用途限定の世界政府

現時点で人類史上最も重要なオピニオンを出した。こうすれば核戦争を回避できるというアイデアだ。私が書いたいじめの記事にくらべて、読む人の数が極端に少ない。この重要性に気づいた人は、だれか世界各国の言語(特に重要なのは中国語、ロシア語、英語)に翻訳して世界に発信してほしい。これは全人類に向けて書いたものだ。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52788

アウトラインはきわめてシンプル。
★核を放棄すれば北朝鮮は攻められないという信用形成が重要。
アメリカ一国ではなく、中ロEUインド‥‥を含めた実力行使の力をバックにした、国を超えた「用途限定世界政府」を生み出しつつ、「世界政府」の名で約束する。もしアメリカが約束を破った場合、アメリカ対アメリカ以外の全世界の対決となるので、アメリカは約束を破ることができない(というストーリー)。特に、中ロがアメリカに対して、約束を破ることをゆるさないという強い態度に出ていれば、その信用は強まる。逆に北朝鮮が約束を破れば、アメリカだけでなく、中ロからも攻められて北朝鮮は瞬時に消滅する。この場合、攻めるのはアメリカよりも中ロ主力の方が犠牲が少なく、後の緩衝国家形成のためにも好ましい。
★核戦争回避のためという「用途限定」がポイント。
★用途限定の世界政府は、これから核拡散を抑止するための、用途限定の絶対権力として、人類に平和をもたらす。核武装をしようとすれば世界政府に攻め滅ぼされる。しかし世界政府は、核戦争防止以外の用途では存在しないから、核武装さえしなければ今まで通り主権が侵害されない。
★「用途」以外では、力を使わない。今まで通り、各国は足の引っ張り合いで、バランスをとっていればよい。









私が書いた記事。
一つは「いいね」が一万近くついている。もし100人に一人が「いいね」をつけたと仮定すると、すごい数の人が読んでいることになる。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50919
このシリーズで、「いいねが」数十個しかついていない、日本人が興味をもたない記事がある。それは、日本人の視野が狭く、愚かだからだ。北朝鮮が核攻撃をするとすれば日本であり、自分たちが死ぬかもしれないのに。福島原発事故のときと同じ愚かさだ。この記事をきちんと読んでほしい。歴史は、この記事を最も高く評価するだろう。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52788
そして、2018年の人類は、内藤の言葉に耳をかたむけるべきであったと、結論づけるだろう。この方法によって、朝鮮半島危機を解決し、核戦争を回避できたのに、と。
もし人類が滅びていなかったとすれば。

全体主義としての教育の論理

拙著『いじめと現代社会』(双風舎、2007年)pp.114-119  (初出 『図書新聞』2006年5月20日

全体主義としての教育の論理

1991年7月28日、瀬戸内海の小佐木島にある「風の子学園」で、坂井幸夫園長が、少年と少女を手錠でつないでコンテナに監禁し、熱中症で死亡させた。「風の子学園」は坂井が「スパルタ教育」で不登校や情緒障害児を直すと称して設立した教育施設だった。
 2006年4月18日、ひきこもり更正施設のNPO法人アイ・メンタルスクールで、入寮者の男性が外傷性ショックにより死亡し、杉浦昌子代表理事とグループ数人が逮捕監禁致死容疑で逮捕され、書類送検された。報道によればアイ・メンタルスクールは母親の要請により、何も知らされずに寝ていた男性を強制的にワゴン車に乗せ、社内で手足に手錠をかけて施設に監禁した。殺された男性は10人の大部屋で共同生活をすることを強いられ、おむつを着けられたまま鎖につながれていた。
 杉浦代表理事が同じく代表を務める同名の有限会社(アイ・メンタルスクール)が運営する寮の寮費とカウンセリング代は月13万円程度。「働かざる者は食うべからず」と指導し、「深夜までアルバイトをさせられる」といった苦情も、入寮経験者や親から出ていた。杉浦代表理事は、市民団体の会合で「鉄工所で働いたり、チラシ配りをしたりして、社会復帰をした人もいる。引きこもりは甘え、怠けの結果。しごいてやらないと治らない」などと話していたという。杉浦代表理事は、手錠などを使って引きこもりの若者らを施設に強制的に連れてくることを「拉致する」と呼んでいた。死亡した男性以外に、すくなくとも数人が鎖につながれていたことも判明した。入寮者の年齢構成は、10代から40代までであった(新聞各紙より)。
 このたぐいの最悪の情熱と行動様式は、これまでは学校で猛威をふるったが、いつのまにかNPOや社会運動へと転移していく。
 通常ならば適度な距離感覚に隔てられることによって起こるはずもない、侵入と暴力と強制的ないじくりまわしが、望ましい社会的な生き方へと他人を「人間解放」するという理想のもとで暴走する。よい社会的な生き方の理想は、それが人間存在の根底に到達するほどの深度を持てば持つほど、それが他者に強制されるときの厄災も大きい。
 このようなNPOや社会運動に血道を上げる者には、社会のなかで人が関係を生き生かされる本来的に望ましい生について、一家言をぶちあげるのが好きで好きでたまらない人たちが多い。そしてしばしば、それを最弱者とでもいうべき他人に強制する。最弱の他者たちは、その内から自己の理想を具現(具体的に実現)する肉塊となる。つまり蜂が芋虫に卵を産んで、その生の内側から自己を再生産するように、欲情した教育の怪物たちは「社会的不適」の印を押された者たちに侵入し、その他者の生の内側から、自分がそうでありたかった誇大な自己(パワーに満ちたNPO教育実践家)になり続ける。
 全体主義とは、単なる個に対する全体の圧倒的優位にとどまらず、網の目の細かい、人間存在の深部のところからの無理強いの教育によって社会が覆いつくされた情態である。バーリンはその『自由論』(みすず書房)で、ボルシェビキの指導者ブハーリンによる次のような言葉を引用する。
 「たとえいかに逆説的に聞こえようと、プロレタリア的強制はーー死刑執行から強制労働にいたるそのあらゆる形態においてーー資本主義期の人間という材料から共産主義的な人間[性]をつくりだす方法なのだ」。
 こういった網の目の細かい強制=教育によって人間存在の深部から他人をつくりかえずにはおられない全体主義の原型を、みごとに描いたのは若きマルクスであった。つまり、人間が人間として成立する生成の現場において、疎外=よそよそしく距離に隔てられてあることを許さない社会構想である。若いマルクスジョン・レノンのように歌う。

