は、イデオロギーや資本主義的効率性といった従来の学校批判が拠って立つ理論構成においては説明不能な、存在する理由がないはずの不条理な存在である。「学校的なもの」の「この不条理にみあった理論構成」を、森は要請する。

 筆者の理論は、この要請に応えるものである。「不条理にみあった理論構成」とは、彼我の距離を前提にした特殊な分析枠組みを用意しつつ、「彼らなり」の体験構造と社会秩序、例えば「彼らなり」の倫理秩序や共同性を、説明することである。筆者は独自の体験構造-社会秩序モデルから、「彼らなり」の世界を整合的に説明する。


2・体験構造-社会秩序群の生態学的布置連関モデル −−従来の「いじめ」論の隘路をたたき台として−−
 まずは、従来の「いじめ」論の問題点を指摘しよう。

 第1の問題点。大量の「いじめ」論*1に目を通してみると、「いじめ」の場(を生きる子供たち)の属性や「いじめ」の原因として、次のような項目が挙げられているのがわかる。

(1)受験競争の加熱(原因)。
(2)学校で勉強をして[[身を立てる」という目的意識の希薄化と、それに伴う学習意欲の低下・授業の不成立(原因)。
(3)学校空間の過剰な管理(原因・属性)。
(4)学校秩序の脆弱化および規範意識の希薄化、その結果としての何をやっても許されるという欲望自然主義(原因・属性)。
(5)やりたいようにやることが許されず、他者の指示を待って[[こわばる身体」、あるいは[[自然な身体性」の解体(原因・属性)。
(6)家族の人間関係の希薄化と「愛」の欠如(原因)。
(7)少子化核家族化などによる家族の濃密化と「愛」の過剰(原因)。
(8)学校や地域社会の共同性の解体と、都市化に伴う市民社会の原理の侵入(原因)。
(9)学校や地域の共同体的しめつけと市民社会の未成熟(原因)。
(10)子供の生活や体験されるリアリティの全域を覆い尽くす学校の過剰な重みと、学校に囲い込まれた人間関係の濃密化、及び過剰な同質性への圧力(原因・属性)。
(11)子供たちの対人関係の希薄化(原因・属性)。
(12)迫害的な集団力学の趨勢・「強い者」の不快な行為や「いじめ」といったものに対しては、黙って辛抱するか[[大人びた仕方でうまくたちまわる」しかない状況。子供社会が大人と変わらない狡猾さに満ちた[[世間」と化し、[[純真な子供らしさ」が消滅した(原因・属性)。
(13)子供の幼児化・未熟化と耐性の欠如(原因・属性)。
(14)マスコミの露骨な暴力描写や、[[ビートたけし風」の嗜虐を売り物にする[[お笑い」番組の流行(原因)。
(15)暴力や死が社会から隔離されて子供の目に触れないようになったり、まわりが甘やかして暴力を体験しなくなったため、「けんかのしかた」や[[他者のいたみ」がわからなくなった(原因)。
(16)親や教師や他の子供たちから痛めつけられ、暴力を学習した(原因)。
(17)「がき大将」によるリーダーシップや年齢階梯制地域集団の消滅(原因・属性)。
(18)子供集団に自生する非民主的な身分関係や、心理操作や人心掌握に長けた攻撃的で支配的なリーダへの追随(原因・属性)。
(19)日本の文化(原因・属性)。
(20)日本の伝統的な文化の崩壊(原因・属性)

 これらの相互に矛盾し合った諸項目の多くは、どちらかが正しくてどちらかが誤っているというのではなく、ある程度は現実に当てはまっている*2。しかしこれらは、理論モデルを整合的に構成するはずの概念としては、互いに矛盾している。上記リストから、明らかに実態を言い当てているにもかかわらず、相互に矛盾してしまう属性の組を、以下で3つ抽出する。

 (1)人間関係が希薄化しつつ、かつ濃密化している。(2)子供たちが幼児化しつつ、かつ、計算高く抑制のきいた「小さな大人」になってきている((2)’子供たちは欲求不満耐性がなくなりつつ、集団力学の趨勢を窺いながら耐え続けている)。(3)秩序が過重でありかつ解体している。

 子供たちの実態をよく把握している論者ほど、これらの矛盾する対の両方を属性として指摘しがちである*3。「いじめ」論がこのような矛盾に陥ってしまうのは、素朴な自然言語的了解に依存しすぎており、何をもって濃密-希薄、幼児的-大人的、秩序-無秩序と言うのか、といった概念の検討が不十分なまま理論モデルを構築しようとするからである。

 第2の問題点。「いじめ」が子供たち「なりの」社会の体質によって生み出されていることを、ほとんどの「いじめ」論者たちは認めている。にもかかわらず、それがどんなにひどいものであっても、子供たちが大切にしている子供たち「なりの」一体感や秩序は、それが子供たち「なり」の一体感や秩序である限り尊重しなければならない、という無条件・無反省的な価値判断が多くの「いじめ」論の暗黙の前提となっている*4。「いじめ」論者たちと「いじめ」遂行者たちは、同一の共同体倫理を暗黙の前提として共有している。われわれの社会の慣習(ハビトゥス)にもなっている中間集団コミューン主義、そしてわれわれの社会全域に瀰漫(びまん)している学校コミューン主義が、「いじめ」論者たちの思考様式をも染め上げている。

 【事例・5】  「児童青年精神科」の権威でもある大学病院精神科教授若林慎一郎と榎本和のもとに、登校拒否の中学生E子が来院した。

 優等生のE子が通うのは、「いじめやいやがらせが横行する」「地域でも校内暴力で有名」な中学校で、さらに一番「悪い」と言われているクラスである。暴力グループに付和雷同する学級集団は、正義感の強いE子にとっては不正がまかり通る場である。E子は「教科書で頭を叩かれたり、足を引っかけられたりするなど、…生傷が絶えない」。それでもE子は「いじめ」っ子に屈服しないで逐一反撃する。それがさらなる「いじめ」を誘発する悪循環を形成する。「保護者会で母親は、成績はよいが性格が悪いと言われた。E子としてはいやな人たちばかりだからしゃべらないだけだ」。このような状況下でE子は登校を拒否する。

 若林らの「初診時所見」は次の通りである。「…可愛らしいというよりは、気が強そうできつい子といった印象を受ける。学校のことや教師、生徒に対する不満がいっぱいという感じで、よくしゃべるが、他罰的で、少しふてくされたような態度がみられ、誤解を受けやすい子のようにも思われる。E子自身も、トイレに閉じこめられたり、仲間はずれにされた時に、泣けばよいのだけれども、「私は泣かない、それで、皆から同情されないと思う」と述べている」。さらに若林らは次のようにE子を臨床記述する。「依怙地で他罰的」「弾力性の乏しい態度」「クラスや学校に対して協調的な態度がとれない」「クラスへ適応しようという気持ちがないようで、周囲を寄せ付けない」「E子の性格に問題がある」「E子の非協調的な態度をE子にいかに自覚させるかということが課題である」。〔若林・榎本,1988,「他罰的な子へのいやがらせ」〕

