精神分析学の形式を埋め込んだ社会理論

1999年、『情況』6月号に掲載された内藤朝雄さんの論文です。「精神分析」の批判的検討を通じて「いじめ」の社会理論を考察しています。この文章は加筆・修正されたうえで『いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体』の五章部分に収められています。


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精神分析学の形式を埋め込んだ社会理論
−−「いじめ」を典型的な例題として−−

 
1・問題の所在と本稿の課題
 ひとが群れ集まるとき、しばしば個を超えた非合理的・感情的な集団力が生じる。この心理-社会的なメカニズムは程度の差はあれわれわれの生活に混入している。しかし通常は他の雑多なメカニズムと複合しており、それとして姿を現しにくい。「いじめ」と呼ばれる現象は、この生きられてはいるが見えにくい普遍的なメカニズムを、典型的なかたちで浮かび上がらせる。「いじめ」によって浮き彫りになる心理-社会的な集団のメカニズムはもちろん「いじめ」を生むメカニズムでもあるが、それにとどまらず、たとえ「いじめ」が起こっていない局面であっても多様な仕方でひとびとの生を圧倒し枠づける。この心理-社会的なメカニズムとそれによる生の枠づけは、集団が個に対して「いきぐるしく」「いきがたく」迫ってくることの内実であり、社会学の重要な研究対象となる。
 この主題は、かつて封建遺制とか前近代的といった枠組でとらえられ、この枠組とともに凋落した。そして批判の標的が国家や資本や「近代」に集中するとともに忘れられていった。しかるに近年先進諸国では、学校や職場での「いじめ」、家庭内の暴力や虐待、カルトやコミューン(さらに日本では企業や学校)による人格変造的収奪、民族的な憎悪や迫害、といった諸現象が問題化してきた。個人と国家のあいだにある中小集団規模で個を制圧してしまうこれらの諸現象は、新しい問題の構図を要求する*1
 上記の集団現象の多くは、独特な心理-社会的なメカニズムを重要な構成要素とし、次のようなループをなしている。すなわち、(1)場の雰囲気(内的過程に働きかける場の情報)によって各人の内的モードがある程度自動的に別のものに切り替わると同時に、(2)こうした内的モードに規定されるひとびとのふるまいの連鎖によって場の雰囲気が再産出される。このような諸現象を扱うには、心理メカニズムを組み込んだ独自の理論構成が要請される。筆者はこの要請に応じて、IPS(Intrapsychic-Interpersonal Spiral)という理論枠組を提出する。IPSとは、次のように心理過程と社会過程とが形成を誘導しあう螺旋的なループである。(1)Intrapsychicな心理過程に導かれて行為やコミュニケーションが生じる。(2)この行為やコミュニケーションのInterpersonalな連鎖集積から小規模社会空間が秩序化されつつ創発する。(3)さらにこの秩序化された社会空間が成立平面となってIntrapsychicな心理過程が導かれる。IPSは、その内にさまざまな心理モデルを組み込むことができる理論枠組である*2。以上を図示したのが図1である。
 以上で問題の所在と理論枠組の大筋を示した。そのうえで本稿では課題を次のように限定する。(1)上記の問題および諸現象に照準し、(2)「いじめ」を典型的な例題(Exemplar)としながら、(3)Klein,M.とKohut,H.の流れをくむ精神分析学の現代的潮流から論理形式を抽出し、(4)それを手がかりとして新たな心理-社会的なモデルを提出する。
 精神分析学のこの潮流を抽出元として選択したのは、前述の主題に照らして、極めて有用な説明図式が散見されるからである。しかし精神分析学の説明図式は、多くの場合そのまま用いることはできない。次節では本論に進む前に、精神分析学に批判的検討を加えながらモデル抽出の原理を提示する。
 

2・精神分析学の批判的検討とモデル抽出の原理
 これまで精神分析学は、独自の発達図式を理論的基礎部門(Metapsychology)に据えて理論構築を行ってきた。古典的精神分析学の発達理論の数々、とくに、感覚障壁、自他未分離、Oedipus Complex、女児のPenis Envy、口唇・肛門…と続く性発達理論は、実際の乳幼児観察にもとづく研究と食い違っており、現在では否定されている(たとえば[Stern,D. 1985=1989〜1991, Eysenck,H.,J. 1986=1988])。Freud,S.以降の精神分析学者のうち古い世代ほど、自分の新しいアイデアを「Freud,S.の真意」や「Freud,S.が示した道の延長」として表現する傾向があり、新しい世代ほどFreud,S.の神話内容から自由になってくる。
 だが個々の理論内容は変化しても、発達論を神話化するスタイル自体は変わらない。すなわち、乳幼児期に生じた幻想やコミュニケーションの歪みがそのまま固定した構造が、成人後に再活性化することによって様々な病理が生じるとするスタイルは変わっていない。この傾向は、臨床実践と一体化した次のような理論構築法によって維持されている。すなわち精神分析医は、臨床現場で成人患者の話を聞きながら、患者が現在の病理と対応していると感じるような「当時の家族関係のなかの乳幼児」を思弁的に再構成し、それをもう一度成人の病理の原因論的説明にあてる。本稿で紹介する比較的新しい学説群も、大部分は、家族を特権化した発達論を理論的基底に据えている*3
 近年の発達理論(たとえば[Stern,D. 1985=1989〜1991])やトラウマ理論(たとえば[Herman,J.L., 1992=1996])の知見によれば、さまざまなタイプの自己や体験構造は、生涯を通じていつでも変化(変形、病理化、派生体形成、構造転換)を起こしうる。このことはトラウマによる成人後の不運な人格変化の例などから明らかである。発達論的には、乳幼児期は各種の最も基本的な体験構造が観察者にとってくっきり見えてくる発生の時期であるが、そのさまざまな派生的変化が起こる時期は人生の各時点に分散している。たとえば、後に紹介するKohut,H.の自己愛的イメージ構成体やKernberg,O.F.やMasterson,J.F.の対象関係ユニットは、乳幼児期にしか発生し得ない基本構造というよりも、人生のどの時期にも発生しうる派生的構造と考えられる。
 精神分析学の発達論には以上のような難点があり、これを社会理論の内部にそのまま移入することはできない。精神分析学から社会理論のモデルを抽出する場合、準拠枠としての家族論と発達論の特権性を解除し、心理-社会的なメカニズムの一般形式に照準することになる。すなわち本稿では、乳幼児発達や母子関係や家族の物語として語られている通時的モデルを、心理-社会的なメカニズムについての共時的な抽象形式へと変換するという原則をたてる。精神分析学は発達論としては正しくなくても、そこから抽出される一般モデルがさまざまな心理-社会現象を説明する豊かな可能性を有しているのである。
 