 「…人間は、まさに対象的世界の加工において、はじめて現実的に一つの類的存在として確認されることになる。この生産が人間の制作活動的な類生活なのである。この生産を通じて自然は、人間の制作物および人間の現実性として現れる。それゆえ労働の対象は、人間の類生活の対象化である。というのは、人間は、たんに意識のなかでのように知的に自分を二重化するばかりでなく、制作活動的、現実的にも自分を二重化するからであり、またしたがって人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直感するからである。それゆれ、疎外された労働は、人間から彼の生産の対象を奪いとることによって、人間から彼の類生活を、彼の現実的な類的対象を奪いとる。」(マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫

 マルクスによれば、人間は不断に自然を加工しながら生産活動を生きるが、その活動は?共同的活動であると同時に、?当の共同性自体の生産であり、かつ?共同的活動における関係の結節点としての自己や他者(人間)の生産である。さらにそれは、?生産活動によって人間的に刻印づけられた人間的自然(そして自然的人間)の生産であり、?そのような生産の連鎖のループにおいて人間的と非人間的を分ける(いわば膜としての)人間本質=類的存在の生産でもある。この「膜=類的存在」が次の時点の生産の連鎖を誘導し、この生産の連鎖がさらに「膜=類的存在」の生産となるであろう(この生産の自己産出的ループはオートポイエーシスに近い)。
 これは、いわれてみれば、あたりまえのことである。どんな人間も、例外なく、このようなループを生きている。それは「よい・わるい」の次元ではない。人間に限らず、チンパンジーもこの程度の基本構造を生きているだろう。濃密に響きあっているときも、よそよそしく抽象的な擬制を生きているときも、よい人の上にも、悪い人の上にも、労働や生産の概念を拡大解釈して描いた人間のオートポイエーシス的な基本構造は降ってくる。
 しかし、このような人間存在のもっとも深部にある生成のループの地点に、若きマルクスは「こうあらねばならぬ」本来的な社会と人間の姿を導入する。
 つまり、抽象的な擬制による、よそよそしい距離を許さないのである。このような距離が上記ループの構成要素となるやいなや、マルクスは、それを類的存在の毀損と考える。つまり、人間的自然=自然的人間への働きかけ(労働)は、対象化された後にかならず「我がもの」として自己自身を直感できるように帰結しなければならない。人間としての人間は、このような人間でなければならず、社会はこのように革命されなければならない。
 この地点から、さきほどあげたブハーリンの発言や、さきの教育の怪物の地点までは、一直線である。
 人間は類的な諸関係の結節点なのであるから、その類的な存在に特定の価値が導入されるなら、その本来性に反した個に対しては、(本来の姿に引きもどすための更正としてならば)何をしてもよいことになる。
 また教育の怪物たちは、制作活動において自己を二重化し、教育的な働きかけによって生産された他者=「更正しつつあるひきこもり者」の内側から、自分がそうでありたかった、人間を根本から変えるパワーに満ちたNPO教育実践家を直感する。
 もし他者が望ましい類的存在でないとしたら、それは人間の疎外態であって、本来の人間ではない。そういう疎外態は、「消極的な自由」にとどまらない「積極的な自由」(注…消極的自由と積極的自由に関しては前掲『自由論』を参照)のためにも、「しごいてやらないと治らない」。これが疎外を許さない、全体主義としての教育の論理である。
 もちろん、他者とは、自己の働きかけに対して本来かくあるべきと直感する(直感したい)「類的」な自己像を与えてくれるとは限らない存在である。他者はおとなしく自己を二重化する鏡像におさまってくれるとは限らない。ときに、NPO教育実践家の手前勝手な創作活動によって創造された、疎外なきはずの世界のなかで自己自身を直感する刹那をすりぬけて、いわば自己未生の地点から自己を攪乱しているかもしれない存在(=他者)である。
 さて、アイ・メンタルスクールの場合は都市のなかでの賃労働を強いる集団生活であったが、エーエムルクスが描いたような「本来の人間的本質」を他人に強いてでも回復させようとする全体主義的情熱は、なぜか不払いの農本主義的な集団労働に向かうことが多い。
 「これはあなたにとってよいことなのですよ。あなたは隔てなくみんなであり、みんなは隔てなくあなたであり、みんなもあなたも美しい人間的自然のなかで汗を流す自然的人間なのですよ」、との美しい理想に酔う教育の獣たちは、不払いで強いられる労働が奴隷労働であることをきれいに忘れる。いや、むしろ「貨幣は人間の労働と存在が人間から疎外されたものであって、この疎外されたものが人間を支配し、人間はこれを崇拝する」(マルクスユダヤ人問題によせて」、『マルクスエンゲルス全集』第一巻、大月書店)であるから、不払い労働のなかにこそ、貨幣に汚されない(疎外されない)純粋性を見いだすだろう。
 と同時に、教育奴隷労働によって、ちゃっかりと人件費を浮かせたり、収益を得たりできるかもしれない。こういった団体がしばしば外部との通信を制限するのは、「人間的本質」を外部の汚れから守るためでもあり、かつ、「人間牧場」のあこぎな商売を守るためでもあろう。こういうところでも(こういうところだからこそ)、あくどい仕方で「利害が決定し理念が転轍(てんてつ)する」(ウェーバー『宗教社会学論選』みすず書房)のが人の世である。
 教育の獣たちは、「これは強制ではない」というかもしれない。一見強制のように見えても、真の人間的本質に向かう運動は、単なる「消極的自由」を超えた「積極的自由」の発露であるというわけだ。バーリンはこの「積極的自由」の危うさを訴えた(前掲『自由論』)。
 生の深いところで響きあって生きる領域は、けっしてルールとして強制してはならない。ルールとして強制してよいのは、共存のためのルールに関わる表層的な外形部分だけである。
 その意味で、共存のためのルールは乾いてスカスカなものである方がよい。つまり抽象的なものに対するフェテシズムとしての共存の枠組への適当(スカスカ)なコミットが必要になる。それは、一人ひとりにとって「本当に生々しくたいせつなもの」たちが共存できるための、それ自体「本当にたいせつ」ではないスカスカなものが各人の「本当にたいせつ」なものたちの上位に位置するーーこのような「転倒した」抽象的な擬制への、ほどほどのコミットである。強制してよいのは、そのようなスカスカのルールだけであるからこそ、多種多様な切実な生たちの平和共存が保たれ、最低限の強制は耐えやすいものになる。
 愛国心や「日本的な生き方」が国家によってルールにされようとしているいま、イエスのように叫ぶ必要がある。シーザーのものはシーザーに、神のものは神に、と。