 若林らは、人に暴力をふるって楽しむ被虐者たちを「異常」視しない。逆に、自分に暴行を加える迫害者(及びその勢いに同調する学級集団)を明晰に「敵」「悪」「赤の他人」と認識する女子中学生のほうを、「異常」視する。ここには、市民社会の良識からは信じられないような「価値の転倒」〔森,1996〕がある。若林らは何故このように考えるのか。

 この「転倒」を引き起こしているのは、学校コミューン主義である。コミューンとは、(1)個の次元を超えた集合的な次元として感じられる全能的な準拠点の感覚(集合的な「生命」感覚)を仮構しながら、(2)「他者のなかで私が生きられ・私のなかで他者が生きられる」ように体験される(他者を容器としてその内容を私として生きる)心理-社会的なメカニズムを、(3)連ね合わせていくことから秩序化される社会集団(後のβ-IPS)である。

 若林らが、このようなコミューンの「集合的生命存在の権利」を個人的生命存在の権利よりも尊いものとして体験しており、かつ学校がコミューンであると体験しているとすれば、さらに補助線を引いてE子と学校コミューンとの関係を旧約聖書のヨブと神の関係になぞらえれば、若林らの発言は余すところなく理解可能となる。事例・4のA子のように中学生らしく(関係の絶対性に対して結節点らしく!)ヨブと化さないことが、E子の「あいだ」の病理である。旧ソ連精神科医コミュニズムに逆らう者を精神病とするように、若林らも、学校コミューン-イズムを生きない中学生の「まつろわぬこころ」を医療の対象とする。

 もう一つ、若林らほど露骨ではないが、学校コミューン主義による奇妙な発言を取り上げる。紙幅の都合上、事例・6は筆者なりの分析を加えた上で紹介する。

 【事例・6】  『ひと』『賢二の学校』を主催する小学校教員鳥山敏子は、子供たちを集めて孫悟空の公演を企画する。優等生のコミは匠らの主流派グループに妬まれ、暴力も含めた「いじめ」をされている。その現場をつかまえた鳥山は、加害者に対する制裁やメンバーシップの停止を匂わせもせず、被害者と加害グループとの「気持ちのぶつけ合い」をさせる。グループは勢いづいてコミを罵る。彼らの勉強に関する劣等感はコミの存在によって掻き立てられる。そして彼らは、コミに見下されているとする被害感を「社会的事実」にまで仕立て上げ、コミをとことん悪者に仕立て上げる。そのやり方は、自分たちが強い者からされてきた「こころのしつけ=辱め」方でもある。グループは吊るし上げの集合的沸騰状態に悪ノリしながら、コミの「こころ」のあり方をほじくり出し非難し辱め、自分たちが投影する(もともとありもしない)「傲慢の罪」を「こころ」の中に「自発的」に見つけ出し自罰に耽るよう、コミを馴致する。このやり方でコミは見事に「しつけ」られ、「おれは悪魔だ」と口走る。グループはこのように共同製作した「悪魔」を容器として使用し、内部に侵入しかき回しコミをぼろぼろにしながら、自分たちの屈辱の体験(ルサンチマン)を心地よいしかたで再演しつつ癒そうとする。コミのいじけ・自罰・内向化はこのような集団的迫害(しつけ=つるしあげ)の効果としか読めないが、鳥山は次のように述べる。「コミちゃんは、自分を糾弾するほうにもっていった。…コミちゃんが望んでいるひととひととのかかわりかたの深さがこの判断にあらわれているのだ」。また、吊るし上げられて咽が詰りがちなコミが言葉を返した局面を取り上げ次のように述べる。「ここで全身ふりしぼって、コミが、「そっちがわかんねえってことだろ、ばかやろう」といったのは、わたしには心の底から共感できる叫びだった。そこからめげずに立ち上がれる道を、きょうはコミ、なんとかつくろうぜ!とわたしの心も叫んでいた。だって、おまえがつき合いたいのは、ほんとうは大人のわたしではなくて、匠や湯沢や郷原や、ヨネや斉藤たち(加害グループ:筆者注)なんだからな」。〔鳥山,1994:112-163〕

 第3の問題点。従来の「いじめ」論は、諸秩序の生態学的な布置連関を考慮しないで、秩序を単数視しがちである。このことが上記2傾向を脇から支えている。仮に秩序が単数であるとすれば、様々な観察像から「秩序は過重でありかつ解体している」などと言うしかない(第1の問題点)。また、秩序が1つしか存在しないと仮定すれば、「いじめ」の秩序を「粉砕」してしまえば、子供たちはあらゆる秩序を失い、脈絡だった世界の経験を失い、真空状態をさまようことになる。それゆえ、どんなひどい秩序でも尊重せざるを得なくなる(第2の問題点)。だが、秩序を複数と考えればまったく別の答えが返ってくる。

 以上、従来の「いじめ」論の問題点を指摘してきた。以下ではそれに対する代案を提示する。これによって従来の「いじめ」論が抱えた矛盾と混乱は氷解する。

 前述の「濃密-希薄」「幼児的-大人びた」「秩序解体-秩序過重」という一見矛盾した諸特徴は、特定の現実の構造的に一貫した所産である。「いじめ」の場の子供たちは、ある意味では「人間関係が濃密」であり、別の意味では「希薄」である。また、ある意味では「幼児的」であり、かつ別の意味では「大人びて」いる。また、あるタイプの「秩序が解体」しており、かつ別のタイプの「秩序が過重」である。

 「いじめ」の場において、「幼児的」と「大人びた」が相互に矛盾し合うのではなく、この2つがシステマティックに結合・促進し合うような体験構造を子供たちは生きている。「幼児的」は「全能感希求的あるいは全能感筋書準拠的な体験構造」を有する傾向と言いかえられ、「大人びた」は「利害-現実計算主導的な体験構造」を有する傾向と言いかえられる。この全能感希求・準拠的な体験構造については、β-体験構造として後で論じる。多くの事例が指し示すのは、「全能感希求・準拠的」心性と「利害-現実計算主導的」心性との構造的な結合形態から創発してくる複合的な体験構造である。後に論じる全能感筋書きと利害-現実計算との結合の諸相や、「うまうやりおおせること」による「タフ」の具現が、この体験構造の特徴を明らかにする。