3・体験構造具現モデル
 「いじめ」は(ある程度社会的に構造化した)嗜虐的攻撃を意味する日常語である。嗜虐的攻撃と戦略的攻撃は別のものであるが、通常混在しており、概念的に区別されていない。純粋に戦略的な攻撃の場合、目標にたちふさがる障害が除去されればよく、相手が苦しむか苦しまないかはどうでもよいことである。それに対して嗜虐的攻撃では、他者が苦しむことがはじめから要求されている。そこでめざされているのは、加害者が前もって有しているある体験のひな型が(たとえば実際に殴られて顔を歪めるといった)被害者の苦しみの具体的なかたちによって現実化されることである。
 以下では体験のひな型が現実化されることについての理論枠組を、精神分析学から取り出す。
 Klein,M.[Klein,M. 1975=1985〜1997]によれば、内的幻想は外的現実を体験するひな型となり、外的現実は内的幻想の裏付けとなる。たとえば乳児は絶滅の恐怖と迫害不安に満ちた内的幻想を生きており、空腹時のタイミングのよい授乳は栄養摂取のみならず、内的迫害幻想からの救済をももたらす[Klein,M. 1975=1985:62]。このような機制は、「外界における証明によって、内的、外的な危険に対する恐怖を解消しようとする」強迫的傾向を生む[Klein,M., 1975=1997:241]。Klein,M.は、幻想と現実、想定された乳幼児(本稿第2節参照)と現実の患者とが不分明な記述スタイルで議論を展開する。それに対してStolorow,R.は、体験のひな型が現実化されることについて、体験構造の具現(Concretization)という明快な理論枠組を提出した。[Stolorow,R.D., 1984:89, Stolorow,R.D. & Atwood,G.E., 1984→1993, Stolorow,R.D. Brandchaft,B. & Atwood,G.E., 1987, Stolorow,R.D. & Atwood,G.E., 1992]。
 体験構造とは、「主観的世界を形成しオーガナイズする、自己と対象との特有の布置」であり、「それを通じて自己や他者についての体験が特徴的な形態や意味を帯びるところの、認知-情動図式」[Stolorow,R.D. & Atwood,G.E., 1984→1993:33-34]である。具現とは、この体験構造を、「客観的と信じられる出来事」、「物的対象」、「実体」、「具体的・感覚運動的象徴」といったものによって、「具体化」したり、「ドラマ化」したり、「象徴的に変形」したり、カプセルに包みこんだりする(Encapsulate)ことである。
 ところで具現はドラマ化や具体化によって体験構造を維持する機能を担っている。体験構造は、具体的な何かの形態において具現されてはじめて、当事者にとってリアルな現象として現れる。具現のためにかたどられる具体的な何かの形態を、〈具象〉と呼ぼう(筆者による概念)。特定の体験構造を具現によってリアルに生きようとするニーズがある場合、ひとはそのための〈具象〉を調達しなければならない。
 Stolorow,R.Dによれば、体験構造と行為やコミュニケーションは具現によって接合される。すなわち行為やコミュニケーションの具体的パタンは、具現を通じて体験構造を維持する機能を果たす。また逆に、具現を通じて体験構造のまとまりを維持する必要のために、一定の行為をせずにはおれないとか、コミュニケーションを特定の方向に誘導せずにはおれない、といったことが生ずる。すなわち、「前もって決まった仕方で他者がふるまうよう誘導し、そのことでもって主観的な秩序とInterpersonalな領域との間に主題に関する同形性(Thematic Isomorphism)がつくられるように仕向ける」[Stolorow,R.D. & Atwood,G.E., 1984→1993:91]のである。
 本稿では以上の体験構造具現モデルを、他者操縦的・他者支配的・嗜虐的なコミュニケーションを分析するための基本枠組とする。さらにこれを集団論に適用し、特定の集団形態が特定の体験構造を具現する〈具象〉となると考える。
 以上の具現概念を組み込むことによってIPSという理論枠組は完成する。体験構造は行為やコミュニケーションや集団の形態によって具現され、具現のニーズによって行為やコミュニケーションや集団の形態が誘導される。このような機制によって、具現はIPS内部の心理過程と社会過程を接合するボンドとなる(図1における具現の位置を参照)。
 

