心理と社会をつなぐ理論枠組と集団論

1999年、『現代の社会病理』第14号(日本社会病理学会編)に掲載された内藤朝雄さんの文章です。「IPS」概念に関する詳細な考察が加えられています。この文章は加筆・修正されたうえで『いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体』の四章部分に収められています。


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心理と社会をつなぐ理論枠組と集団論
−−Durkheim,E.の物性論的側面を手がかりに−−


1・問題の所在
 ひとが群れ集まることで独特の集団力が生じることはよく知られている。たとえば次のような女子中学生の発言は、この力を純粋なかたちであらわしている。

 「ひとりやったらできへんし、友だちがいっぱいおったりしたら、全然こわいもんないから。なんかこころもち気が強くなるって言うか、人数が多いってことは、安心する、みたいなんで。一回いじめたら、止められないっていうか。なんか暴走してしまうっていうかな」。「友だちに「あのひと嫌い」って言われると、なんかそれ、うつっちゃうんですよ」[NHKスペシャル「いじめ」1995年10月1日放送]

 このような集団力は、女子高生をコンクリートに詰めた少年グループから、周囲の「風向き」や「空気」をうかがう日常の保身まで、濃淡の差はあれ多くの人びとの生活にいきわたっている。社会病理と呼ばれる現象はしばしばこの集団力との関連で生じる。

 近年先進諸国では、上記の集団力に関連して、国家規模の全体主義とは別の奇妙な全体主義の問題が浮上してきた。それは、国家と個人のあいだにある中小集団の規模で、徹底的に個を制圧してしまう全体主義的現象である*1。たとえば、職場や学校での人格支配や嗜虐的迫害、カルトや自己開発セミナー、家庭内の暴力、民族的憎悪や迫害などである*2。人びとはなぜこのような行為を行うのか、このような行為の連鎖にもとづいた集団の組織化はどのようなものか、このような行為や社会的組織化がエスカレートするのを抑止するにはどうすればよいのか。

 この主題にとりくむためには、非合理的で感情的と言われるような心理過程(ミクロ)と中小集団規模の社会過程(メゾ)との結合に照準し、それを理論的に表現し分析するための理論枠組や集団論が必要になる。この分析によって明らかになったミクロ-メゾ・メカニズムが、制度的な社会条件(マクロ)のもとで繁茂したり退縮したりするミクロ-メゾ-マクロ・メカニズムを明らかにすることで、政策による上記諸現象の抑止が可能になる。

 しかし、このような観点からの研究が十分になされてきたとはいいがたい。その一因として社会学における心理モデルの排除傾向がある。心理的説明を理論に組み込むことを禁じてしまえば、上記の諸現象に関する研究はほとんど不可能となる。この排除は明らかに、心理モデルを組み込むことと心理モデルに還元することとを混同し、後者の咎で前者を断罪する誤謬にもとづいている。しかしこのことを指摘してもなお、排除は前学問的な慣習の力として働く。

 この慣習に社会学史的なDurkheim,E.像が関与している。Durkheim,E.は心理的説明を否定し社会学独自の研究水準を開いた「社会学的思考」の始祖とされ、その業績は問い方や答え方の模範例(Exemplar)[Kuhn, 1970]となる。この社会学史的Durkheim,E.像*3が、研究者集団の常識形成に関与している。だが実際には、Durkheim,E.はその宗教研究において独自の集団心理学ともいうべき研究を展開していた。

 本稿では、Durkheim,E.の可能性の中心としてこの集団心理学的な論理をとりあげ、この論理の不十分さを克服するかたちで、上で要請された理論枠組(IPS)と集団論(集団的全能具現モデル)を提出する。そして最後に、これを非行少年グループのフィールドワークに適用する。



2・Durkheim,E.の物性論的側面
 Durkheim,E.は『社会学的方法の規準』[Durkheim, 1895](以下『規準』)で次のような主張をおこなう。社会は諸個人やその心理によって構成されながらも、諸個人にとって外在的かつ拘束的な創発的存在である。社会学はこのような社会を、個人やその心理とは独立したマクロ的な客観的指標から扱う。このことに関して、Durkheim,E.は次のような科学のメタファーを用いる。