 「いじめ」論者たちが「秩序の解体」を読み込んだり「秩序の過重」を読み込んだりする事態は、ある秩序と別の秩序との生態学的な競合において、一方が繁茂し他方が淘汰される事態である。前者は、全能感希求と利害-現実計算との複合態から「いい(例えば、ノリがいい、すかっとする)-わるい(例えば、ムカつく)」を弁別するような・情動の共同形式から成型される倫理秩序に準拠した・人々の相互作用から成る社会秩序である。これをβ-秩序と呼ぶ(後にβ-秩序は、β-IPSの秩序として原理的に概念規定される)。後者は、(真理への意志を有する)個の内面において事象を普遍的な理念に照合して「善-悪」を弁別するような・普遍ヒューマニズム型の倫理秩序に準拠した・人々の相互作用から成る社会秩序である。これをγ-秩序と呼ぶ。

 γ-秩序を「秩序」と見る視点からは、「秩序の解体」が見えてくる。しかし、β-秩序を「秩序」と見る視点からは逆に「秩序の過重」が見えてくる。さらに、γ-秩序や個と個の親密性を見る視点からは「人間関係が希薄」に見え、β-秩序を見る観点からは「濃密」に見える。γ-秩序を見る視点からは、β-秩序に基づいて配分された全能感の筋書きをenact(上演=実効化)している心性は「幼児的」で「耐性が欠如」しているように見える。だが、β-秩序を見る視点からは、悪のりしている最中ですら計算ずくでうまく立ち回って「大人びて」おり、自分の身分的立場が弱くなればひたすら卑屈になって「辛抱している」ように見える。

 「いじめ」の場とは、(顕在的あるいは潜在的な)さまざまなタイプの秩序が重層的に配置されつつ・せめぎあい・淘汰し合う生態学的な場で、あるタイプの秩序が他を圧倒した局面である。「いじめ」タイプの秩序(β-秩序)は、そうであり得たかもしれない別のタイプの秩序群を潜在化しつつ、独自の位置を占めて存立する。この観点からは、「いじめ」タイプの秩序を生態学的劣位にもっていきつつ破壊することが、他のタイプの秩序の繁茂の条件として要請される。またその逆も然りである。「いじめ」をしている者たち「なりの」秩序を破壊したとて、それは諸秩序の生態学的付置の変化や、別のタイプの秩序の繁茂の条件になるだけにすぎない。以上が、「いじめ」論に応用された、諸秩序の生態学的付置連関モデルである。

 さて、このような諸秩序の帰趨を、よりマクロな社会的設定条件が左右している。「いじめ」対策としては、この条件のコントロールが最重要ポイントとなる*5

 次節以降では、ここでも紹介した全能感、β-体験構造、β-秩序(あるいは後出のβ-IPS)といったものに関する理論モデルを用いて、「いじめ」や「いじめ」周辺の諸事象を説明する。


3・基礎理論
 筆者は、Inter-Intra-Personal領域という独自の研究領域を構築しようと試みている。これは当論考で提出するモデル群の基礎理論をなしている。筆者は、Stern,D.,Lacan,J.,Klein,M.,Bion,W.R.,Kernberg,O.F.,Kohut,H.,Stolorow,R.D,Scheler,M.,斉藤学などの心理諸理論から変形的に有用なエッセンスを抽出しつつ自説へ組み込んでいるが、諸説の紹介や比較検討は当論考の主題ではないこともあり、紙幅の都合上文献を十分に挙示することができなかった。錯綜した諸派のどことどこをどのように加工しつつ抽出したかというったことを含めた基礎理論の提示については稿を新たに主題的に論じることとし、今回は概略を提示するにとどめる。

 3−1・体験構造とIPS
 「いじめ」論において第1次的な重要性を有するのは、「いじめ」を多発・執拗化している現在の体験構造である。この体験構造に対して特権的に強い形成・活性化・強化効果を有するきっかけ要因が、「過去に無力な状態でいためつけられ(続け)ること」である。だが、このきっかけ要因に対する感応生には大きな個人差がある。また、この体験構造は、それほど劇的な効果をもたない様々な機能的等価物によっても促進・形成され得る。

 ところで、体験構造形成の端緒となるきっかけ要因を読み込む体験の枠組は、当の体験構造自体である。つまり、外的きっかけ要因が体験構造によって読み込まれることではじめて、当の体験構造を形成・産出するきっかけ要因が内的きっかけ要因として具現的に産出されるのである。この自己産出的システム特性によって、「いじめ」の体験構造は、外的事象に対してかなり大きな相対的独立性を有する。このことは先に述べた個人差の大きさとして帰結する*6

 さて、リアルな体験の基本的原理は、表象と具象とのマッチング、あるいは表象を具象において具体的に実現することである*7。このようなマッチングにおいてリアルな体験を成立させることを具現と呼ぶ。システムは、利害-現実計算の深謀遠慮のもとで、表象構造を検索・読出・書込しつつ具象とマッチする。この具現的現実体験のうちの多くは次の意味で社会的である。(1)表象構造のかなりの部分が社会関係についての表象構造である。(2)そのことから必然的に、他者に表象通りに振る舞ってもらうことが不可欠となる。(3)そのうえ心理システム自体がしばしば個を跳び越えて複数個体領域で作動系をなす。

 例えば「いじめ」の場合、やりきれなさを振り払おうと一次の全能の体験を生きるためには、実際に殴られて顔を歪める他者を外的具象として調達して、全能感の筋書を具現しなければならない。そのために、利害計算や安全確保といった「仕事」も増えてくる。表象にかたどられて体験を生きる人は、このように具体的な作業を通じて社会に出て行かざるを得ない。さらに、いったん「いじめ」の群ができてしまえば、一人一人の意志を超えた「群の勢い」によって動かされて流されてしまう。このような群のなかで諸個人は、単独ではそうならないであろう心理状態になる。またその流れに逆らうのは怖ろしいことでもある。

 以下IPSという概念を提出する。秩序化した社会関係のなかで外的具象が確保され、その具象とのマッチングに即して、内的関係表象構造が組織されつつ働く。と同時に、対他コミュニケーションの社会的秩序化は、各面バーの体験構造(表象構造あるいは心理システム)に基づくコミュニケーションの集積として成立していく。この全体を筆者は、次のようなシステムとして考える。すなわちそれは、(1)人々が社会や自己や他者を体験する枠組およびその操作のシステム(社会の中でのintra-personalな体験構造)と、(2)その枠組において体験されながら生起するコミュニケーションが連鎖・集積して自生する社会秩序(体験構造に基づくinter-personalな社会)とが、(3)螺旋状に他を産出しあうシステムである。このシステムを、IPS(inter-intra-personal spiral system)と呼ぶ*8。また、IPSの社会秩序としての側面に重点をおく場合、あるいは社会秩序をIPSという観点から考察する場合は、IPS秩序と言う場合もある。ここで螺旋状(spiral)と言うのは、体験構造に決定されるコミュニケーションの集積として社会秩序が産出され、そのように産出された社会秩序がさらに体験構造を許容する(およびその逆)といった、折り返しのループをなしてシステムが(単なる再現ではなく)ダイナミックに許容・生成していくからである。