                     (2006年5月20日

これは、私の反共主義宣言でもある。
右翼も共産主義に含まれる。

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

自由論

自由論

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

宗教社会学論選

宗教社会学論選

日本国憲法の基本価値は、「人類普遍」の人権、自由、平等でなければ

拙著『いじめと現代社会』(双風舎、2007年)pp.103-1106 (初出は『図書新聞』2006年2月18日)

 日本国憲法の基本価値は、「人類普遍」の人権、自由、平等でなければならない

1993年1月、山形県新庄市の明倫中学校の体育館で、ひとりの少年がマットに逆さに突っ込まれて殺された。地元新庄市では、殺された少年とその家族に対する悪口とデマが飛びかっていた。人びとが被害者を憎み、妬み、悪口をいう仕方から、等身大に生きられる小さな社会の像を描くことができるだろう。
 ほとんどの人は、被害者家族に面識がない。にもかかわらず、被害者の家族は金持ちで、リベラルで、個人主義で、幸福なマイホーム主義で…といった想像的なイメージが、「地元のわれわれ」によって憎々(にくにく)しげに語られる。そして、それと対比させて、「地元のわれわれ」の生き方が語られる。
 その「新庄文化論」は、戦後大衆向けに流布され続けた「日本文化論」に、きわめてよく似ていた。
 もちろんこういった「地元のきもち」は、事件の後、事後的に祭り=政りつくられたものだ。事件以前には被害者の家族は、ほとんどの人にとって単に面識がなかった。もともと「新庄文化論」は事件以前には流行していなかった。(マス・メディアが「自分たち」を醜悪に描く報道に対する反感をバネにしつつ)被害者家族の悪口を言いながら事件を語ることを通じて、憎々しげな「新庄ナショナリズム」が盛り上がった。
 (さらにこの「地元ナショナリズム」をマス・メディアが醜悪に描く…という悪循環のなかで、「自分たち」の語りが流行していったーーこれは、「犬を食べる中国人」という欧米の報道への反感から、「犬を食べて何が悪い!」という「われわれ犬を食べる中国人」のナショナリズムが盛り上がるのと同じ形をしている。多くのナショナリズムとナショナル・アイデンティティはこのような被害感情からつくりあげられる)。
 このような愚民の憎悪にもかかわらず、人権を最高価値とする憲法のもとでシステマティックに整備された法が、個人を保護する。「地元のわれわれと交わろうとしない、標準語をしゃべる金持ちの個人主義者」とレッテルを貼られた被害者家族に対する、地元の憎々しげな「きもち」を司法は踏みにじる。
 つまり、「ひととひととのあいだ」がそのまま情的に場をつらぬき、それが規範の準拠点となるタイプの秩序化の原理(愚民の関係主義)から、憲法が個の尊厳を守る。
 ちなみに「日本文化論」がまき散らす日本の「文化」や「伝統」なるものは、人びとが身近な関係の情態(空気)に屈従して生きる卑屈な様子を、さまざまな趣向で描いたものである。憲法は、1人ひとりの人間を個別の関係の結節を超えたものとしてとらえる。日本国憲法においては、個は諸関係のアンサンブルではなく、それ自体で無条件に尊いとする人間の聖なる物象化=人権こそが重要なのだ。愚民がどれだけ「ひととひととのあいだ」で被害者の位置価のずらし下げ(「日本文化論」的な共同態的関係規定)をおこなおうと、公権力は事件をほりくじ返し、人を殺した者は普遍的な法によって裁かれる。
 地元のある僧侶は、地元の関わりあいに即した「こころの成長」のために、事件をほりくり返すべきではないと言った。私はためしに、「ひとりの命が失われたのですよ」と言ってみた。予想どおり彼は、「なぜ人の命だけが、それだけ切りはなして特別扱いされるのだ」と憤慨した。
 もし「ひととひととのあいだ」の関わりあいがそのまま「ただしさ」の根拠となったら、どうなるか。関わりあいによって情の強度を強めていって、その強度が「決め」となる祭り=政りによって、「ただしさ」が決定される。そして殺された側が、「ひととひととのあいだ」の「文化」的価値から咎(とが)ありとされかねない。
 右派主導の憲法改正の動きの中で注意しなければならないのは、文化条項を入れられることだ。これは九条改正などよりもはるかに恐ろしい効果を有する。このことに気付いている人がどれほどいるのだろうか。憲法を組み立てる礎石(そせき)となる最高価値を、人権、自由、平等といったものから、「日本の文化と伝統」へと入れ替える動きを阻止しなければならない。
 私は普段ジャンクフードは食べないし、ジャンク本のたぐいは読まない。軽蔑すらせず、街のティッシュ配りのように視野に入らず通り過ぎていく。今回たまたま、日本で売り上げ一位の新書『国家の品格』藤原正彦新潮新書)を読み、あまりのでたらめさに驚いた。藤原が述べるような俗流日本人論は、学問的には『日本人論の方程式』(杉本良夫&ロス・マオア、ちくま学芸文庫)によって息の根を止められているはずである。また、西洋と非西洋に関するステレオタイプについては、『人間の安全保障』(アマルティア・セン集英社新書)、青少年の問題については『「ニート」って言うな!』(本田由紀内藤朝雄後藤和智光文社新書)、そして武士道については『戦場の精神史』(佐伯真一、NHKブックス)を参照されたい。これらの本を読むと、『国家の品格』で言われていることの一つひとつがまちがいであることが一目瞭然となる。
 『国家の品格』は、人権、自由、平等といった「西洋」の価値を価値下げし、「日本らしい」文化を持ちあげるための、内容的にはかなりでたらめな本である。しかし、このでたらめな論理のはこび方が、右派勢力が憲法改正時に文化条項を入れるとしたらこうなるであろうという筋書(すじがき)と、みごとに一致している。
 人びとの無知につけこんでさりげなく文化条項を入れることによって、いつのまにか憲法の基幹的価値を、人権、自由、平等から「日本の文化と伝統」に入れ換える「クーデター」に、このベストセラーは利用されるだろう。
 憲法改正に文化条項を入れることは、きわめて危険なことだ。私は、憲法改正に文化条項を入れられてしまうことに対する強い危機感がなければ、このようなジャンク本を話題にしようとも思わない。
 もう一度いう。憲法の基本価値表明部分に「日本の文化と伝統」を入れる動きを阻止しなければならない。日本国憲法の基本価値は、民族主義ではなく、「人類普遍」の人権、自由、平等、そして人間の尊厳が要請する平和でなければならない。
 中井久夫は「戦争の恐ろしさを知る世代が死滅した時に新たな戦争が起こる」(『清陰星雨』、みすず書房)と言っているが、いま民族主義の暴走の恐ろしさを体感する世代が死滅しようとしている。この恐ろしさを体感するために、わざわざ生命の危険をおかして紛争地帯を旅行する必要はない。映画「ホテル・ルワンダ」を見るだけで十分だ。