4・〈欠如〉からの全能希求構造
 「いじめ」が蔓延する場についてしばしば次のような特徴が報告されている。漠然としたイラダチ・ムカツキ・落ち着きのなさ・慢性的な空虚感と、その反転形としての空騒ぎ。「いじめ」の形態は目的のための手段を超えた奇妙な創意に満ちている。しかもこのような「あそび」は、はっきりした充足に至らず、しばしば際限のない「だらだら」とした執拗さを示す。ここには何らかの耐えがたさがあるはずなのであるが、当事者はそれが何の欠如であるかの像を結ぶことができない。このような欠如とそれに対する奇妙な反作用的営為をどのように概念化すればよいのであろうか。
 Lacan,J.[Lacan,J., 1948=1972, 1949=1972]によれば、乳児は運動調節機能が欠如し、身体のまとまりを感じることができず、寸断されたばらばらな身体像を生きている。このような〈原初的不調和〉状況にある乳児は、他人の姿や鏡に移る自分の姿を見て、その外的な形態のなかに自分がまだ持っていない身体的統一感を先取りし、外挿する。このような外からの鏡像(欠如からの救いのイマーゴ)の受容において、多かれ少なかれナルシシズム的に体験される「わたし」なるものが生じる*4
 Kohut,H.[Kohut,H., 1971=1994 , 1972, 1977=1995, 1978=1987, 1984=1995]によれば、子どもは親との原初的な共感的環境を生きており、これによって原初的な自己のあり方(一次的自己愛)が支えられる。だが子どものニーズに完全に反応できる親は存在しない。表情の読み違えや反応の遅延は必ず起こる。子どもはこの欠如を、誇大的で顕示的な自己のイメージ(誇大自己)と賞賛される全能の自己-対象(理想化された親イマーゴ)との組からなるイメージ構成体によって代補する[Kohut,H. 1971=1994:22]。
 Hopper,E.[Hopper,E., 1991]によれば、Klein,M.が原始的な不安を示す概念として提出した絶滅の不安(Annihilation Anxiety)は、その中にすべてを飲み込み絶滅(Annihilate)する「ブラックホール」の感覚である。Hopper,E.は、絶滅の不安に対してカプセルに包む(Encapsulation)という概念を提出する。すなわち人は、絶滅の不安と結びつく感覚や情動や表象を、最初のトラウマが補償されるような筋書で再上演される心的な防壁空間に囲い込み、封印しておこうと試みる。
 上記三者の説をStolorow,R.Dの枠組(第3節参照)で再構成しつつ、第2節で示した原則により共時的な形式的モデルを抽出しよう。Lacan,J.が想定した乳児は、主観的世界の内部に位置づけられた何らかの欠如に苦しめられているのではなく、何が欠如で何が充足であるかの分節を含めて、主観的世界のオーガナイゼーション自体が解体の危機に瀕する耐えがたさを生きている。Kohut,H.の共感的環境は自己と共に主観的世界が開かれる場であり、共感的環境の失敗は主観的世界のまとまりの失敗として生きられる。Hopper,E.が「ブラックホール」と形容した絶滅の不安(Annihilation Anxiety)は、何ものかの欠如ではなく、何ものかが何ものかとして成立する体験世界のオーガナイゼーション自体が腐食し、すべてが無限の穴に呑み込まれていくような不気味な感覚である。
 ここで論じられている無限の欠如は、食物がないとか名誉がないといった何らかの欠如とは存在の水準を異にしている。これを、個々の何ものかに対する欠如と区別して〈欠如〉と呼ぼう(筆者による概念)。通常、欠如と〈欠如〉は混ざり合っているが、分析的には別のものとして扱うことができる。〈欠如〉は何ものかとしての輪郭をもたぬまま、「いいようのない」感覚として当事者に迫り、前述の漠然としたイラダチ・ムカツキ・落ち着きのなさ・慢性的な空虚感をもたらす。
 この〈欠如〉に対する反作用的あるいは救済指向的な体制化として、Lacan,J.は鏡像とそれにもとづく自己愛的な生の様式、Kohut,H.は代補的イメージ構成体、Hopper,E.はEncapsulationを提出した。だがいずれの説においても、〈欠如〉から代補的体制化にいたるメカニズムは不明である。精神分析学から抽出しうる一般モデルはここまでである。
 筆者はここまでの議論を端緒とし、さらに精神分析学とは別系列の論理を用いて、〈欠如〉からの全能希求構造*5を提出した。本稿の主題は精神分析学から有用な一般モデルを抽出することであり、紙幅も限られていることから、これについては以下で概略を紹介するにとどめる。
 〈欠如〉は無限の感覚を随伴しながら志向点となる。この志向点に対する逆を志向した、認知-情動的な暴発反応としての志向の反転が生じる。この反転において生じた志向点が全能であり、その随伴情動が全能感である。当事者にとって全能が有する唯一の意味は、〈欠如〉の無限が反転して生じた無限である。この原型的なメカニズムだけでは、全能は一時一瞬の錯覚としてしか存在しえない。全能は、何らかの具現メカニズムに埋め込まれることではじめて持続し、体制化し、嗜癖的に希求されうる*6
 ところで全能の無限性のゆえに、全能を具現する体験のひな型は、有限なもののかたちを組み合わせて無限をかたどるようなしかたで構成される。そして有限なもののかたちは無限をかたどるとされた瞬間から、特別な意味を有するようになる。全能具現に用いられる形態はたとえば、(1)限りない上昇や下降、(2)他者コントロールの完全性、(3)破壊の瞬間の爆発感覚、(4)悪ふざけによる条理の変形、(5)グループへの融合・溶解、(6)永遠の愛、(7)自己の無化など、多岐にわたるが、いったん選択されると執拗に追求される。たとえば、(1)は薬物依存、(7)は自殺、(6)と(7)の圧縮態([(6),(7)])は「トリスタンとイゾルデ」に使用されている形態である。「いじめ」は(2)(3)(4)(5)のさまざまな組み合わせに応じて、多彩な状態像を示す(これについては第8節以降で詳論する)。
 全能を具現するこのような形態のタイプがいかなるものであるかが、社会理論にとって重要な意味を帯びてくる。この形態が、薬物による身体感覚といったものではなく、自己と他者あるいは集団的結合といった社会的なものの形態であるとき、社会理論における大きな意義を有することになる。
 