 体験構造とIPSのタイプとして、α-、β-、γ-の系列が問題となる。当論考で中心的な役割を演じるのはβ-体験構造とβ-IPSである。α-とγ-の系列は、β-を説明するのに必要な限りでのみ取り上げられる。当論考の目的からすれば、γ-については前節で紹介した程度の規定で足る。

 

 3−2・α-体験構造
 Scheler,M.は次のように述べる。「高貴な人には、おのれの自己価値と存在充足についてのまったく素朴で無反省な意識、しかも彼の現実生活の意識的な各瞬間をたえず充実している闇黒の意識」あるいは「素朴な自己価値感情」がある。宇宙にはこの「積極的価値のほうが多く含まれているということで、「高貴な者」は歓喜に充たされ」世界は愛すべきものになる。この自己価値観状は「彼の個々の性質や能力や素質の価値にかかわる特殊な価値感情から「組み立て」られているのではな」い[Scheler,M.1915=1977:68-69]。

 ここで「闇黒の意識」とか「素朴な自己価値感情」とか言われているものの内実については、今まで誰も満足のいく答えを出していない。Stern,D.の自己-関係論[Stern,D.1985=1989-1991]は、この内実の乳幼児ヴァージョンにおける純粋型を明らかにした。乳児は個別のカテゴリー的な知覚様式の発達に先立って、時間の中での生のオーガナイゼーションの感覚として諸知覚貫通的に体験に偏在する(パタン化された変化についての)リズム的な抽象表象を有している。この表象が活性化する際の情動体験は、生気情動と呼ばれる。自己感は、対他カテゴリー的な役割感覚あるいは鏡像感覚に先立って、生物的にこのような生気情動として存在している。このような抽象表象-生気情動のシステムは、養育者との情動調律的コミュニケーションによって強化され、「自分が何であるか」に関わらない「無条件的な自己肯定感覚」の装置として、成体にビルトインされる。この感覚は生涯にわたって変形可能な仕方で生きられる。これが、Scheler,M.の言う「闇黒の意識」「素朴な自己価値感情」の内実である。成人後も、モーツアルトの音楽や朝の光、愛の関係や病後の感覚、さらには生きていることそれ自体、などで不明瞭に感じられるかもしれないが、様々なメカニズムが混在するなかに紛れ込んでいるので、それとして取り出すのは困難である。以上のような原的充足に関わる体験構造を、α-体験構造と呼ぶ。

 3−3・β-体験構造とβ-IPS
 以下で、〈欠如〉から全能感(の筋書の具現)を希求する体験構造、すなわちβ-体験構造を論じる。図1はβ-体験構造の模式図である。



 〈欠如〉は、迫害・拘束・無力・欠如・苦痛・屈辱・不幸・不運・ちぐはぐな環境といった様々な言葉で形容される否定的体験をきっかけ要因とする。しかし〈欠如〉は、たんなる欠乏や「いためつけられる状態」「生きることの耐え難さ」とは異なっている。認知-情動図式がこれらの否定的体験を明晰に把握しつつ、それ以外のα-体験も同時並行的に生きられている場合、その苦痛が大きなものであっても、ひとは〈欠如〉から守られている。例えば無力な状態で迫害され続けても、その迫害者をいつまでも明晰に敵と認識し続けて、「すりかえ」による体験加工を行わないでいれば〈欠如〉は生じない。

 〈欠如〉の基底的部分は、α-体験構造の崩壊を伴う認知-情動図式の漠然化である。この崩壊・漠然化には多岐にわたる原因あるいはきっかけ要因が考えられるが、そのなかで次のものが重要な位置を占める。(a)他者からの迫害、特に無力な状態で痛めつけられ続けること。これは「いじめ」誘発型のβ-体験構造に対しては特権的な形成効果を有する。(b)拘束、すなわち自由や自発性の剥奪。(c)α-IPSが実質的に存在しないところでの不釣り合いな心理的密着あるいは心理的距離の矯正的密着。(d)認知-情動図式のすりかえてき誤用(後にα-体験システムとβ-体験システムの関係のところで述べる)。

 学校という空間はこのすべてを満たす傾向がある。それに比して工場は(b)しかない。宗教には(c)(d)しかない。刑務所には(c)(d)がなく(a)の混入した(b)がある。軍隊でも(c)(d)が学校ほどではない。「いじめ」の場としての学校は、いわば軍隊-刑務所と宗教との統合である。学校では、実質的には薄情な関係を家族のように情緒的に生きることが強制される。子どもたちは、「いじめ」で強迫されながら「なかよし」が強制され、人生の初期から「精神的売春」をして生き延びなければならない。その結果、いわば不釣り合いに存在の内襞に滲み込んだ他人たちの内蔵の臭いに、殺意に似たわけのわからないムカツキを抱く。また、「本当は」誰が好きで誰が嫌いなのかが当人にも分からなくなり、その判断を集団的な新庄反射に頼るようになる。だから今まで個として仲良くしていても、「みんな」の風向き次第では「いじめ」に加わってしまう(事例3〜4)。「私の本当」を持つことは許されない。学校で集団生活することで、個として心理的距離を自律的に調節する能力が、著しく失調する。学校への適応は、情緒的対人関係とその中での自己感覚に関する認知-情動図式を徹底的に漠然化してしまう。

 α-体験構造の崩壊と共に認知-情動図式が漠然化してくると、何が問題でどうしたら充足できるかが把握できないまま、アラーム機能だけが鳴り響く。その結果、何をしていてもリアリティがずれた感覚に苦しみ、慢性的で漠然としたイラダチ・ムカツキ・空虚感をかかえることになる。このような〈欠如〉は当事者の曖昧な意識にとっては、すでに立ち現れた世界の中に一定の位置を占めて存在する何らかの〈欠如〉として体験されるのではなく、世界や自己が世界や自己としてリアルに体験される際に、その立ち現れの原理のところから常に既に奇怪な仕方で崩壊しつつ、「すべて」がごっそりと「ブラックホール」[Hopper,E.,1991]に呑み込まれてしまっているような、無限の底からの生の腐食と感じられる。このような認知-情動図式の漠然化の効果としての「すべて」あるいは無限の感覚は、慢性的な漠然としたイラダチ・ムカツキ・空虚感・落ち着きのなさといった仕方で体験される。これらは「いじめ」の場の一般的な気分である。