                   (2006年2月18日)

 追記 オバマ大統領広島演説

http://mainichi.jp/movie/video/?id=4916740977001

 以下の内容は、日本国憲法そのものである。動画を見ると、日本の首相は、実に苦々しい顔をしている。先生のきれいごとを憎む、中学生のような印象を受けた。

私たちは戦争自体に対する考え方を変えなければいけません。外交を通じて紛争を防ぎ、始まってしまった紛争を終わらせる努力をする。相互依存が深まっていることを、暴力的な競争ではなく、平和的な協力の名分にする。国家を、破壊する能力ではなく、何を築けるかで定義する。そして何よりまして、私たちは人類の一員としてお互いのつながりを再び想起しなければなりません。このつながりこそが我々を人類たるものにしているからです。

 私の国の物語は(独立宣言の)簡単な言葉で始まります。「すべての人類は平等に創造され、創造主によって奪うことのできない権利を与えられている。それは生命、自由、幸福追求の権利である」。しかしその理想を実現することは、米国内や米国民の間であっても、決して簡単ではありません。しかし、その物語にあくまでも忠実であろうとすることに価値があります。それは努力しなくてはならない理想であり、大陸と海をまたぐ理想です。

 全ての人のかけがえのない価値です。全ての人命は貴重であるということです。私たちは一つの家族の一部であるという根源的で不可欠な考え方です。それが私たちが伝えていかなくてはならない物語です。

 だからこそ私たちは広島に来るのです。それによって、私たちは、愛する人たちに思いをはせます。朝一番の子供たちの笑顔。食卓での配偶者との優しい触れ合い。親の心地よい抱擁。そうしたことを思い、そうしたかけがえのない瞬間が71年前のここにもあったのだと考えることができます。亡くなった方々は私たちと全く変わらない人たちでした。

 普通の方々はこうしたことを理解できると思います。彼らの誰もがこれ以上、戦争を望んでいません。むしろ科学の驚異を、命を奪うのではなく、もっと人生を豊かにすることに役立ててほしいと考えています。

 国家が選択をするとき、国家の指導者がこのシンプルな英知をかえりみて選択すれば、広島から教訓を得られたと言えるでしょう。

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

“いじめ学”の時代

“いじめ学”の時代

国家の品格 (新潮新書)

国家の品格 (新潮新書)

日本人論の方程式 (ちくま学芸文庫)

日本人論の方程式 (ちくま学芸文庫)

人間の安全保障 (集英社新書)

人間の安全保障 (集英社新書)

「ニート」って言うな! (光文社新書)

「ニート」って言うな! (光文社新書)

戦場の精神史  ~武士道という幻影 (NHK出版)

戦場の精神史 ~武士道という幻影 (NHK出版)

清陰星雨

清陰星雨

[生声CD&電子書籍版付き] オバマ広島演説

[生声CD&電子書籍版付き] オバマ広島演説

「半」超越性を蔓延させないための装置を社会は必要とする

拙著『いじめと現代社会』(双風舎、2007年)pp.144-148 (初出は『図書新聞』2006年10月21日)

 「半」超越性を蔓延させないための装置を社会は必要とする

 隆起一貫型超越性は、個別の関係を超えて、普遍的な水準に規範の準拠点を設定する。社会の規模が拡大し、高度な産業や軍事や社会的な諸要素を機能的に連結するために、瀰漫浸潤(びまんしんじゅん)型超越性の力を弱め、隆起一貫型超越性をメインの担い手にすることが必要不可欠である。

(注:社会秩序には超越的でないタイプーー有限項準拠連鎖タイプーーと、超越的なタイプがある。この超越的なタイプには、隆起一貫型(一神教がその典型)と瀰漫浸潤型がある。『いじめと現代社会』145ページ図3を参考)