「…諸要素が互いに結合し、その結合の事実から新しい諸現象が生じるときにはつねに、これらの現象は諸要素のうちにではなく、諸要素の結合によって形成された全体のうちに位置づけられる…。(中略)水の流動性や栄養にとんだ属性その他は、これを構成している二種の気体のうちには存せず、両者の結合から形成される合成的物質のうちにこそ存するのである。」[Durkheim, 1895: 訳書30-31]

 たとえば、川が流れているとき、水の一個一個の分子の振る舞い(ミクロ)を完全に無視して、勾配や川幅など(マクロ的指標)だけから、水流の速度(マクロ)を計算することができる。社会もこれと同じように、個人やその心理と独立に扱うことができるし、またそうすべきである。このような側面をDurkheim,E.のマクロ力学的側面と呼ぼう。心理的説明を否定し社会学独自の研究水準を開いたとされる、社会学史的なDurkheim,E.像は、もっぱらこの側面のみから構成されたDurkheim,E.像である*4

 ところで、すでに『規準』において、このマクロ力学的側面は綻びをみせている。Durkheim,E.は社会を生命視し、社会が考え、表象し、思考し、信じるとする(たとえば[Durkheim 1895: 訳書33-34])。これは、河川が分子運動をするとか犬が細胞分裂するといったタイプの、要素の性質をそのまま全体の性質に適用する誤謬であり、Durkheim,E.のマクロ力学的側面ともう一つの側面とが接近する際に生じる混乱である。

 このもう一つの側面は、社会的事実の性質とそれを構成する心理メカニズムとの関係や、社会的事実が「もの」として生み出される生成の論理が問題となる側面である。これを、Durkheim,E.の物性論的側面と呼ぶことにする。物性論とは、物質が固体・液体・気体などの状態において示すマクロ的な種々の性質と、その物質を構成する原子・分子の性質との関係を明らかにする分野である。

 Durkheim,E.の著作のなかでこの側面が最も前面に出ているのは、オーストラリア原住民の文献資料に即して宗教の原形的メカニズムを分析した『宗教生活の原初形態』[Durkheim, 1912](以下『形態』)である。心理的説明を拒否したはずの社会学史的なDurkheim,E.像とは裏腹に、『形態』は心理的説明に満ちている。以下では本稿の問題関心に合致するかぎりで、『形態』の論理を取り出す。

「ひとたび諸集団が集合すると、その接近から一種の電力が放たれ、これがただちに彼らを異常な激動の段階へ移すのである。表明された感情は、…全員の意識の中で抵抗なしにこだまする。(中略)人は、自分自身をいつもとは異なって考えさせ、働かせる一種の外的力能に支配、指導されている、と感じ、当然にもすでに彼自身ではなくなったという感銘を受ける。(中略)…若干数の者の接近が、結果として、各自を変形する新しい勢力を引き出すのだ、とは彼は知らない。彼が感じるのはただ、自らの限界をこえて高められ、平素過ごしているのとは異なった生活をしているということである。だが、これらの感覚を、その原因となる何らかの外的事物に彼は関連づけねばならない。では、彼は周囲に何を見るであろうか。あらゆるところから、彼の感覚に映ずるもの、彼の注意を惹くもの、それはトーテムのさまざまな画像である。(中略)経験された感情はこの上に固着するのである。(中略)これは会合が解かれた後でも、続けてそれを想起させ喚起させる。[Durkheim, 1912: 訳書上巻389-398]

 原始人は集まることの心理的効果として、世界や自己が全般的に変形を被ったように感じる(現実感覚変形イベント)。当事者たちは、そのものとして体験できないこの無限の変形力の帰属点を、なんらかの具象(トーテムの画像)において錯覚的に体験する。このとてつもない力能の帰属点として体験されるはずのものが、日常的有限物の意味連関内にあったのでは不都合であるから、上記の有形物は通常の意味連関から厳しく切り離される。この切り離しにおいて聖と俗が成立し、この区分を中心として独自の象徴と儀礼の体系が形成される。人々の体験世界は聖なる体験に関連するものと、そうでないものとで二重化し、その切り替えごとに人格が豹変するようになる。