5・内的ユニットモデル
 全能は特定の体験構造が具現されることによって、一瞬の錯覚以上のものとして成立するのであった。ところで全能のひな型となる体験構造をどのように記述したらよいであろうか。ここでは、体験構造を内的筋書あるいは内的表象のネットワークからなるユニットとして記述し、様々なタイプの内的ユニットが具現により断続的に活性化するというモデルを提出する。この内的ユニットに関して、Kohut,H.、Klein,M.、Kernberg,O.F.、Masterson,J.F.の諸説を示しつつ、そこから形式モデルを抽出しよう。
 Kohut,H.は、共感的環境のとぎれを代補するイメージ構成体(第4節参照)を自己と自己対象(Selfobject)の関係という観点から考える。自己対象とは、自己を支え、慰撫し、修復し、「自己の凝集性、強さ、調和を維持する」[Kohut,H., 1984=1995:73-78]何かとして体験される対象であり、しばしば自己の延長であるかのように癒着的に体験されたり扱われたりする。
 Klein,M.[Klein,M. 1975=1983〜1997, Segal,H. 1973 =1977]によれば、早期の乳児は母親を全体的な対象とみなすことができず、身体部位を断片的に体験する。それらは、母親が自分の欲求を満たしてくれるときと満たしてくれないとき、攻撃的になっているときとそうでないときとで、「良い乳房」、「悪い乳房」といったように、全く別の対象として体験される。このような「良い対象」と「悪い対象」のそれぞれとセットになっているのが「良い自己」と「悪い自己」であり、「良い自己-良い対象」セットと「悪い自己-悪い対象」セットは、現実の関係の中でめまぐるしく変転し、そのつど激しい欲求不満と断片化の不安に苛まれる。
 Kernberg,O.F.[Kernberg,O.F., 1976=1983 ,1980=1992〜1993]は、「同じ強さを持ち、記憶の中では切り離されて」いないが「情動的には完全に切り離されており、意識体験において交代し合う」[Kernberg,O.F., 1976=1983:7-8]ような、矛盾した自我状態を交代する境界例患者の臨床像から、〈(1)自己表象-(2)対象表象-(3)随伴情動〉のユニットがいくつも隔壁化(Compartmentalization)されて併存し、それが状況に応じて集塊ごとごっそり入れ替わる、というモデルを提出した。
 Masterson,J.F.[Masterson,J.F. 1972=1979, 1980 =1982, 1981=1990]も境界例患者の人格の豹変ぶりと、その著しい「見捨てられ感情」に着目した。Masterson,J.F.によれば境界例患者の母親は、不安定で耐え難い欠如の感覚から、原初的な母子融合の幻想にしがみついている。そして、その融合の筋書にあった仕方で振る舞うよう、子どもを圧迫しつつ操作する。すなわち、子どもが独自の自己を生きることをあきらめて自分の好みのイメージにかなったしがみつきをすることに対しては愛情の報酬(Reward)を与える。しかし子どもが自発的で独自な自己を示すと、それを「みすてられ」と感じてしまい、とっさに愛情を撤去(Withdraw)する仕草をしてしまう。
 このようなコミュニケーションを反復するうちに、外的な母子関係が内在化されて、(1)自己表象と(2)他者表象と(3)随伴情動とから成る特異な分裂的対象関係ユニット(Split Object Relation Unit)が子どもの精神内界に形成され、成人後もそれらが断続的に出現する。これがRORU(Rewarding Object Relations Part Unit)とWORU(Withdrawing Object Relations Part Unit)の断続出現モデルである。
 RORUは愛情供給型対象関係ユニットと訳される。それは次の三つの部分から成るユニットである。(1)自己を無にしてしがみつくことでかわいがられる良い自己像、すなわち受け身的で迎合的な良い部分的自己表象。(2)独自の自己を生きることをあきらめてイメージ通りに振る舞うかぎりで自分をかわいがる母の像、すなわち退行的・依存的な行動に対してのみ是認・支持・愛情供給を行う母親の部分表象。(3)愛され、世話をされ、再結合の願望を充足された快い感情。
 一方、WORUは愛情撤去型対象関係ユニットと訳される。それは次の三つの部分から成るユニットである。(1)独自の自発的な自己を出すことで見捨てられる、惨めで無力で不適切で空虚な悪い自己表象。(2)分離-個体化への主張や行動に対して是認や愛情供給を撤去して自分を見捨てる、つめたく残酷で敵意に満ちた母親の部分対象。(3)無力・絶望・空虚・抑欝・憎悪といった不快な感情。
 境界例患者は現実検討能力を有しているが、RORUとWORUとの不安定な断続から成る体験構造をも生きている。境界例患者は、非現実的であるにもかかわらず成人後の人間関係にRORUを狂おしく求め、他者を操作して自分の求めるRORUの筋書どおりの存在へと切り詰めようとする。しかし他者が生身の他者であること自体が、必然的にRORUをとぎれさせる。このことにより必然的にRORUはWORUに反転し、境界例患者は「愛情を撤去され」「裏切られ」「見捨てられ」たように感じてしまう。またそのような時にはしばしば憤怒が生じる。
 上記Kohut,H.、Klein,M.、Kernberg,O.F.、Masterson,J.F.の諸説から、社会理論に組み込むための形式的モデルを抽出しよう。これらの論者はすべて病理の発生を発達論的に説明しているが、本稿では第3節で論じたように共時的なメカニズムについての形式的なモデルのみを抽出する。
 Kohut,H.の自己愛的イメージ構成体は、全能体験のひな型としてストックされている自己と対象の関係についての内的表象のユニットと考えることができる。断続的にアクティヴになる内的ユニットという発想はKlein,M.に遡ることができる。ただしそれを整合的なモデルにしたのは、Kernberg,O.F.の功績である。Kernberg,O.F.は体験のひな型を、自己表象と対象表象と随伴情動の3項からなるユニットとして表記した。
 様々なタイプのユニットが各人の心理システムに複数ストックされており、このようなユニットが〈具象〉とのマッチングにおいて活性化することによって、リアルな体験が成立する。状況に応じて人がちがったようになるのは、ユニット活性の断続性に帰因することができる。全能を具現する内的ユニットを、特に全能具現ユニットと呼ぼう。内的ユニットのストックは、IPSのIntrapsychic水準に位置づけられ、状況に応じて具現される。
 Masterson,J.F.は内的ユニットモデルを他者コントロール的なコミュニケーションのモデルに組み込んだ。これは2者関係のみならず、IPS枠組による集団論に拡張することができる。全能具現のためには、内的ユニットに書き込まれた布置のとおりに他者をあらしめねばならない。自己が全能具現により〈欠如〉から生き延びる(かのように錯覚する)ことができるかどうかは、この他者コントロールの技能にかかっている。内的ユニットに書き込まれたひな型を用いて全能を具現するために他者をコントロールする現実の社会関係が、さらに社会関係についての内的ユニットに折り重なっていく。
 