 プリミティブな社会では、瀰漫浸潤型超越性がもっぱら超越性の担い手になりがちである。または、いじめが蔓延(まんえん)する学校の教室などでも、瀰漫浸潤型超越性がドミナント(優位)である。アメリカとへたくそな戦争をしたころの日本も、仲間内の「空気」に支配されていた。
 それは、一言で言えば、「いま・ここの関係の絶対性を畏怖し、それが身をつらぬくがままにあれ」、「ノリは神聖にして侵すべからず」というものである(図3参照)。
 長くいじめの研究をしていて、頭では理解していても、いつまでの不思議な感覚にとらわれるのは、コミュニケーション操作系のいじめだけで自殺する児童生徒のケースである。しかと、くすくす笑い、悪口、会話の応答の際の(おそらく意図的な、あるいは無意識の共謀による)ちょっとした無表情や返答の時間的遅れ、といったものの積み重ねによって、ほんとうに自殺してしまうのだ。
 生活が機能分化しないプリミティブな社会では、狭隘(きょうあい)な人間関係で互いに憑依(ひょうい)しあう、ずぶずぶの情動の反射がそのまま畏怖すべき(超越的な)社会の秩序でもあり、それ以外の秩序感覚を知らぬ、ということの方が普通である。
 われわれが、コミュニケーション操作系のいじめだけで自殺する児童生徒をどうしても奇異に感じるのは、機能分化した複雑な社会でそこそこ市民的な生活を送っているからである(児童生徒が狭隘な人原関係の閉域に閉じこめられる現行の学校制度を見直して、公的な教育をより市民社会化すべきである)。
 この瀰漫浸潤型超越性が、機能分化した社会で秩序化の原理として作動すると、社会に大きなダメージを与える。国や地方公共団体、大企業や大政党やマスメディアなどが、そのような原理で動くことは許されない。
 山本七平は、戦艦大和を十分な護衛をつけずに沖縄に派遣するという軍事技術のイロハを逸脱した作戦が「空気」の迫力によって決定された様をとりあげながら、「空気の支配」に警鐘をならす。山本のいう「空気の支配」とは、瀰漫浸潤型超越性が、プリミティブな段階を脱したはずの社会で誤作動してしまうことだ。
 また、愚民性とは、プリミティヴな段階を脱して機能分化した、あるいは機能分化すべき社会で、瀰漫浸潤型超越性が秩序化の原理として強く作動してしまうような傾向を言う(愚民の理論的定義)。残念ながら現在の日本は、先進諸国のなかでは愚民性が高い社会であるといえる。
 以前に論じたように、日本は西洋列強の植民地にされかねない立場にあった。維新エリートたちは、瀰漫浸潤型超越性しか知らぬ愚民をきびしい初期条件として、急いで近代国家の体裁を整える必要に駆られていた。隆起一貫型超越性が行きわたるための時間的な余裕はなかった。
 ここで彼らは、プリミティヴな愚民が愚民のまま、機能分化した社会に必要不可欠な普遍性や超越性に接続しうる「半」普遍の仕掛けをその場しのぎででっちあげることとなった。つまり、瀰漫浸潤型の超越性でもって、隆起一貫型の代用をさせるという、アクロバティックな仕掛けを、窮余の一策ででっちあげた。これがアッパー系の天皇である。
 このように瀰漫浸潤型と隆起一貫型が両義的となるようなタイプの超越性を、「半」超越性と言う。以前に論じたように「半」超越性は、すくなくとも先進諸国にとっては、百害あって一利なしのドラッグである。アッパー系の天応は、社会に大損害を与え、日本は焦土となった。
 ところで「半」超越性は、愚民的な傾向のあるところ、どんな社会にも多かれ少なかれ存在する。場合によっては、カリスマ勢力や新興宗教勢力が、「半」超越性によって国家を乗っ取るようなことも考えられる。天皇があろうとなかろうと、あらゆる社会は、多かれ少なかれ「半」超越性の弊害にさらされている。
 社会は、「半」超越性を蔓延させないための装置を必要とする。先進国の一員としては、たえずわきあがる「半」超越性の勢力を抑制しつつ、普遍的なヒューマニズムという隆起一貫型超越性を理念的実在として確立し続ける必要がある。そのために、どのような装置が最適であろうか。
 HIVウィルス(AIDSを引き起こす)の感染を防ぐためにさまざまなアイデアが出されているが、そのなかにおもしろいものがある。HIVウィルスは、細胞上のCD4受容体を通じて入り込む。そこで、CD4受容体に結合するだけでそれ以外の働きをしない物質を注射して、前もってCD4受容体に蓋をしておくことで、HIV感染を防ごうというアイデアである。
 これと同形のアイデアで、次のような「半」超越性阻害装置を考えることができる。
 すなわち、天皇という最強の受容体が、大衆が大衆であるかぎり、多かれ少なかれ有する「半」超越性受容体に結合し、そのほかのものが結合するのを妨げる「蓋」となるが、それ以外のことはほとんどしない。そして、大衆が「半」超越性のムードで天皇に向かうとき、そのムードを身に浴びながら、天皇は、繰り返し、繰り返し、日本国憲法の名を示す。このことによって天皇は、危険な「半」超越性のマグマを普遍的なヒューマニズムの隆起一貫型超越性に向け変える(図4参照)。またそのことで天皇もまた、日本国憲法が刻んだ普遍的ヒューマニズムの体現者として、人びとの敬愛を身に浴びることになる。
 このように天皇日本国憲法は、愚民的な「半」超越性の毒を普遍的なヒューマニズムという上質の超越性へと浄化する、みごとなエコロジー・システムをなしている。このようなシステム構成上、天皇が「半」超越性をそのまま暴力に転化する右翼勢力と敵対せざるをえないのは、必然となる。
 これがダウナー系の天皇である。
 このように考えれば、明仁天皇が、自身は控えめに振る舞いつつ、ことあるごとに日本国憲法の名を唱える意味が理解できる。みごとなデザインである。
 世界でもっともリベラルなオランダやデンマークといったヨーロッパ小国に王室が残っているのも、このような役割によるのではないだろうか。

 私は明仁さんを指示する。

                     (2006年10月21日)


http://medicallearning.jp/?pid=73689408

http://medicallearning.jp/?pid=73689425

http://shutoku.fc2web.com/special_subjects/4th_grade/S5/image_files/progressed_gastric_cancer.GIF 

 

天皇の象徴責任論

拙著『いじめと現代社会』(双風舎、2007年)pp.132-135 (初出は『図書新聞』2006年9月2日号)

天皇の象徴責任論

 前項では、プリミティヴな感情の憑依(ひょうい)の論理がそのまま、機能分化した社会に必要不可欠な普遍性や超越性に接続しうる「半」普遍・「半」超越の仕掛けとしての、アッパー系天皇を論じた。
 それは列強に侵略される立場であった日本を植民地にしないために、維新エリートが民衆に撒布したいわばアッパー系のドラッグであった。この心理-社会的なドラッグはその後、(とくに昭和の初めから昭和20年代の敗戦まで)制御不能な仕方で暴走し、日本社会に壊滅的な害をもたらした。
 それはかつて猛獣に狩られる立場だった人類が緊急避難のために血圧や血糖値やホルモンを急激にアップさせる適応システムが、現代人に成人病による死をもたらすのに似ている。
 明仁天皇は、この(いまとなっては)百害あって一利なしのアッパー系天皇を、時代に適合した別のタイプ、つまりダウナー系の天皇に変えようとする努力を続けてきた。
 また、天皇という象徴が悪用されるときに生じる公害ともいうべき破壊作用(象徴公害)に対して、それを阻止する象徴責任を果たしてきた。
 まず天皇の象徴責任について述べよう。明仁天皇が政治的に動くときと動かないときの動静強弱の輪郭をたどることによって、そこから首尾一貫した天皇の倫理的責務のありかた、つまり天皇の象徴責任という概念を打ち出すことができる。
 明仁天皇は、発言を求められたほとんどの場合、政治的な発言をしないという本則に従っている。たとえば女性天皇を認めるかどうかといったことは、天皇の存在様式に関わるきわめて重要なことがらあるにもかかわらず、その是非について彼は一言も発しない。自分や妻子の私生活に対する一部の低級誌の下品な報道にさえも耐えている(下品ネタ報道に関しては「政治」とは別枠で私人として告訴してもかまわないと私は思う)。これは驚くべきことであるといってもよい。それほど本則は堅く守られている。
 だが、本則に対する例外となるひとつの場合において、彼は政治的立場を明確にする。
 つまり、天皇という象徴を悪用して憲法秩序を破壊したり、暴力を正当化したり、人びとを戦争やテロに危機に曝(さら)したりする勢力が通常の歯止めを突破して拡大しつつあるとき、その場合に限り、彼は天皇象徴の悪用をなしがたくするための効果を狙った政治的発言をおこなう。つまり、言語行為としては、「このような天皇象徴の悪用はやめてください」という抑止のメッセージを発する。
 明仁天皇が象徴責任を果たしてきた軌跡をたどってみよう。
 父裕仁天皇の死の前後に、右派勢力のネットワークを背景に、実質的な自粛強制の嵐が社会を覆いつくした。この瞬間、日本国で自由は失われていた。そのとき控えめながら、この自粛強制の暴走をやめるように発言したのが彼であった。
 明仁天皇は、「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」と所信表明をしながら立った。
 裕仁天皇に戦争責任があると発言した本島等(もとじまひとし)元長崎市長が狙撃されると、明仁天皇は、天皇の問題も含めて言論の自由があると発言した。
 東京都教育委員の米長邦雄の「日本中の学校に国旗を掲げ、国家を斉唱させるのが私の仕事です」という発言に対して、「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と切り返した。
 また、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本書紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」という発言をわざわざおこなう意味は、右派が天皇象徴を偏狭なナショナリズムに位置づけるのを阻止するということである。これは右派勢力に対する婉曲な牽制である。
 右派が許容限度を超えて力を伸ばしている危機的現状に対して、明仁天皇は、もはや控えめではない、はっきりした発言をするようになってきている。