 聖なるものを埋め込んだ象徴-儀礼体系ができあがると、今度はその成立の端緒となった現実感覚変形イベントがこの体系によって統御されるようになる。集合による変形の印象は、それだけでは解散と同時に退色していくが、この象徴-儀礼体系に埋め込まれることで、持続的に人々の心の中に刻印され、儀礼によって適切なタイミングで再生されるようになる。聖なるものは現実感覚変形イベントの効果として生じ、その聖なるものを中心として組織される象徴-儀礼体系が現実感覚変形イベントを制御的に生成する。

 原始人にとっては、聖なるものをめぐる集団的な結合体験は生々しく、そうでないものは色褪せて体験される。したがって個の価値や、個と個の絆は希薄である。たとえば原始人は、葬礼において聖なるものに反応して涙するのであって、個と個のかけがえのない絆にもとづいて涙するのではない。

 Durkheim,E.はこのような原始社会の集団力について、次のように論じている。

「それ〔集合的な力〕はわれわれをまったく外部から動かすのではない。そうではなくて、社会は、個人意識のうちにのみ、また個人意識によってのみ、実存しうるのであるから、集合的な力はわれわれに浸透し、われわれの中で組織化するのは当然である。このようにして、集合的な力はわれわれの存在の不可欠の部分となり、また、そのことによってこの力は向上し、強大となるのである。」[Durkheim, 1912: 訳書上巻379]



3・IPSと全能具現モデル
 以下では、第1節で示した主題を扱いうる理論枠組と集団論を、第2節で取りあげたDurkheim,E.の議論を手がかりにしながら、Durkheim,E.の不十分さを克服するかたちで、つくりあげる。これがIPSと集団的全能具現モデルである。

 
(1)IPS
 Durkheim,E.の物性論的側面から抽出しうる普遍的な論理は、複数の個人からなる外的社会が個人の内側から組織化するという、一見パラドックスにみえる内と外の結合様式である。すなわち、個人を内側から変形しつつ個人の内部(Intrapsychic)から作動する、その内側からの作動・変形が複数個人領域(Interpersonal)で連鎖し組織化していく作動系が、Durkheim,E.が『形態』で論じたタイプの社会である。

 Durkheim,E.自身は個の内側から個を変形する連鎖が個を超えて組織化する系を十分に理論化することに成功せず、社会が生命や意識を持つと考え、その前提のもとで集合表象や集合意識といった存在を想定する。この理論的失敗は、社会が個人の内側から働くことを強調しながら、その内側の心理メカニズムについての分節化を十分に行わなかったことに帰因する。たとえばDurkheim,E.は、集まるだけで現実感覚が変形する際の心理メカニズムや、「一種の電力」「こだま」といった現象が生ずるさいの心理メカニズムの分節化を行っていない。「こだま」や「電力」といった表現に頼らず、いかなる心理メカニズムが、いかなるしかたで、いかなる個を超えた連鎖領域で系をなすのかを分節的/分析的に論じる理論的展開が必要であった。この分節/分析を経ることがなければ上記の系は、ひとの直感に対して、それ自体で生気に満ちているかのように映現するだろう。

 上記の系について、以下では筆者なりのしかたで論理を発展させる。第1節で示した主題を探求する場合、非合理的で感情的な心理メカニズムを重要な要素とした次のようなループが問題となる。すなわち、各人の心理状態が場の雰囲気(場の情報)によっていつのまにか(ある程度自動的に)別の内的モードに切り替わってしまい、さらに場の雰囲気が内的モードに規定される人びとのふるまいの連鎖によって形成されるような、心理と社会が形成を誘導し合うループである。このようなループを扱うには、個人水準をさらに細かい心理メカニズムに分解したところから社会水準の現象を説明する理論構成が要求される。

 上記の心理過程と社会過程の形成誘導的ループを形式的に定式化すれば次のようになる。(1)Intrapsychicな心理過程に導かれて行為やコミュニケーションが生じる。(2)この行為やコミュニケーションの連鎖集積から、Interpersonalな小規模社会空間が秩序化されつつ生成する。(3)さらにその秩序化された社会空間が成立平面となって、Intrapsychicな心理過程が導かれる。このように心理過程と社会過程とが形成を誘導し合う螺旋的なループをIPS(Intrapsychic Interpersonal Spiral)と呼ぼう(図−1)。





