「いじめ」ブックガイドのある考察

1995年、『ほん 1995年2月20日号』(東京大学生活協同組合)に掲載された内藤朝雄さんの文章です。いじめ問題に関連する書籍を9冊取り上げ短評をつけながら、子どものいじめが「われわれ自身」の問題であることを指摘しています。


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「いじめ」ブックガイドのある考察
実に多くの大人たちが、「いじめ」を語り出した。そして、その語ること自体が、「いじめ」の意味を変動させている。

「弱いものいじめ」というように、以前は個人的営為にアクセントが置かれていた。80年代半ばから、学校空間で生じる特有の迫害現象をプロトタイプとして、ある独特の集団の力にアクセントが置き直された。現在では、そこから再び種々の大人の生活領域一般に転用されて、「いじめ」が語られる傾向もでてきた。

大人たちは子どもの「いじめ」を懸命に語ることで、実は自分たち自身のみじめさを語っている。「日本的組織」では、精神的な「売春」とも言うべき「仲良しごっこ」が身分関係と織り合わされて強いられ、そのことで恣意的な人格支配が諸個人の市民的自由と人格の独立を奪う。また正義が通用しないあいまいな有力者の「縁(ネットワーク)」を頼らなければならない。大人たちは、このような「世間」で卑屈にならざるを得ない屈辱感を、圧倒的な集団力にさらされている「いじめられっ子」に投影し、安全な距離から「不当な仕打ち」に怒っている。その投影をもう一度自分たちの側に引き受け、美しく生きるためには闘わなくてはならないことを自覚すべきだ。

問題はわれわれ自身だ。「いじめ」という典型的現象は、自分の姿を映し出す鏡として大人にとって意味がある。

この問題関心から問われるのは、子どもたちがどのような「世間」を生き、自己や関係についてのリアリティがどのように変形されるかだ。その「世間」について、いくつかの書籍がヒントになった。

豊田充『「葬式ごっこ」八年後の証言』(風雅書房)。「どんなに仲良さそうにしてても、心のどこかでおびえている。」「学校で毎日、世間を渡っている、という感じだった」。弱いと見られたらつけ込まれるから、強がる。付和雷同してその他大勢に入ると、安心する。

「世間」は、子どもたちが感情状態の連鎖を生きる濃密な共同体でもある。クラスはすぐにもりあがる。「やっちゃえ、やっちゃえ」。

「世間」では、感情連鎖の場への同調がそのまま集団的な心情の掟でもある。その感情連鎖の掟は「あそび=弱者使用」の掟でもある。強い者は自己システムの綻びを補完するために、弱い者や場にそぐわない者を、打てば響くように自分たちの恣意に応えて全能感をもたらす「おもちゃ身体」として「使用する=あそぶ」権利が生ずる。また、弱者の心理システムを改造しながら「使用」しやすいように「しつけ=飼育」する権利も生ずる。自己を全能感で補完するためのこのような「使用」と「飼育」の体系として、子どもたちの「世間」には「身分体系」が自生する。「人間を飼い慣らすなんて…」と大河内清輝君が嘆くのはこのことについてだ。中日新聞『清輝君がのこしてくれたもの』(海越出版社)。芹沢俊介『現代子ども暴力論』(春秋社)。西山明・田中周紀『さなぎの家』(共同通信社)。

この「飼育」方法はしばしば、学校教員の「教育」方法から学ばれる。例の女子高生コンクリート詰めの強姦飼育少年たちはその典型だ。横川和夫・保坂渉『かげろうの家』(共同通信社)。

「使用」と「飼育」から成る子どもたちの「世間」には独自の「ただしさ」があり、子どもたちはそれに対してかなりの自信と自負を持っている。個人の尊厳や人権といった、普遍的なヒューマニズムは、自分たちの感情連鎖の秩序を踏みにじるものとして、反感と憎しみの対象になる。

竹川郁夫『いじめと不登校社会学』(法律文化社)。「(いじめを)やる人もそれなりの理由があるから一方的に怒るのは悪いと思う。その理由が先生達から見てとてもしょうもないものでも、私達にとってとても重要なことだってあるんだから」「先生はきらいだ。いじめた人の理由、気持ちもわからんくせに。」

青木悦『やっと見えてきた子どもたち』(あすなろ書房)。阪井敏郎『いじめと恨み心』(家政教育社)でも引用。ある中学校で浮浪者襲撃事件について青木氏が講演したとき、中学生たちは反感でいっぱいになった。突然女生徒が立ち上がり「遊んだだけよ」と強く、はっきり言った。他の生徒たちも同調する。中学生たちは、自分たちの「自生的秩序(浮浪者殺しは正しい!)」を知らずに普遍的なヒューマニズムを「押しつけ」ようとする青木氏の「愚鈍さ」と「傲慢さ」にイライラしたような腹立ちを見せた。

朝日新聞マット死事件』(太郎次郎社)。事件のわからなさを中心にしたドキュメントである。だが、もっと重要なのは、「地域に染まらない」被害者の家族を迫害することが事件後も「ただしい」ことでありつづける子どもたちの「世間」であり、その悪口を言い続ける地域社会の「ただしさ」と「自信」である。事件後、容疑者の弟妹たちと付和雷同組数人が「殺された」児玉有平君の妹を自宅玄関前で取り囲み、「兄ちゃん殺されてうれしいだろう」とはやしたてたことは、殺人そのものよりも衝撃的である。子どもたちの「ノーマル」な社会が、そのようなものであるとは! そして、われわれの…。

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■紹介された書籍

  • マット死事件―見えない“いじめ”の構図

  • やっと見えてきた子どもたち―横浜「浮浪者」襲撃事件を追って

  • いじめと恨み心

  • いじめと不登校の社会学―集団状況と同一化意識

  • 清輝君がのこしてくれたもの―愛知・西尾中2いじめ自殺事件を考える

  • 現代「子ども」暴力論

  • さなぎの家―同級生いじめ殺害事件

  • 「葬式ごっこ」―八年後の証言

  • かげろうの家 女子高生監禁殺人事件