『ジャンプ いじめリポート』土屋守監修(集英社)

1996年、『ほん』(2月26日号 東京大学生活協同組合)に掲載された、内藤朝雄さんによる『ジャンプいじめリポート―1800通の心の叫び』と『私のいじめられ日記―先生、いいかげんにして!』の書評です。


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「『ジャンプ いじめリポート』土屋守監修(集英社
『わたしのいじめられ日記』土屋怜・土屋守青弓社


土屋自信の娘がいじめられた『日記』では、いじめをやっている連中がいかにリアリティを操作するかが、日々のディテールによって浮き彫りにされる。その共謀されたリアリティは、「あそび=いじめ」のために犠牲者を監禁し、調教し、飼育するオリとなっている。「敵」というカテゴリーを知らない犠牲者は、クラスが同じでたまたま密着してしまったというだけで、「友だち」に距離を置くことができない。こういうタイプが恰好の獲物だ。学校という空間は、個としての心理的距離をとることが許されない強制的学級愛(コミュニオン)の園であるから、この手の犠牲者はわんさといる。肉食獣にとっては天国のようなところである。

被害者の怜ちゃんは、群れの仲間主義(コミューン・ディペンデンシー)から個の友愛主義(インディヴィデュアル・インティマシー)へと、霊的に成長できただろうか。共同性自体を無差別に肯定したり否定したりするのではなく、様々なタイプの共同性に高貴と下劣の位階序列をつける味覚を身につけただろうか。

『リポート』の前半は読者からの手紙とインタビュー、後半は『日記』を漫画化したものだ。前半のうち、加害者側からの投書を読めば、いじめの本質がわかってしまう。「相手が嫌がることをやればやるほど、自分たちの心がきれいになるような気がするんです」。「いじめをネタに他の友だちたちと盛りあがれるのがうれしかった」。いじめられっ子を自殺未遂に負い込んでも「ホンの少しも罪の意識はなかった。…〝かわいそう〟と思ったことは一度もありません」と言ういじめっ子は、学校(コミューン)を出て市民社会の一員となるや、次のような心境になる。「今では当時のことを深く反省しています。…〝なんであんなことをやったんだろう〟とフシギな気持ちです」。「私たちの年齢の子は、笑いながら人を苦しめることができることだけはたしかです。心のどこかに、そういうことを許される部分があるんです」(この14歳の女子中学生は、義務教育のもとで自分の個の心が怪物じみた群(コミューン)の心になってしまう運命を、「年齢」と表現している。この運命の受容がいじめを許す)。「人をいじめても、いじめっ子には直接の害がないってこと。これが、いじめをはびこらせる最大の原因だと僕は思います」。

彼らやる側は、凡百のいじめ論者よりも、いじめについてはるかによく知っている。『リポート』の190頁から209頁では、いじめっ子本人たちの口からいじめについてのすべてが言い尽くされてしまっている。

そこから、次のような最終的な結論を導きだし、従来のピンボケぎみのいじめ論議を終わらせることができる。

1・ (1)学校が強制的なコミュニオンの場であることと、(2)罰せられないことが、いじめの主要因である。

2・ 対策としては、(1)学校を聖別されたコミューンから市民社会の一員に戻し、 (2)個人を中間集団共同体の専制から守るための、法規改正と制度の再構築が急務である。学校を市民社会化する社会政策は、いじめのエスカレートを確実に激減させる。

3・ 日本で有効な対策が現実化されず、いじめ問題が長期にわたって改善しないのは、「学校」「教育」なるものを神聖なもの(集合的な生命!)にしておきたい学校コミューン・イストたちが、敵対的補完構造をゆるやかに構成する右と左の両支配勢力を占めてきたからであり、いじめを問題化する熱心派グループ(ほど!)その枠組みの中でしかものをみることができなかったからである。

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