 Durkheim,E.がおこたった内的モードの分節/分析は、IPSにおいては図−2のように表現できる。このように分節化されたIPSに、研究対象や研究方法に応じて、心理系隣接諸分野から有用な説明モデルを適時抽出・加工・転用して組み込むことができる(図−3)*5





 IPSは、その内的論理が心理と集団との接合メカニズムであると同時に、心理とマクロ社会とを接合する媒介となる。具体的な心理メカニズムと集団過程との接合は比較的容易であるが、具体的な心理過程と何万・何億のマクロ社会とを集団による媒介なしに接合することは、高度テクノロジーによる例外的なケース*6を除けばほとんど不可能である。IPSの理論枠組によれば、ミクロ(心理)*7とメゾ(集団)の接合態(ミクロ・メゾ接合としてのIPS)が、マクロ社会的な環境によって繁茂・退縮する([ミクロ・メゾ]・マクロ接合としてのIPSの生態学的布置モデル)。心理系隣接領域から抽出された説明モデルはミクロ-メゾ水準のIPSに組み込まれ、このIPSを媒介してマクロ水準に接合される(図−3)。

 IPSは次のような可能性を有している。さまざまな集団のフィールドワークをIPSというフォーマットで理論化し、さまざまなタイプのIPSについての形態論を整備する。そのうえで制度的枠組がさまざまなタイプのIPSのマクロ的分布の濃淡を決定する働きをシミュレートし(IPSの生態学的布置モデル)、これにもとづく社会政策を立案・実施する*8



 (2)集団的全能具現モデル
 以下ではIPSの枠組のもとで、『形態』の個々の論理を手がかりにして、第1節の主題に照準した集団論を提示する。

 ひとびとが集まる場の情報により内的モードが、ある程度自動的に別のタイプに切り替わる。たとえばDurkheim,E.がいうところの「電力が放たれる」現象は、この集合的な場の情報による内的モードの転換のことである。

 この内的モードの転換による圧倒的な変化の感覚は、容易に全能の感覚*9として体験され、この感覚を核とした特定の内的モードが形成される。全能の感覚は、聖の感覚のみならず、力の感覚、融合の感覚、無の感覚といったさまざまな変種を有している。全能感に関する内的モードは、場の情報によって再現的に活性化されるようになると、IPSの構成要素となる。

 全能の感覚を核として生じる特定の内的モードやそれを集団的に具現する営為の体系が、当の体系と内的モードを再生産する仕方で全能の感覚を繰り返し再生することがある。このとき集団的な全能具現の連鎖はIPSをなす。集団的に全能を具現するIPSでは、(1)全能を共同の様式と作業で具現しつつ、(2)かつ当のグループ過程自体が全能的に体験されるというしかたで、二重の全能感が圧縮されていることが多い。全能を共同の様式と作業で具現しつつ、かつ当のグループ過程自体も全能的に体験されるようなグループ過程を〈祝祭〉と呼ぶことにしよう。

 一定数の者があるタイプの内的モードに導かれてコミュニケーションを連鎖させるとき、しばしば、この連鎖の形態が場の情報となり、近接する他者たちの内的モードを同一のあるいはそれと適合したタイプへと転換させる連鎖が生じる。『形態』で「こだま」と呼ばれる現象は、この連鎖のことである。

 各人は複数の内的モードを有しているが、身体や客観的世界は1つしかないので、全能の感覚を中心とした内的モードがある程度中心化すると、他のモードでの生活のリアリティが希薄になることがある。たとえばDurkheim,E.が描く原始人においては、別の内的モードによる親密な個と個の関係が希薄になるほどに、集団的な聖をめぐる内的モードが中心的な位置を占めている。

 以上が集団的全能具現モデルである。このモデルは宗教のみならず、さまざまな分野に応用の可能性が開かれている。

 最後に次節では、集団的全能具現モデルを非行少年グループのフィールドワークに適用する。

 