 「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までは、ほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは、日本人自身にとって、また日本人が世界の人びとと交わっていくうえにも極めてたいせつなことと思います。戦後60年に当たって過去の様ざまな事実が取り上げられ、人びとに知られるようになりました。今後とも多くの人びとの努力により過去の事実についての知識が正しく継承され、将来にいかされることを願っています」(2005年12月19日)

 「そのような(昭和の初めから終戦まで…内藤注)状況下では、議員や国民が自由に発言することは非常にむずかしかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう、日本の今後の道を進めていくことを信じています」(2006年6月6日)

 ここでいう「昭和の初めから昭和20年代終戦まで」とは、アッパー系の天皇に酔いしれた右派勢力が日本社会を牛耳ったピークの時期である。上記の天皇発言は、「右派勢力に天皇象徴を利用させない!」という強烈な反右派宣言である。彼が強い危機感を抱いていることがうかがえる。
 明仁天皇によるこの画期的な反右派宣言を、新聞・雑誌・テレビ各社がそれほど大きくとりあげなかった(そのように軽重を意図的に取捨選択した)ことは、非難に値する失策である。これを大々的に報道することは、右派勢力の力を弱めるチャンスになったであろう。マス・メディアは明仁天皇が投げたボールを拾い損ねた。
 これまでの明仁天皇の軌跡から、天皇の象徴責任という概念を次のように定式化することができる。
 すなわち、天皇は原則として政治的な発言をしない。しかし、(天皇象徴をこんなふうに用いなければこんなひどいことにはならないであろうと思われる)天皇象徴の危険な悪用に対してのみ、天皇象徴をこの身に具現する職にある者は、それを阻止するべく積極的に発言する倫理的責任を有する。これが天皇の象徴責任である。
 もしこれからも天皇制度が存続するとすれば、明仁天皇が範を垂れたところの、象徴責任を負う天皇の倫理規範は、伝統として古い歴史に読み込まれつつ、これからの天皇像に新たなルールとして埋め込まれ、代々受け継がれるべきであろう。明仁天皇のような人物が代々天皇になるとは限らないのだから、将来に向けて天皇の象徴責任を皇室の伝統規範にしておく必要がある。
 ところで、北朝鮮による拉致や核開発やミサイル発射や対日ミサイル基地の衝撃を栄養源とした右派勢力の大繁殖が危惧されるいま、明仁天皇がさらにキーパーソンとして表舞台に出てくる可能性がある。リアルポリティクス上、北朝鮮が危険な敵であればあるほど、右派(そして右派と左派の論点抱き合わせセット)に日本の舵取りをさせるわけにはいかなくなる。あの悪の王朝と本当に有効な仕方でたたかわなければならなくなったとき、日本の政治の担い手から、右派を退かせなければならなくなる。もはや安全に右派を飼っておく余裕がなくなったとき、日本の良識たちが右派を抑える仕事を始めるだろう。

                 (2006年9月2日)

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

二種類の国家観

 拙著 『いじめと現代社会』 (双風舎、2007年) pp.126-131  (初出は『図書新聞』2006年7月15日号)