 このような無限の感覚に対してその逆を漠然と希求して、(認知-情動図式が漠然化し対象や充足の輪郭を失ったままに)充足を強引に引き起こそうとする生体の(進退窮まった猿が自分の指を噛み切るような)実験神経症的な反応が起こり、生体は認知-情動図式に対して無根拠なままに錯覚としての「全能」という希求価を創出してしまう*9。ここに錯覚としての〈欠如〉からの全能感希求が生じる*10。この希求体勢は、ただちに内的表象構造において一定の筋書のかたちをとる。そしてこの無限の望みが仮にかなえられたとすればそうであろう状態の筋書をなぞるかのような錯覚に耽るようになる。希求価としての全能感は、筋書のかたちをとらなければ、錯覚としてすらリアルに体験することができずにすみやかに雲散霧消してしまう。この筋書が全能感筋書である。

 この全能感筋書は、(a)自己表象(b)対象表象(c)随伴情動という3つが緊密に結合したユニット[Kernberg,O.F.,1976=1983]をなしてストックされており、状況に応じて検索・書込・読出される。この筋書ユニットの内部の自己表象-対象表象は極度に相互規定的で、片方の帰趨がもう片方の帰趨に即座に影響する。自己表象に対してこのような関係にある対象表象を、特に自己対象と呼ぶ[Kohut,H.,1972]。各ユニット同志は分裂-隔壁化していたり、圧縮-多重化していたりする。全能感筋書の随伴情動はしばしば強烈かつ執拗であるが、分裂-隔壁化しているユニットが状況に応じて置換するごとに人格が豹変する。筋書の内容としては、「完全なる支配」「合体-融合」「打てば響くような照らし返し」およびそれらを外された場合の「恥辱」「辱め・破壊し尽くし・思い知らせる復讐」といったものが、無数のヴァリエーションに対する基本形である。

 全能感筋書は、他者の表情や身振りでもって具現(外的具象とのマッチング)されなければ、錯覚としてすらリアルに体験することができない。全能感の筋書を具現するためには、他者を巻き込んで、その筋書に見合った一定の振る舞いをさせる必要がある。この意味で、全能感筋書は、具現を媒介にして行為やコミュニケーションと結合している。また、全能感筋書のために他者を操縦する他者支配が生じてくる。相手に自己対象(の具現素材としての振る舞い)を期待しながら全能感筋書を外された場合、〈欠如〉が露呈し、自己愛憤怒[Kohut,H.,1972]が生じる。場合によっては、その人が独自の生を生きていた、自分の身体の延長のように振る舞わなかった、といったことすら、自己愛憤怒の原因になる。その際そのような態度を「とられた」側は、しばしば実際に被害感を感じる。

 これまで論じてきた〈欠如〉からの全能感希求構造をβ-体験構造と呼ぶ。これまでは線形に〈欠如〉から全能感希求構造を導いてきたが、実際にはこの二つは結合した全体の中で産出され合っており、バラバラに存続することは難しい。以下、β-体験構造をシステムと考えて、もう一度螺旋状に理路をたどってみる。

 オリジナルな欠如は、α-体験の欠如である。これを1次欠如と呼ぼう。この1次欠如が充足されれば、単純明快に欠如感は消失する。多くの人は、多かれ少なかれα体験を生きており、ある程度は単純明快な原的充足の状態にある。と同時に、さまざまな環境要因の中で、多かれ少なかれ、ある程度の1次欠如をも生きている。このようなまだらの状態が、ありふれた生の姿である。

 ところがβ-体験システムは、1次欠如を全能感の〈欠如〉にすりかえて、全能感筋書を追い求めるように欠如感の方向を向け換える。1次欠如は当人には感じられも体験されもせず、ただ全能感の〈欠如〉(2次欠如)だけがリアルに体験され、全能感希求行動体勢に入ってします。α-体験システムは機能不全を起こし、生体は、オリジナルであるα-体験ではなく、似て非なるコピーである全能感の方をオリジナルと学習してしまう。真の欠如点は全能感筋書のいわば疑似餌に置き換えられる。しかし、2次欠如に準拠してどんな行動を起こしてもα-体験システムは充足せず1次欠如は埋まらないから、全能感筋書は限りない行動へと人を駆り立てる*11。その時ひとは、何をしてもリアリティがずれた感覚に苛まれ、いらつき・むかつきを昂進させながら、焦燥感に駆られて過剰な活動をくりかえす。

 β-体験システムが体験構造にくい込めばくい込むほど、すなわち、全能感希求に準拠して内的表象構造を組み・認知-情動図式を作動させればさせるほど、α-体験システムの認知-情動図式は崩壊する。その際、α-体験システムは、何が充足であり・何が欠如であるのか、あるいは何が自己の修復であるのかを弁別する「(自己)認識部門」が崩壊するが、β-体験システムを立ち上げるのに必要な、「欠如があるので修復せよ」「どこかが故障しているので体験構造を修復せよ」といったアラーム機能だけは温存される。こうして、β-体験システムは、α-体験システムの自己認識性能を奪ったうえで、アラームプログラムを立ち上げ、それを自システムに接続して、「1次欠如充足」および「α-体験構造修復」というプログラムを、「全能感筋書具現」および「β-体験構造生成・組織化・再産出」に書き換える。α-体験構造の崩壊産物としてのアラーム機能は、β-体験構造が生成される際の端緒あるいは起動装置となる。すなわち、β-体験システムは、α-体験システムの部分的破壊によって〈欠如〉を再産出し、その〈欠如〉を端緒として自己を再生産する自己再産出的システムである。あるいはβ-体験システムは、α-体験システムが自己産出するための認識装置に自己の情報を書き込み、α-体験システムの自己産出としてβ-体験システムの自己産出をさせることで、自己を産出している。こうして、β-体験システムがα-体験システムの機能的代替え物として確立する。この機能的配置の確立は、ますますα-体験システムを機能不全に陥らせる。このすりかえによって生じたα-体験システムの充足不全によって、〈欠如〉はますます昂進し、生体は欠如信号を出し続ける。

 だが、このすりかえのメカニズムは、〈欠如〉を再産出するメカニズムの一部に過ぎない。これは、前に〈欠如〉の原因あるいはきっかけ要因として挙げた(a)〜(d)のうちの(d)である。(d)の他に実際の行為あるいはコミュニケーションを媒介にして、β-IPSの内部で〈欠如〉とβ-体験構造は再産出される。