6・投影同一化と容器-内容
 投影同一化は、Klein,M.によって導入された概念である[Klein,M., 1975=1983〜1997, Segal,H., 1973=1977]。投影同一化においては、自己の一部が分裂されて、外的対象に投影される。その自己の一部は、自己の一部であり続けながらそのまま、外的対象と同一視されて体験される。投影された自己の一部は、その投影された他者との対象関係において、他者の中で生きられる。この心理メカニズムに準拠して、実際の他者コントロールが行われる。すなわち、「この外的対象は、自己および内的対象の投影された部分によってとりつかれ、支配され、またそれと同一視されることになる」[Segal,H. 1973=1977:38]。「他の人々を支配しようという欲求は、自己の部分を支配しようとするゆがんだ欲動として、ある程度説明できるだろう。他の人びとのなかにこれらの部分が過剰に投影されると、投影された部分はその人びとを支配することによってのみ支配されうる」[Klein,M., 1975=1985:17]。
 Ogden,T.H.[Ogden,T.H. 1979]によれば投影同一化は、自他の境界が曖昧に感じられるような幻想であると同時に現実の他者操作でもあり、Intrapsychicな領域とInterpersonalな領域を架橋する概念である。またOgden,T.H.によれば、投影者は自分が受け手の内部に投影した感覚を、受け手が体験しているように感じる。投影された部分が望みのしかたで再内在化されなければ、投影者は心的に消耗する。
 投影同一化は、投影した自己の部分を他者の中でコントロールする内的体験にもとづいて、他者を現実的にコントロールする機制である。その際、自分にとって耐え難い体験のひな型を、他者を使用してより快適な体験の布置へと加工する方法が、Bion,W.R.[Bion,W.R., 1961=1973, Grinberg,L.,Sor,D.&Bianchedi,E.T., 1977=1982]のいう容器(Container)と内容(Contained)である。すなわち、投影される自己の耐え難い内容が投影先である容器に入れられ、その容器のなかで内容がより快適なものに変化し、その変化した内容がもう一度自己に返ってくる。このような容器として使用される側は、「誰か他者の空想のなかの一部分を演じているように操作されていると感じる」[Bion,W.R., 1961=1973:143]。
 ところで投影同一化/容器-内容のモデルを用いれば、「いじめられた者がいじめる」抑圧移譲現象を原理的に説明することができる。抑圧移譲を行う者は、かつてのいためつけられる自己を他者に投影し、他者の中でかつての自己を生きつつ、それと同時進行的に、かつてのいためつける他者として現在の自己を生き直す。このように攻撃者との同一化を組み込んだ自他反転的な投影同一化/容器-内容の機制によって、耐えがたい体験の枠組を書き換えることができる。そのため加害者は、この操作のための容器として被害者を執拗に使用する。抑圧移譲的他者コントロールにおいては、表象構造の修正のみならず、完全なコントロールによる全能具現(第8節参照)が同時並行的になされる。
 投影同一化/容器-内容において他者や集団の中で自己を生きようとして、生きさせてもらえなかったり、望みの自己が返ってこなかったりすることもある。その場合、自己と他者が重ね合わされるような体験のオーガナイゼーションが始動すると同時に頓挫するという事態が生じる。他者の中で自己が生きられることの頓挫は、しばしば独特の攻撃性を生む。次節ではこの攻撃性を扱う。
 