二種類の国家観


 国家観には二種類ある。
 ひとつは、国家を、一人ひとりの人間の共存と福祉のための公共財である機械装置と考えるものである。国家は水道や電気や医療や交通網のように、人々の生存にとってきわめて重要なものだ。その意味で、危険なメンテナンス業務をおこなっている自衛官は、高圧線の上で危険業務をしている技師と同様に、尊敬されて当然である。この私にしても、たいせつなインフラストラクチャーとしての国家をよりよいものにするために、この文章を書いている。
 しかし、いかに国家が重要であるとはいえ、それを「愛する」などというのは、水道管や電線をぺろぺろ舐めまわし、女性の靴や下着のにおいを嗅ぐのと同様、変態である。
 この第一の国家観からいえば、愛国心はフェテシズムの一種である。愛国心ではなく、苦労して磨き上げた公共財機械装置の性能のよさに対するプライド、という意味での国家プライドはあるかもしれない。国家が愛国心などという変態心性を万人に要求する制度は、日本国装置の性能の悪さとして、国家プライドを大いに傷つけるだろう。
 それに対して、国家を一人ひとりの人間の生命を超えた、より高次の崇高なる集合的生命とする国家観がある。このようなリアリティを生きる人々にとって、国家装置の防御メンテナンスのための危険業務(軍隊)は、集合的生命の男根のように感じられる。アメリカに負けて憲法九条を押しつけられたのは、「全能感を断念しなさい」と去勢されてしまったような、屈辱の体験である。また集合的生命の根本にあるはずの神聖にして侵すべからず天皇を、単なる「象徴」にされてしまったのは、河童に尻こ玉を抜かれたような屈辱である。そして日本は、自由だの人権だの民主主義だんぼ甘ったるい白粉をぺたぺた塗られて、女にされてしまったと彼らは感じる。
 第一の国家観は、人びとの安全と生命を守りながら繁栄をもたらそうとするリアリズム政治のための、基本中の基本である。国益の計算や戦略的思考も、この国家観を前提としなければ何の意味もない。
 第二の国家間は、非常時に短期間「だけ」、人々を狂わせるための興奮剤である。必要がないときに使ってはならない。そして二十一世紀の世界でそれが必要になる時は、もうない。いまではこういったドラッグは、貧しい国々で誤用され、悲惨な流血や国土の荒廃をもたらす廃棄すべき毒物でしかない。
 この毒物ともいうべき第二の国家観はどのようにして生まれたか。江戸幕府が支配していた日本列島は、列強の植民地にされる危険にさらされていた。当時の指導者たちは、ゆっくりと変化する時間的余裕がないなかで近代国家をつくりあげるために、集合的生命感覚に酩酊させる仕掛けを、当時入手可能な素材からでっちあげた。
 それがアッパー系の天皇である(筆者注…意識変容ドラッグにはアッパー系とダウナー系がある)。もともと京都で平和に生きていた穏やかな文化財天皇は、おきのどくなことに、社会の武張(ぶば)ったアッパー系ドラッグに改造されてしまった(そもそも天皇に勲章まぶしの軍服を着せて髭づらの大元帥にするなど、貴重な文化財に対する一種の虐待ではないだろうか)。
 そして、このドラッグは効いた。国家の集合的生命感覚は、アッパー系天皇を玉冠とする国體(こくたい)として、人びとの魂の底に埋め込まれていった。
 生存のための必要に駆られて狂気のドラッグを使うときは、そのまえに目覚まし時計をセットしておき、時がくれば醒めるようにしておかなければならない。目覚まし時計を管理すべき指導層は、大衆を騙すための薬物にのめり込んではいけない。しかし、指導層のあいだでも「○○は国體にそぐわない」やら「不忠」やらといった、自家中毒が蔓延した。ヤクザが売り物の覚醒剤に手を出すように、国家の中枢が緊急大衆操作劇薬の自家中毒にやられたのだ。ドラッグにおかされた指導層はアメリカと戦争をするといった愚行に走り、敗戦の条件交渉にいたっては、国民の生命や安全といった本来の目的よりも国體護持などという幻想の薬物を大切にするていたらくであった。国家の指導層として、これほどでたらめな酩酊者たちは類をみない。
 ところでアッパー系の天皇のからくりは、どういうものだったのか。それは狭隘(きょうあい)な人間関係のずぶずぶの情動の反射がそのまま社会の秩序でもあり、それ以外の秩序感覚を知らぬプリミティヴな愚民が愚民のまま、機能分化した社会に必要不可欠な普遍性や超越性に接続しうる「半」普遍・「半」超越の仕掛けである。つまり、母や父や妻や同朋や近隣の人びととつきあう心情の論理が、みなで心に描く天皇のイメージをフックとして、そのまま普遍的・超越的な広領域の論理にあいまいに重ね合わされる仕掛けである。たとえば、カミカゼ特攻隊で自爆しする兵士は、ほんとうは国家のためではなく、母や妹や愛する者のためと実感しながら、それがなぜか国家のための自爆攻撃でもある、という「半」のあいまい感覚につつみこまれて死んでいく。それは武張った男根の先端でありながら、同時に乳房への憧憬につられて散華(さんげ)してしまう「半」にからめとられた死である。アッパー系ドラッグとしての天皇が、プリミティヴな感覚を国家につなげて集合的生命感覚を蔓延させる仕掛けは、この「半」の曖昧な重ね合わせにあった。
 これは人間のプリミティヴな領域をたいせつにするというよりも、プリミティヴな領域を、本来普遍的・超越的なものが機能すべき領域で、その機能的等価物として徹底的に搾取・開発・利用しつくすからくりでもある。ちなみに、文学でえんえんと問題にされてきた「家」や「世間」の息苦しさは、このメカニズムの副産物でもある。プリミティヴなものが過度に公的・普遍的・超越的にもちいられ、公的・普遍的・超越的なものが過度にプリミティヴに作動する社会の根本原理が「天皇制」と呼ばれたのも、あながち的はずれでもない。このような社会が、人びとの日常生活において非常に網の目の細かい精神的売春を強いるのは、原理的必然である。
 アッパー系の天皇を残すことを国體の護持として執着した者たちは、このような「半」超越・「半」普遍の社会をもって日本となしたのであろう。
 このような「半」のメカニズムは、普遍的・超越的なものが、そのまま特定人物の〈顔〉と重なって生きられる新興宗教団体では、ありふれた現象である。団体が政治的な影響力をもつようになった場合、普遍的・超越的なものの論理の連鎖に、限りなく敬愛すべき固有の〈顔〉がモザイク状に差しはさまれ、政治的に奇妙な振る舞いがなされる。というよりも新興宗教の多くは、「半」超越・「半」普遍のメカニズムにより、急速な拡大をする。
 さて、現在(筆者注…執筆時2006年)大きな勢力となっている右派は、教育基本法(筆者注…2016年現在すでに改正されている)や憲法を改正して、日本を「より日本らしい」姿に戻そうとしている。また、戦前のアジア諸国への侵略を否認する言動を繰りかえしている。前者についてはすでに論じた。後者については、現在の国際関係上、国益を損なうどころか、現在日本を大きな危機に陥れている。
 北朝鮮が(かつての日本のように)暴発するとしたら、反日感情が高まる中国や韓国にかばってもらえる可能性を過大に誤認して、その対象を日本にする可能性が考えられる。そうなった場合、いったいどれほどの人が死ぬことか。一部の右派たちは日本一国で北朝鮮に対して経済制裁をおこなうなどという愚策を提示しているが、経済制裁は中国や韓国などのアジア諸国と共に包囲網を築いたうえでなければ、効果を発揮できない。核攻撃の可能性がある北朝鮮に対しては、アジア諸国との友好関係を前提として、実効的な経済制裁(の可能性)によるコントロールをおこなえる条件を整える必要がある。
 しかしながら、右派の「歴史認識」のせいでアジアに反日感情が蔓延し、それができない。国際関係のなかで北朝鮮の立場を有利にしているのは、「ありがたいことに」日本の右派である。また日本の右派は、反日運動によって民衆の不満をそらせて中国共産党独裁を延命させるのにも役立っている。こういった日本の右派がもたらす危険性は、国連を含め、世界のあらゆる方面から危惧され指摘されていることである(もちろん日本の左派が北朝鮮に協力し援助し続けた経緯も、すべてあからさまにし、厳しく責任を追及する必要がある)。
 アッパー系の天皇を基幹とする国體像を戴く右派勢力を政界・財界・官界・メディア界の主導的な位置から退かせる必要がある。さらにいえば前述のように、右派と左派という半族の構図を根本的に消滅さるべきである。
 さて、アッパー系天皇カニズムの暴走が起きるたびに抑止行動をとり続け、それを新しい時代に適したダウナー系の天皇にデザイン変更しようとしてきた人がいる。また、彼の動きから、首尾一貫した原理原則を抽出し、天皇の象徴責任という概念を提出することができる。
 次項では、まず明仁天皇(現在の日本国天皇)が右派勢力に抵抗して「政治的発言」をおこなう動き方から、首尾一貫した原理原則を抽出し、そこから天皇の象徴責任という概念を提出する。彼はみごとに象徴責任を果たしている。次に隆起一貫型超越性と瀰漫浸潤型超越性について論じたあたおで、アッパー系天皇&国體システムに対する、ダウナー系天皇日本国憲法システムの可能性を提示する。
 ダウナー系の天皇は、後述のように「半」超越・「半」普遍レセプターを閉じる「無用の用をなす蓋」となり、その「蓋」から普遍的ヒューマニズムという超越点への端的な指し示しをおこなう。これは明仁天皇が、日本国憲法を守るために、これまでずっとおこなってきたことでもある。