 β-体験構造とコミュニケーションとを媒介するのは具現である。β-体験構造は、β-IPSのなかで具現を通じてはじめてリアルな体験を獲得することができる。ひとは具現に駆り立てられ、この具現を通じて行為やコミュニケーションが生じる。これまで論じてきた〈欠如〉と全能感希求のメカニズムは、体験構造の内部(intra-personal)にとどまらずinter-personalな領域を創発しつつ、さらにそこから体験構造に折り重なっていく。

 「いじめ」関連諸事象から照らし出される・β-体験構造を主要な構成要素としたβ-IPSは、(1)β-体験構造と、(2)β-体験構造において具現的に引き起こされる行為やコミュニケーションの連鎖・集積して自生する社会秩序とが、(3)その行為やコミュニケーションの〈欠如〉促進的な効果を媒介にして、(4)螺旋状に他を産出し合う、特殊なIPSである。

 以下、これまで論じてきた基礎理論に準拠しつつ「いじめ」関連諸事象を分析し、様々な有用な理論モデルを構築していく。


4・全能感筋書ユニットの圧縮-転換モデル
 自分の目的追求にとって障害となる相手の意志を粉砕するために威嚇や苦痛を与える、といった目的のための手段としては、「いじめ」の迫害様式はあまりにも手が込んでいる。よくここまで思いつくものだと感心せざるを得ない「いじめ」の様式を、子どもたちは創造する。例えば、手に積ませたおがくずにライターで火をつける。足をはんだごてで×印に焼く。ゴキブリの死骸入り牛乳を飲ませる。靴を舐めさせる。便器に顔を突っ込む。性器を理科の実験バサミではさんだり、シャープペンシルを入れたりする。被害者が死んでもおかしくないような激しい暴力にも、歌や奇妙な命名や振付がしばしば付随する。以下では、全能感筋書ユニットの圧縮-転換モデルによって、これまで理解不能だった多彩かつ奇妙な「いじめ」の様式にアプローチする。

 前出の図1のなかに「全能感筋書ストック」とある部分を拡大したのが図2である。図2の全能感筋書のユニット(A、B…)は、(1)自己表象(2)対象表象(3)随伴情動のセットであり、他のユニット群と分裂され隔壁化されている。状況に応じてユニットが切り替わることで、状況次第で一貫性のない人格群が断続する。図2の各ユニットを分ける横線(実践)は、分裂-隔壁化を表す。認知-情動-情報処理装置の中の全能感筋書ストックに対して、検索・書込・読出がなされる。



 図2のAユニットとBユニットは必ず分裂-隔壁化している。Aユニットは、β-体験構造の内部での〈欠如〉にかかわる筋書のひとつでもある。Bユニットは「いじめ」関連諸事象にかかわる特殊な全能感筋書である。全能感筋書の自己表象と他者表象は、一般に「誇大自己−照らし返す完全な対象」という構造を有している。これには様々なタイプがある。そのうち、「いじめ」関連諸事象に関わるBユニットの全能感筋書は、「パワー」あるいは「完全なコントロール」を主題とする特殊な全能感筋書である。すなわち、(1)「完全にコントロールする」自己表象と、(2)「完全にコントロールされる」他者表象と、(3)随伴情動としての全能感、からなる筋書構造である。



 図3は図2のBユニットをさらにサブユニットに展開したものである。「完全なコントロール」を主題とする全能感筋書ユニットには、次の3つのサブユニットがある。(1)「主人と奴卑と随伴情動としての全能感」、(3)「遊ぶ神とその玩具と随伴情動としての全能感」、(3)「嗜虐コントローラーと崩れ落ちる被虐者と随伴情動としての全能感」(以下、随伴情動としての全能感の項は省略)。この3つは「相手が主体性をもっていることをこちらが把握したうえで、その自由を前提にして、その自由をいかに踏みにじるか」という遊びである、という点では共通している*12

 (1)「主人と奴卑」の場合は、体験世界の用具的秩序を動かさないで、その秩序の上で利便性に準拠して命令する主人と、命令に忠実に従う奴卑のセットである。

 (2)「遊ぶ神と玩具」の場合、神は、新たな接続線を引いて世界の脈絡の別次元を強引に結びつけ、思いのままに世界の現実そのものを一気に破壊しつつ再創造し、その思いもよらぬ形態変化の愉快なかたちに笑い転げる。ここでは、「主人と奴卑」と異なり、用具性・利便性の地平そのものが変形する。

 (3)「嗜虐コントローラーと崩れ落ちる被虐者」は、ストレートな暴力のパワーそのものを楽しむ筋書である。

 これらの筋書を具現する素材として、いわば「おもちゃ」身分の者とも言うべき、「いじめ」られっ子が使用される。「いじめ」られっ子は全能感筋書を具現するための容器[Grinberg,L.,Sor,D.&Bianchedi,E.T. 1977=1982]である。容器とは、内部に侵入しかきまわし・相手の内側から己の全能を顕現しつつ生き直し・自分が癒される、といったことのために使用する容れ物である。「いじめ」られっ子が、適切な仕方で容器として機能することで、全能感筋書が具現され、「いじめ」っ子の体験構造が救われる。「いじめ」を生きる者たちは、全能感筋書を具現して自己を補完する他者、自己の延長として情動的に体験される他者、すなわち「おもちゃ=自己対象」を切実に必要としている。この体験構造ニーズが、「いじめ」の執拗さをもたらしている。

 上記の3つのユニットにおいては、自己表象と他者表象が極度に相互依存的(自己対象的)である。例えば、「奴卑」が打てば響くように恣意に応え、意のままにならなければ、「主人」自体が崩壊してしまう。「おもちゃ」が、「創造」の恣意に応えて打てば響くように、新たな意味の組み替えや別次元の存在との結合によって、鮮やかな形態変化を起こしてくれなければ、「砂遊びをする神」は死ぬ。「被虐者」が、意のままに「崩れ落ち」てくれなければ、「嗜虐コントローラー」は「パワー」の感覚に満たされることができない。このような意味で「完全にコントロールする」自己は、自己の存立に対して、「完全にコントロールされる」他者からの応答性をあてにしている。これらの応答性を資源とした全能感筋書の具現ができていない場合、〈欠如〉が露呈してしまう。