7・全能憤怒
 Lacan,J.[Lacan,J., 1948=1972, 1949=1972]によれば、先に挙げた鏡像作用(第4節参照)において自己ならざる他者の中でナルシシズム的な自己が生きられるのであれば、その鏡像たる他者の振る舞いしだいで(鏡像として思い通りになってくれないというだけで)、自己は容易に解体してしまう。そうすると、鏡像作用による「救済」以前の寸断された身体が露わになり、このことによりしばしば、身体の寸断という筋書によって与えられるような多彩な攻撃性が現れる。この種の攻撃性は、他者の中で自己が生きられる「主体の生成におけるナルチシズム的構造に相関的な緊張」[Lacan,J. 1948=1972:157]である。
 このような攻撃性に関してKohut,H.は、次のような自己愛憤怒という概念を提出する[Kohut,H., 1972]。全能のコントロールを予期して誇大自己が活性化し、発散へと諸力が動員される只中で、誇大自己を照らし返すべき自己対象が予期に反して非協力や不従順を示した場合、発散と抑制との混在あるいは瞬時の継起が生じる。これにより、イメージ構成体(第4節参照)はバランスを崩して解体の危機におちいる。自我はこの危機を非協力的な自己対象の悪意と腐敗に帰責する。こうして、相手を辱め滅ぼし尽くしたいという執拗な憤怒がわきおこる。これが自己愛憤怒の原理である。
 このような自己愛憤怒による攻撃衝動は、目標に対する障害を退けようとする通常の攻撃とはことなり、しばしば相手を滅ぼし尽くすまで止まらない。思い通りにならない者に対する自己愛憤怒の激しさは、利害の対立の程度ではなく、自己愛的な環境に対する完全なコントロール心理的に必要とする程度に比例している。また自分にさからうだけでなく、自分よりも輝いていた、あるいは拡張された自己ではなく独立した人格を有する他者であると感じさせられたといったことが、自己愛的な体験空間にひび入った手に負えない疵として、被害感情とともに激しい憤怒を引き起こす。
 上述の攻撃図式を、これまで論じてきた〈欠如〉からの全能具現構造に位置づけてみよう。全能具現過程の只中で〈具象〉として期待された他者が望み通りに機能しなかった場合、〈欠如〉から全能へと反転しかかった体験構造がもとの〈欠如〉へと再反転する。この再反転によって現出した〈欠如〉の耐えがたさは、思い通りになるはずだった他者のせいにされる。そしてこの帰責に即して相手を苦しめる形態を〈具象〉として、即座に全能の再具現が図られる。この場合攻撃者は、相手を苦しめつつ自己の〈欠如〉を投影同一化/容器-内容によって相手に生きさせると同時に、相手に〈欠如〉を生きさせる完全な他者コントロールを〈具象〉として自己の全能を具現する。
 以上の原理的考察に従って、以降、自己愛憤怒を全能憤怒と呼ぶことにする。
 

8・全能ユニットの圧縮-転換モデル
 これまでの議論を統合して、ひとつの実用的なモデルを提出しよう。すなわち、全能具現に用いられるさまざまな形態(第4節参照)を体験構造のユニットモデル(第5節参照)で表記し、そのユニットが単独あるいは圧縮形態で、持続したり他のものに転換したりする動態を示すモデルである。ここで圧縮とは、複数の体験ユニットがひとつの出来事を〈具象〉として具現されることである。以上を全能ユニットの圧縮-転換モデルと呼ぶ。
 このモデルでは次のような表記法を用いる。aユニットからbユニットに転換することを、a→bと表記する。aユニットとbユニットの圧縮を[a,b]と表記する。前の時点の経緯によって決定されたユニットaに別のユニットbが圧縮した場合、→(a→)[a,b]と表記する。何らかの障害によってaユニットの活性化が阻止された場合、/aと表記する。
 さて、次にこのモデルを「いじめ」に適用してみよう。〈自己表象−対象表象−随伴情動〉タイプの表記法(第5節参照)を採用すれば、「いじめ」の全能体験ユニットの基本形は次のようなものになる。〈(他者が生命的・人格的自発性の独自の中心として生きているという初期条件を前提に、だからこそ、その他者の生命的・人格的存在を踏みにじり抹殺するという営みにおいて)完全に他者をコントロールする無限の力に満ちた自己・完全にコントロールされる無力な他者・随伴情動としての全能感〉。これはすべての「いじめ」に共通する基本形である。
 無限をかたどる(第4節参照)実践的な形態としては、この基本ユニットは次の3つのサブタイプに分岐する。「いじめ」のさまざまな形態はすべて以下の3ユニットの組み合わせから説明できる。以下では煩瑣を避け、随伴情動としての全能感の項は省略する。
 (1) TB(ThunderBolt)「全能の破壊神と崩れ落ちる屠物」。
 (2) MS(Master of Slave)「全能の主人と完全にいいなりになる奴卑」。
 (3) PG(Playing God)「全能の遊戯神と変形する玩具」。この遊戯神は、新たな接続線を引いて世界の別次元の脈略を強引に結びつけ、思いのままに世界の条理そのものを一気に破壊しつつ再創造し、その思いもよらぬ形態変化の愉快なかたちに笑い転げる。
 たとえば次の事例を考えてみよう。ある「いじめ」グループは、被害者を木に登らせて歌を歌わせ、その木を揺すった。またグループは、マンションの高階層から「つかいっぱしり」をさせるのに、エレベータを使うのを禁止した。気にくわないことがあるとグループはしばしば被害者を殴った。「つかいっぱしり」で買ってこさせた缶入り飲料が冷めていたことに怒り、被害者の上半身を裸にして背中に水をかけた上で、コンクリートの滑り台を背中ですべらせた。
 まず「背中ですべらせる」ケースを分析してみよう。缶飲料が「ぬるい」ことに「つかいっぱしり(MSを具現)」に対する受動攻撃性を読み込んだ加害者たちは、まず全能憤怒(R)(第7節参照)のメカニズムによりTBを具現する体制に入る。これは、/MS→R→TB、と表記できる。これだけであれば、たとえば「殴り倒す(TBを具現)」という行為が生成されたであろう。だが同じ人物に対してTBが何度も繰り返されている場合、PGが圧縮されるようなしかたで、TBが具現されやすい(反復的虐待における遊戯混入の経験則)。それで結果としてTBとPGが圧縮され、「殴り倒す」かわりに「背中ですべらせる」が生成した。「背中で滑らせる」はTBの破壊性とPGの遊戯性の両面を満たす〈具象〉となりうる。この経緯は、/MS→R→(TB→)[TB,PG]、と表記できる。
 「木にのぼらせて歌を歌わせる」はPGの具現である。また被害者に余裕を与えることは、前述の他者存在抹殺的なコントロールの完全性という全能具現の要を損なうので、「つかいっぱしり(MSを具現)」においてエレベータの使用を禁止するのは自然な反応である。
 