 私は彼を支持する。

                                                   (2006年7月15日)

 

 ゆとり教育について: 「論点」 “風通しいい”学校目指せ


10年前に『読売新聞』に書いた文章(2003年7月4日)。
掲載可能なように、担当者と何回もメールでやりとりをして、激しい表現を丸くした作業がなつかしい。
激しい語彙を使わなくても十分表現できるということは、目から鱗だった。
執筆でも講演でも、媒体の担当者とやりとりしながら相手側の許容範囲内に修正することで、表現の幅を広げることができるのは楽しみだ。多くの人が思い込んでいるのとちがって、私は以外と柔軟なのだ。

表現は軟らかくても、内容は相変わらず強烈。これがいい。



そして、
10年前の文が未だに古びないのは、なんともなさけない。


「論点」 “風通しいい”学校目指せ

 子どもの学力低下が取りざたされている。しかしこの問題が浮上するまでは、子どもたちは「ゆとり」を奪われて押し潰(つぶ)されている、という世論が優勢だった。「ゆとりが必要」という考えは間違っていなかった。では、なぜこうなったのか。
 「ゆとり」派の知識人や政策グループは、そのエネルギーを見当はずれな的に暴発させたのである。彼らが敵視したのは「偏差値」や「つめこみ」教育あるいは勉強の労苦だった。しかし、学校の息苦しさの最たるものは勉強のきつさではない。
 日本では、学校は生徒を市民社会の論理から遮断して独特の閉鎖空間に囲い込み、「みんな仲良く」生きることを強いる場となっている。何より「協調性」が重視され、不満も怒りも押し殺して順応することが求められる。こうした閉鎖空間は江戸時代の大奥のように、「人間関係をしくじると運命がどうころぶかわからない」場所になる。先輩後輩や強者と弱者の関係は時として恐るべきものとなる。いじめも蔓延(まんえん)するだろう。
 加えて、人の心の「よい・わるい」を評価する内申という制度が、教員に生徒の生殺与奪の権を与え、生徒をしばしば卑屈にする。生徒たちは、いつ足をすくわれるかわからない人間関係に神経をすり減らし、しばしば感情状態を場のムードに売り渡して生き延びる。
 学校で剥奪(はくだつ)される「ゆとり」とは、まず人間関係の「ゆとり」なのである。しかし、文部省(現文科省)は「ゆとり」の意味をはきちがえ、勉強が要する労苦を敵視して学習内容を削り、学力低下問題を引き起こした。これに対して、一部の人々が厳しい批判を展開した。しかしこの批判派は、「なんでも厳しく」しようとする傾向が強く、勉強の厳しさと、集団で自分を殺して生きる厳しさを「抱き合わせのセット」にして主張しがちだ。
 一方「ゆとり」派は一見、保守的批判派の「何でも厳しく」に反発して、「勉強も人間関係も緩く」と主張しているように見える。しかし班活動などで集団主義を推進してきたのは、進歩的「ゆとり」派のはずの日教組だった。かつての大会記録には、同調しない生徒に対する「仲間はずし実践」が奨励された例さえある。
 私は、いずれの「論点抱き合わせセット」も、問題を解決しないと考える。学校は、全生活を囲い込む施設ではなく、何より勉強をする場として位置付け直すべきである。生徒には高い水準の学習成果を求め、水準に達しなければ単位を認定しないようにする。そのためには、一科目でも落とせば全科目がやりなおしになる学年制をやめ、学校制度を年齢にかかわらない単位制で組み直す必要も出てくる。
 一方、人格支配や身分的上下関係、内申や細かい校則、集団主義を進める学級制度などを見直し、学校を風通しのいい、「人間として」生きやすい場にする。教員も些末(さまつ)な生徒指導にとられるエネルギーを授業準備など本来の教育に集中できる。
 ある知人がオーストリアで、ピアスをした厚化粧の女子生徒が、教員から「この学業成果では単位はない」と言われて泣いている情景を見たという。独仏などでは、教員は生徒の私生活にほとんど介入しないが、学業専門家としては「厳しい」。ピアスや茶髪を犯罪であるかのように「摘発」する教員が、分数もできない中学生を卒業させてしまうような、日本のでたらめな「甘さ」とは好対照である。
 最近は、学力低下の弊害を突く「ゆとり」批判派が優勢だが、「勉強を厳しく」に引きずられて、「人間関係を厳しく」も優勢になれば、息苦しさが加速しかねない。「ゆとり」論争が、「勉強は厳しく、人間関係は緩く」という第三の視点を含め、より広い選択肢をふまえたものになることを期待したい。
                  ◇
 ◇ないとう・あさお(明治大学専任講師) 高校中退、東大大学院を経て現職。著書『いじめの社会理論』(柏書房)で教育改革を提言。

(『読売新聞』2003年7月4日(13面、肩書きは当時のもの))
 


論点抱き合わせセットについては、こちらを参照
http://d.hatena.ne.jp/izime/20090527/