 身分が下の者が思い通りに「いじめ」られてくれない場合、この〈欠如〉が露呈することによって、「いじめ」の加害者側の方が被害感と激怒を爆発させる。全能感筋書の具現を期待していた者がそれを「はずす」ことに対しては、自己愛憤怒が生じる。この自己愛憤怒が生じているときには、特に「嗜虐コントローラーと崩れ落ちる被虐者」が誘発されやすい。自己愛憤怒は、崩壊しかけた自己のまとまりの感覚を、「パワー」あるいは「コントロール」の感覚で再活性化させようとする営為、という側面を有している。ただし、「嗜虐コントローラーと崩れ落ちる被虐者」が惹起したからといって、自己愛憤怒が起こっているとは限らない。

 上記の3つのサブユニットは、分裂-隔壁化していない。むしろ、圧縮-多重化しやすい。圧縮-多重化とは、1つの夢の事象に複数の筋書が圧縮して込められているように、1つの(この場合は「いじめ」)行為に、複数の筋書ユニットが結合し・圧縮され・多重的に具現されることをいう。圧縮-多重化可能なユニット同志の分割線を、図3では、点線であらわした。このように圧縮-多重化しつつ、状況の推移に応じて筋書ユニットは絶えず切り替わる。この切り替わりを転換-推移と呼ぶ。

 (1)「主人と奴卑」、(2)「遊ぶ神と玩具」、(3)「嗜虐コントローラーと崩れ落ちる被虐者」という3つのサブユニットが圧縮-多重化しつつ転換-推移していくという理論モデルは、これまで理解不能だった多彩かつ奇妙な「いじめ」の様式を明晰に説明する。このモデルを、全能感筋書ユニットの圧縮-転換モデルと呼ぶ。

 【事例・7】 「和夫は…「おい、次郎。パンとジュースを買ってこい」と命じた。…。和夫にしてみれば、一年生のころから何度となくやらせていた日常的な使い走りである。…。まったく意外なことに、次郎は「いやだ。みつかったら先生に叱られる」と断った。命じればなんでもやる。必ず言うことを聞く。「だから次郎はオレのいい友達なのだ」と考えていたボスは、思ってもみなかった拒否に遭い、…不審に思った。不審の念はやがて、抑えようのない怒りに変わる。命じた用事を拒まれたからではなくて、おのれの存在そのものを拒否された怒りだ。…。「さっきのあれはなんだ。てめえ、オレの言うことが聞けないのか」。次郎は答えない。無言のまま、拒絶の表情を浮かべている。和夫は少しうろたえ、とっさに体勢を立て直し、おどし道具を取り出した。ビニール・コードの一方の端の被覆をはぎとり、銅線をむき出しにして球に丸めたものだ。…「おめえ、ほんとうにいやなのか」…。…。次郎は突如として床に膝をつき、両手を下ろし、土下座の格好となって言った。「これで和夫君と縁が切れるなら、殴っても何をしてもいいです」…。和夫はいきり立った。「今、なんと言った。もういっぺん言ってみろ!」床に這いつくばった少年は、やっと聞き取れるぐらいの声で言った。「これで和夫君と縁が切れるなら、何をしてもいいです」。夏休みの間中にけいこでもしてきたような同じ言葉。「やろう、オレをなめるのか!」和夫はビニール・コードを振るった。第一撃は頭に命中し、二発、三発とたてつづけに腕や手の甲で音を立てた。見る間に、真っ赤なみみずばれが走る」。[佐瀬,1992:162-165]

 「主人と奴卑」の全能感筋書を具現すべく次郎に使い走りを要求した和夫は、それを拒まれて〈欠如〉が不気味に迫るほど動揺し自己愛憤怒が生じる。それに誘発されて「嗜虐コントローラーと崩れ落ちる被虐者」が呼び出されて具現される。すなわち全能感筋書が、自己愛憤怒を介して「主人と奴卑」から「嗜虐コントローラーと崩れおちる被虐者」へと、転換-推移したのである。

 「いじめ」られる者はしばしば、それを避けようとする素振りを(特に受動攻撃的な仕方で)見せる。相手を明晰に敵とみなして逃げるか闘うかするのではなく、強者の容器あるいは自己対象としてとどまりながら、同時に部分的に避ける素振りをするか、あるいは受動攻撃的な弱々しい反抗(例えばミスによる「チクリ」、奉仕の非効率化、釣り銭の着服など)をする。すると、「いじめ」っ子は、長期にわたり反復的にむず痒いような自己愛憤怒を起こしやすい。そして、相手を痛めつけて逃げられないようにして使用可能な容器として補修・維持する、「しつけ」という手段的行為(具象)において、「嗜虐コントローラーと崩れ落ちる被虐者」(表象)を具現する習慣が生じやすい。この「しつけ」を日常的に繰り返す場合、「遊ぶ神と玩具」が圧縮-多重化されやすく、「暴力的な-あそび型-いじめ」がエスカレートする。「いじめ」がエスカレートする経過においてはしばしば、「しつけ」と結合した「嗜虐コントローラー」に「遊ぶ神」が圧縮-多重化し、それが習慣化していく。例えば「中野富士見中葬式ごっこ自殺事件」の鹿川裕史君は、真冬に裸の背中に水をかけられた上でコンクリートの滑り台を背中ですべらされ、木に登らせて歌を歌わされ、そのうえ木を揺すられ、タバコを大量に吸わされ気絶する[豊田,1994; 門野,1986]。また、事例7のエピソードの後に、次郎はタバコを7〜8本立て続けに吸わされ嘔吐し、和夫は笑いころげる。このようになるのも、筆者の理論モデルからは予想通りの帰結とも言える。「いじめ」がエスカレートした結果、二人とも最後には自殺している。部分的-中途半端に迫害者とずるずると「なかよく」しながら少しずつ状況を改善しようとする−−このような「改善」は迫害者には慢性的に裏切りと体験される−−ことは、非常に危険である。一気に相手をおそれさせるような仕方で、公権力による処罰可能性を現実的なものにしつつ抗議あるいは告発をすれば、相手は意外なほど簡単に手を引き、別のターゲットか別の全能感具現様式を探索しはじめる。

 相手が泣くことは、被虐者が自他の分離をほどいていく「崩壊」を具現するゆえに、「完全なコントロール」を基本的な筋書とした全能感には、しばしば、なくてはならない具象である。泣かずに自他の境界を維持しつつ、全能者の「あそび」に対して自立した個であり続けることは、「いじめ」る側の全能性に対する許しがたい冒涜であり、自己愛憤怒をもたらす。「いじめ」の場で「いじめ」られる者が泣かないことは、しばしば、「みんな」の全能感をなかだちとした共同性に対する「傲慢の罪」を犯すことでもある。事例5で若林らが、「泣いて」融和することをしないE子を「異常」視するのも、このコミューン的文脈においてである。