9・集団
 Bion,W.R.[Bion,W.R., 1961=19731, Grinberg,L.,Sor,D. & Bianchedi,E.T., 1977=1982]は、グループ心性を、Work GroupとBasic Assumption Groupという二つの側面から考える。Work Groupは、一定の課題を操作的合理性にしたがって遂行する側面である。Basic Assumption Groupは、グループ内に共通した全員一致の意向についてのメンバーの無意識の想定(Basic Assumption)を基礎にして、メンバーの内的幻想が動かされる側面である。Basic Assumption Groupにおいては、メンバーの精神力動はしらずしらずのうちに妄想-分裂態勢([Klein,M. 1975=1985])にシフトし、グループは各人の容器(Container)となる。そして、容器としてのグループのBasic Assumptionに反するものに対して、各メンバーは不快を感じるようになる。Basic Assumption Groupでは、全体としての集団のありかたが、個人の意志や成熟度とはある程度独立に、個人の内部でいかなる態勢が活性化するかを左右する。集団内の精神力動はしばしば、メンバーひとりひとりの意志や成熟度とは独立した、全体としての集団独自のものである。
 上記の集団論をこれまでの議論に位置づけてみよう。集団はしばしば容器となり、集団形態を〈具象〉として全能具現がなされる。たとえば集団的な「いじめ」の場合、個人的な「いじめ」とは根本的に異なり、「いじめ」による全能具現を共同で遂行する集団過程それ自体がさらに全能的に体験されがちである(このように全能が二重に折り重なるタイプの集団形式を〈祝祭〉と呼ぼう)。集団が全能体験の容器となるタイプかならないタイプかをめぐる場の情報に応じて、活性化する内的ユニットがある程度自動的に切り替わる。このような場の情報による適合ユニット選択の自動化によって、付和雷同とか、場の雰囲気によって人がちがったようになるといわれる現象が生じる。集団的全能具現(〈祝祭〉)の役割関係上の分節から身分感覚が生じる。「すなお」とは、コントロールする側の全能具現に即して体験された、コントロールされる側の体験ユニット選択の自動性のことである。下位者の「すなおさ」は上位者の全能〈具象〉となる。
 第7節で論じた全能具現をめぐる攻撃のメカニズムは、集団形態を〈具象〉とした場合にも適用しうる。このことにより、次のような事象が説明可能となる。
 (1)一糸乱れぬ集団行動のなかで手をのばすタイミングを間違えた者を、号令者が真っ赤な顔で怒鳴り散らし、殴り倒す。(2)自分たちを特定の場所の主流派だと思っている「なかよし」たちが、その場所で「浮き上がったまま大きな顔をしている」と感じられる以外にはこれといって害をなさない者に対して、損得だけからは考えられないような悪意を抱き、それをあらゆる機会に実行にうつす。(3)市民的な空間ではさまざまなタイプの友人と対等につきあうのが楽しいのだが、なぜか学校で身分が下とされる者に対等な態度で「いられる」と手痛い攻撃を加えずには気持ちがおさまらない。これら加害者たちは、なぜか主観的には被害感情を有している。
 上の諸事象は次のように説明できる。従属者たちの身体が号令者の完全なコントロールのもとで単一の身体と化したように感じられる集団形態(上記(1)の場合)や、「われわれのなかよしコミュニケーション」が特定空間を完全に埋め尽くしたように感じられる集団形態(上記(2)の場合)によって、加害者たちの全能が具現されている。そして場ちがいなものの存在は、自己の延長のように体験される「われわれ」空間あるいは〈欠如〉を否認するためのカプセル(Hopper,E.)にひび入った疵として、全能憤怒(第7節)をもたらす。また、集団が全能体験の容器となるタイプかならないタイプかをめぐる場の情報に応じて、自動的に、身分関係やそれをめぐる全能憤怒が体験されたりされなかったりする(上記(3)の場合)。
 上記の純粋形に近い典型例における攻撃性や迫害性は、利害の対立の程度ではなく、(1)集団のタイプについての場の情報と、(2)集団的全能具現を心理的に必要とする程度に比例している。普通にみられる複合形の場合、(1)場の情報、(2)集団的全能具現の心理的必要、(3)利害構造という3つのファクターによって、集団的迫害が決定される。「リストラいじめ」のような集団的迫害ではしばしば、決定因子である利害構造に従って、迫害的他者コントロールによる全能具現の形態が流用される。
 (1)場の情報、(2)全能具現ニーズ、(3)利害構造という3つのファクターの配置に応じて、さまざまな集団的迫害のスペクトラムを考えることができる。しかし本稿の課題は、精神分析学に関連して全能具現をめぐる諸現象に焦点を当てつつ、有用なモデルを抽出することであった。利害と全能具現の相互埋め込み構造とそこから生じる政治空間については稿を新たに論じる。
 

