「半」超越性を蔓延させないための装置を社会は必要とする
拙著『いじめと現代社会』(双風舎、2007年)pp.144-148 (初出は『図書新聞』2006年10月21日)
「半」超越性を蔓延させないための装置を社会は必要とする
隆起一貫型超越性は、個別の関係を超えて、普遍的な水準に規範の準拠点を設定する。社会の規模が拡大し、高度な産業や軍事や社会的な諸要素を機能的に連結するために、瀰漫浸潤(びまんしんじゅん)型超越性の力を弱め、隆起一貫型超越性をメインの担い手にすることが必要不可欠である。
(注:社会秩序には超越的でないタイプーー有限項準拠連鎖タイプーーと、超越的なタイプがある。この超越的なタイプには、隆起一貫型(一神教がその典型)と瀰漫浸潤型がある。『いじめと現代社会』145ページ図3を参考)
プリミティブな社会では、瀰漫浸潤型超越性がもっぱら超越性の担い手になりがちである。または、いじめが蔓延(まんえん)する学校の教室などでも、瀰漫浸潤型超越性がドミナント(優位)である。アメリカとへたくそな戦争をしたころの日本も、仲間内の「空気」に支配されていた。
それは、一言で言えば、「いま・ここの関係の絶対性を畏怖し、それが身をつらぬくがままにあれ」、「ノリは神聖にして侵すべからず」というものである(図3参照)。
長くいじめの研究をしていて、頭では理解していても、いつまでの不思議な感覚にとらわれるのは、コミュニケーション操作系のいじめだけで自殺する児童生徒のケースである。しかと、くすくす笑い、悪口、会話の応答の際の(おそらく意図的な、あるいは無意識の共謀による)ちょっとした無表情や返答の時間的遅れ、といったものの積み重ねによって、ほんとうに自殺してしまうのだ。
生活が機能分化しないプリミティブな社会では、狭隘(きょうあい)な人間関係で互いに憑依(ひょうい)しあう、ずぶずぶの情動の反射がそのまま畏怖すべき(超越的な)社会の秩序でもあり、それ以外の秩序感覚を知らぬ、ということの方が普通である。
われわれが、コミュニケーション操作系のいじめだけで自殺する児童生徒をどうしても奇異に感じるのは、機能分化した複雑な社会でそこそこ市民的な生活を送っているからである(児童生徒が狭隘な人原関係の閉域に閉じこめられる現行の学校制度を見直して、公的な教育をより市民社会化すべきである)。
この瀰漫浸潤型超越性が、機能分化した社会で秩序化の原理として作動すると、社会に大きなダメージを与える。国や地方公共団体、大企業や大政党やマスメディアなどが、そのような原理で動くことは許されない。
山本七平は、戦艦大和を十分な護衛をつけずに沖縄に派遣するという軍事技術のイロハを逸脱した作戦が「空気」の迫力によって決定された様をとりあげながら、「空気の支配」に警鐘をならす。山本のいう「空気の支配」とは、瀰漫浸潤型超越性が、プリミティブな段階を脱したはずの社会で誤作動してしまうことだ。
また、愚民性とは、プリミティヴな段階を脱して機能分化した、あるいは機能分化すべき社会で、瀰漫浸潤型超越性が秩序化の原理として強く作動してしまうような傾向を言う(愚民の理論的定義)。残念ながら現在の日本は、先進諸国のなかでは愚民性が高い社会であるといえる。
以前に論じたように、日本は西洋列強の植民地にされかねない立場にあった。維新エリートたちは、瀰漫浸潤型超越性しか知らぬ愚民をきびしい初期条件として、急いで近代国家の体裁を整える必要に駆られていた。隆起一貫型超越性が行きわたるための時間的な余裕はなかった。
ここで彼らは、プリミティヴな愚民が愚民のまま、機能分化した社会に必要不可欠な普遍性や超越性に接続しうる「半」普遍の仕掛けをその場しのぎででっちあげることとなった。つまり、瀰漫浸潤型の超越性でもって、隆起一貫型の代用をさせるという、アクロバティックな仕掛けを、窮余の一策ででっちあげた。これがアッパー系の天皇である。
このように瀰漫浸潤型と隆起一貫型が両義的となるようなタイプの超越性を、「半」超越性と言う。以前に論じたように「半」超越性は、すくなくとも先進諸国にとっては、百害あって一利なしのドラッグである。アッパー系の天応は、社会に大損害を与え、日本は焦土となった。
ところで「半」超越性は、愚民的な傾向のあるところ、どんな社会にも多かれ少なかれ存在する。場合によっては、カリスマ勢力や新興宗教勢力が、「半」超越性によって国家を乗っ取るようなことも考えられる。天皇があろうとなかろうと、あらゆる社会は、多かれ少なかれ「半」超越性の弊害にさらされている。
社会は、「半」超越性を蔓延させないための装置を必要とする。先進国の一員としては、たえずわきあがる「半」超越性の勢力を抑制しつつ、普遍的なヒューマニズムという隆起一貫型超越性を理念的実在として確立し続ける必要がある。そのために、どのような装置が最適であろうか。
HIVウィルス(AIDSを引き起こす)の感染を防ぐためにさまざまなアイデアが出されているが、そのなかにおもしろいものがある。HIVウィルスは、細胞上のCD4受容体を通じて入り込む。そこで、CD4受容体に結合するだけでそれ以外の働きをしない物質を注射して、前もってCD4受容体に蓋をしておくことで、HIV感染を防ごうというアイデアである。
これと同形のアイデアで、次のような「半」超越性阻害装置を考えることができる。
すなわち、天皇という最強の受容体が、大衆が大衆であるかぎり、多かれ少なかれ有する「半」超越性受容体に結合し、そのほかのものが結合するのを妨げる「蓋」となるが、それ以外のことはほとんどしない。そして、大衆が「半」超越性のムードで天皇に向かうとき、そのムードを身に浴びながら、天皇は、繰り返し、繰り返し、日本国憲法の名を示す。このことによって天皇は、危険な「半」超越性のマグマを普遍的なヒューマニズムの隆起一貫型超越性に向け変える(図4参照)。またそのことで天皇もまた、日本国憲法が刻んだ普遍的ヒューマニズムの体現者として、人びとの敬愛を身に浴びることになる。
このように天皇と日本国憲法は、愚民的な「半」超越性の毒を普遍的なヒューマニズムという上質の超越性へと浄化する、みごとなエコロジー・システムをなしている。このようなシステム構成上、天皇が「半」超越性をそのまま暴力に転化する右翼勢力と敵対せざるをえないのは、必然となる。
これがダウナー系の天皇である。
このように考えれば、明仁天皇が、自身は控えめに振る舞いつつ、ことあるごとに日本国憲法の名を唱える意味が理解できる。みごとなデザインである。
世界でもっともリベラルなオランダやデンマークといったヨーロッパ小国に王室が残っているのも、このような役割によるのではないだろうか。私は明仁さんを指示する。
(2006年10月21日)
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