 また、口、性器、肛門、排泄物にまつわるものといった、身体の開口部に関する具象が好まれるのも、自他の境界を破壊し、内部に侵入しつつかき回したり汚染させたりして、内側から被虐者が崩れ落ちる「嗜虐コントローラーと崩れ落ちる被虐者」の筋書をリアルに具現-体験できるからである。さらに、別次元の存在との結合による形態変化の愉快さを伴う「遊ぶ神と玩具」の創造性が加わると、ただ単に迫害するだけではなく、草を食わせたり、ゴキブリを粉末状にして牛乳に入れたり、性器を洗濯ばさみではさんだり、団結して帰国子女の肛門にボールペンのキャップを入れたり、といった加工・創造を笑いころげながら行うことになる。

 遊び型暴力「いじめ」においては、「笑いながら新たな結合において新しく世界を創造する遊ぶ神と崩れ落ちる被虐者」とを、1つの行為において圧縮-多重化しつつ、同時に具現することができる*13




[後半に続く]

*1:当論考は「いじめ」論の知識社会学を主題とするわけではないので、筆者が目を通した250点前後の文献を一つ一つ引証することは、紙幅の都合上不可能である。

*2:なかには(7)や(8)や(15)や(17)のように誤っているものもある(このことについては稿を新たに論じることにする)。

*3:例えば森田洋司は、上記3軸の6つの属性をすべて指摘している[森田・清永,1986→1994;森田,1987]。

*4:例えば竹川郁雄は、冒頭に紹介した事例2の直後の箇所で、「成長過程における団結心の表現としてのいじめは、ただちに粉砕すべきものではないであろうし、そのようなグループを解体することによって逆に子どもたちの対人関係をそこなう可能性もある」と述べている[竹川,1993:121]。このような考え方は「いじめ」論のなかではポピュラーなものである。

*5:現在よく見られるような「いじめ」のエスカレートの原因は、(1)学校が強制的なコミューンであることと、(2)「いじめ」が罰せられずに利害にかなっていること、である。その対策は、学校を聖別されたコミューンから市民社会の一員に戻し、個人を中間集団共同体の専制から守るための、法規の改正と制度の再構築である。学校を市民社会化する社会工学的(社会的設定条件を制御する)政策は「いじめ」のエスカレートを確実に激減させる。ちなみに、日本で有効な対策が現実化されず、「いじめ」問題が(これほど問題化されながらも)長期にわたって改善しないのは、「学校」「教育」なるものを神聖なもの(集合的な「生命」!)にしておきたい学校コミューン-イストたちが、敵対的補完構造をゆるやかに形成する右と左の両支配勢力を占めてきたからであり、さらに「いじめ」を問題化する熱心派グループも(ほど!)その枠組の中でしかものを見ることができなかったからでもある。残念ながら、当論考の課題は、実体の分析と理論モデルの構築に限定されている。このような課題については、別の機会に稿を改めて論じるつもりである。

*6:ルサンチマン論の次の2つの主軸はこれまで十分に接合してこなかった[Nietzsche,F.W.1968〜=1983; Scheler,M.1915=1977]。(1)過去に無力な状態でいためつけられ(続け)た恨みを別のところではらす契機。これは「いじめ」論においては(素朴なエネルギーモデルの)「いじめ鬱憤晴らし」説になっている。しかし、実際には個人差の影響が大きく、過去に「いじめ」られた者が必ずしも「いじめ」をするとは限らない(その逆も然り)。(2)認知-情動図式が漠然化し、オリジナルな対象志向構造から切り離される契機。これは「人間的領域の中で充実した自己を生きる基本が形をなさなくなってきた」という(単純な構造解体モデルの)「いじめアノミー」説に対応している。しかし、「いじめ」の周辺に見られる大部分の「アノミー」の背後には、過去に「いためつけられた」体験が(その形成原理に食い込んだかたちで)見え隠れしているのも、事実である。また「でたらめな者たち」にも「でたらめな者たちなりの」秩序と体験構造が厳然とある。上記の2軸は単独でも、現象表記としては(粗雑ながらもある程度は)正しいが、あたかも(粒か波かといったふうに)対立するかのように論じられがちである。すでにNietzsche,F.W.・Scheler,M.という鉱脈を探り当てた阪井敏郎は、そのルサンチマン論に即して「いじめ」を論じ、当然のことながら上記2軸を表裏一体と観る[阪井,1989]。筆者が提出する理論モデルはルサンチマン論の(上記2軸を含めた)諸相を、システム論的に統合しつつ現代的に発展させる形にもなっている。

*7:このことは、廣松渉の対象的側面の二肢的構造[廣松,1972→1991:44-51]やStolorow,R.Dらのconcretization[Stolorow,R.D&Atwood,G.E.1992:44]と大まかには当てはまるが、α-領域に対する妥当性に関しては今のところ保留しておかざるを得ない。しかし、当論考の主題はβ-領域のメカニズムであるから、大雑把にはこのように言ってもかまわない。

*8:このIPSという命名見田宗介先生の御助言によるものである。

*9:これとは対象的に、α-体験を生きている場合その望みのかたちはあ有限である。

*10:このあたりの論理展開は大まかにLacan,J.の鏡像モデル[Lacan,J.1996=1972]とも対応する。

*11:斉藤学のすりかえ理論を参照した[斎藤,1988]

*12:このことを指摘して下さったのは三宅芳夫氏である。

*13:人を死に至らしめた場合ですら、「いじめ」る側を弁護する者たちや、「いじめ」る者たち自身、そして学校コミューンの擁護者たちは、しばしば「遊んでいただけだ」と言う。これまで論じてきたことから、彼らの主張が事態を正しく言い表していることがわかる。「いじめ」る者たちは「あそんで」いる。少年たちのこの「あそび=いじめ」の内実を明晰に認識することは、時には他人を死に至らしめるような少年たちを、免罪したり快適な「居場所」をみつけてやったりする理由ではなく、少年法を改正し加害少年を犯罪者として扱う根拠となる。すなわち、これまで学校コミューン主義とセットになった童心主義の文脈で語られてきた「あそび」の内実は、全能感筋書ユニットの圧縮-転換モデルによれば、大人の快楽的嗜虐と同一のメカニズムによる全能感希求行動であり、「なぶり殺し」というときの「なぶり」の部分に相当する。司法の領域では、この「なぶり」は、著しく人道に反する行為として(免罪の理由どころか)最も重い刑を科す理由になる。さらに、後に論じる全能感筋書と利害-現実計算とのマッチングは、その内実が明らかになれば、法廷では、「あとさきを考えない短慮」ではなく、「彼らなりの場の論理を前提とした狡猾さ」としてカウントされるはずである。