 
文献
Bion,W.R. 1961 Expreriences in Groups and other papers, Associated Book Publishers = 1973 池田訳 『集団精神療法の基礎』岩崎学術出版社
Eysenck,H.,J. 1986 Decline and Fall of Freudian Empire, Pelican Books =1988 宮内他訳『精神分析に別れを告げよう批評社
Grinberg,L.,Sor,D.&Bianchedi,E.T. 1977 Introduction to the work of Bion, Jason Aronson =1982 高橋訳 『ビオン入門』岩崎学術出版社
Herman,J.L., 1992, Trauma and Recovery, Basic Books =1996 中井訳『心的外傷と回復』みすず書房
Hopper,E., 1991, "Encapsulation as a Defence against the Fear of Annihilation"International Journal of Psychoanalysis 72
井上達夫 1995 「個人権と共同性」加藤寛孝編『自由経済と倫理』成文堂
井上達夫 1998 「自由の秩序」井上達夫編『新・哲学講義7 自由・権力・ユートピア岩波書店
Kernberg,O.F. 1976 Object Relations Theory and Clinical Psychoanalysis, Jason Aronson =1983 前田監訳『対象関係論とその臨床』岩崎学術出版社
Kernberg,O.F. 1980 Internal World and External Reality, Jason Aronson =1992 山口訳 『内的世界と外的現実(上)』, =1993山口監訳 『内的世界と外的現実(下)』文化書房博文社
Klein,M. 1975 The Writings of Melanie Klein Ⅰ-Ⅳ, Hogarth =1983〜1997小此木他監訳『メラニー・クライン著作集』誠信書房(1985 小此木他監訳『メラニー・クライン著作集 4 妄想的・分裂的世界』, 1997 小此木他監訳『メラニー・クライン著作集 2 児童の精神分析誠信書房
Kohut,H. 1971 The Analysis of the Self, International Universities Press =1994 水野他監訳『自己の分析』みすず書房
Kohut,H. 1972 "Thoughts on Narcissism and Narcissistic Rage",The Psychoanalytic Study of the Child,vol.27
Kohut,H. 1977 The Restoration of the Self, International Universities Press =1995 本城他監訳『自己の修復』みすず書房
Kohut,H. 1978 The Search for the Self--Selected writings of Heinz Kohut:1950-1978 Volume 1,edited by Paul H. Ornstein,International Universiteis Press =1987 伊藤監訳,『コフート入門』岩崎学術出版社
Kohut,H. 1984 How does Analysis Cure?, The University of Chicago Press =1995 本城他監訳『自己の治癒』みすず書房
Lacan,J. 1949→1966 "Le stade du miroir comme formateur de la fonction du Je",in Ecrits,Seuil,Paris =1972 宮本他訳 「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」 『エクリⅠ』弘文堂
Lacan,J. 1948→1966 "L'aggressivite en psychanalyse",in Ecrits,Seuil,Paris =1972 宮本他訳 「精神分析における攻撃性」 『エクリⅠ』弘文堂
Masterson,J.F. 1972 Treatment of The Borderline Adolescent, John Wiley & Sons =1979 成田他訳『青年期境界例の治療』金剛出版
Masterson,J.F. 1980 From Borderline Adolescent to Functioning Adult,Brunner/Mazel =1982 作田他訳『青年期境界例の精神療法』星和書店
Masterson,J.F. 1981 The Narcissistic and Borderline Disorders,Brunner/Mazel =1990 富山他訳『自己愛と境界例星和書店
森政稔 1996 「「学校的なもの」を問う」『知のモラル』東京大学出版会
内藤朝雄 1996 「「いじめ」の社会関係論」『ライブラリ相関社会科学3 自由な社会の条件』新世社
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Segal,H 1973, Intoroduction to the work of Melanie Klein =1977 岩崎訳『メラニー・クライン入門』岩崎学術出版社
Stern,D. 1985 The Interpersonal World of the Infant,Basic Books =1989〜1991 小此木他訳 『乳児の対人世界(理論編)(臨床編)』岩崎学術出版社
Stolorow,R.D. 1984"Aggression in the Psychoanalytic Situation"Contemporary Psychoanalysis,Vol.20,No.4
Stolorow,R.D. & Atwood,G.E. 1984→1993 Structures of Subjectivity,Analytic Press
Stolorow,R.D., Brandchaft,B. & Atwood,G.E. 1987 Psychoanalytic Treatment,Analytic Press
Stolorow,R.D. & Atwood,G.E. 1992 Contexts of Being,Analytic Press


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*1:井上達夫リベラリズムの立場からこれらの問題を重視し、国家的専制・市場的専制・共同体的専制という3項からなる専制(tyrany)のトリアーデを提唱する[井上達夫 1998: 31-53]。共同体的専制について集中的に論じたものとしては[井上達夫 1995: 283-329]、学校でのそれについては[森政稔 1996, 内藤朝雄 1996]を参照。

*2:IPSは次のようなしかたでマクロ的な社会科学および社会政策と接合しうる。(1)多様な集団のフィールドワークをIPSの形態として理論化・類型化・コーパス化し、(2)そのうえで制度的枠組が様々なタイプのIPS(の浸潤や退縮)のマクロ的分布を決定する働きをシミュレートし、(3)これを参考にして「いきやすい」社会のための政策を立案・実施する。

*3:この構成法には治療技法としての利点もある。すなわち、治療者と共に「心の中の乳幼児」の比喩で自分の心を語ったり考えたりする患者の体験を、病的な体験構造を変容させる手段とすることができるのである。もちろん治療技法は、社会理論のモデルを抽出するという本稿の目的には無関係である。

*4:Lacan,J.の鏡像説が前提する乳児無能説は、乳児有能説に傾いている近年の発達科学の知見と一致しない。また、主観的世界が無統合であることに対するこのような耐え難さと救済志向は、いったん特定の統合が成立した後にそれが解体傾向にある場合にしか存在し得ない。Lacan,J.は、後になって生じる不全感を乳児に読み込んでいるのである。鏡像説を発達論として受け入れることはできないが、Lacan,J.が乳児に読み込んだメカニズムは、乳児以外の人間行動を説明する豊かな可能性を有している。

*5:〈欠如〉からの全能希求構造の詳細については、より洗練された版を準備中であるが、現在入手可能なものとしては[内藤朝雄 1996: 329-336]を参照されたい。

*6:〈欠如〉からの全能具現がなされるといっても、主観的世界のオーガナイゼーションが回復するわけではないので、〈欠如〉はそのままであるかさらに拡大深化している。そして〈欠如〉とそのすりかえ充足としての全能具現は、相互に他の産出を反復的に誘導しあう。この悪循環により「いじめ」の多くは、激情にかられているが「だらだら」しており、執拗であるが「なげやり」である、といった印象を与えがちである。