4・非行少年グループのフィールドワークへの適用
 (1)事例
 以下は筆者によって1997年に北日本のある都市でなされたフィールドワークである。

 公立A中学の1年生に「軍団」なるグループが発生した。上級生グループに「目をつけられた」者たちが対抗的に団結したのが結成の発端であったが、しばらくすると少年たちは「軍団」にふけりはじめた。それ以前の彼らは、特別に問題のある少年たちではなかった。彼らは2年生になると学校や地域を「制覇」しはじめた。彼らは、同学年のクラスに次々と乱入し手当たりしだいに殴った。授業中にも乱入した。廊下でだれかれかまわず因縁をつけ、卑屈な態度をとらない者を殴った。気にくわないと思った下級生には「焼きを入れ」た。上級生グループや他校のグループとも抗争した。他校との抗争中には、路上でその学校の生徒をみつけると、無関係な者でも殴った。また抗争に木刀などの武器を用いることもあった。A中学の生徒たちは暴力支配におびえて暮らした。彼らの暴力に対して保護者も教員もなすすべがなかった*10教員たちは、彼らの卒業を待ち、その後に「生活指導」のひきしめを図る方針をかためた。

 「軍団」のつきあいは卒業後も続いている。彼らは集まっていっしょにいることを好む。彼らの中心メンバーの多くは高校を中退し、定職を持たず、街を徘徊しては他のグループと抗争したり、さまざまな事件で警察に逮捕・補導されたりしている。筆者は彼らの居住地域にしばらく滞在し、行動を共にした。少年たちは自慢話*11花を咲かせ、筆者はひたすら興味く聞いた。

 彼らは中学時代の被害者について、次のような話をおもしろおかしく話し、笑い興じる。(1)不良に反感をもっているまじめな生徒を待ち伏せしておもいきり蹴ったら教室の端から端まで飛んでいって、鉄パイプのようなものに頭をぶつけた。さらに彼に土下座させて謝らせ、それをふんづけた。(2)「弱すぎるからふざけて殴っていた」生徒が、2日間飯を食えなくなった。彼はバナナを一本もって学校の前まで来たが、足がふるえて歩けなくなり、学校に近寄れない。それから○○公園に行き、遺書を書き自殺しようとしたが、未遂で終わった。

 当時、彼らは何に対しても「むかつく」「むかつく」と言っていた。例えばある少年は、朝起きて親とけんかしてむかつく。学校に行って男子と女子が仲良くしているのを見てむかつく。廊下を歩いていて理科室のにおいがしてむかつく。「廊下がきにくわねえ」。といった具合である。また別の少年は、自分たち以外の者が「調子に乗っている」とむかつくと言う。「調子に乗る」とは、例えば授業中にうるさいとか、女といちゃいちゃするとかいったことである。

 中学時代の彼らはむかつくとだれかれかまわず殴る。気がおさまるまで殴る。あばれたらすっきりする。彼らは当時をふりかえって言う。「みんなむかついていた。みんなあばれていたよ」「どうしようもなかったよ」「楽しかったな」「狂気だよね」。「軍団」活動のピークと「むかつく、むかつく」と言っていたピークとはだいたい一致している。

 彼らは仲間内で悪いことをしたことを自慢し合う。すごいと思われるとうれしい。暴力は「力の誇示」であり、その「力」を仲間同士でほめあう。例えばある少年は別の少年のことを、「強い・危ない・かっこいいと三拍子そろった」といったふうにほめる。彼らは学校を制覇し、他校のどこにも負けないと誇る。それに対して筆者が「甲子園大会で優勝したようなものだな」と言うと、実に嬉しそうな表情をする。ある少年は「かっこわるいやつは弱い」という。強いと後輩から「神様みたいに」あがめられ、女子からもてるから気持ちがいい。ある少年は、当時学校の便所に放火したことを自慢する。別の少年は、校長室に乱入し「なんでクラス替えしねえにゃ、こらっ」とヤクザの口まねをしながら椅子を蹴り、おびえた校長が逃げたことを自慢する。別の少年は、シャベルをもって暴走族を待ち伏せし、殴りつけていたことを自慢する。

 「軍団」の少年たちは、「友だち」が一番大事と口をそろえて言う。彼らは「友だち」のかっこよさや強さを嬉しそうにほめたたえる。だが話をよく聞いてみると、ある時仲が良かった「友だち」が、次にはぼろくそに言われている。例えばある少年Aは少年Bと特別仲がいいと語っていたし、実際にそのようであった。しばらくたってBが「つきあいが悪い」と言うことで仲間内の悪口の標的になると、AはBをぼろくそに言う。例えば、Aは自分たちのメンバーの名前を挙げながら、「こん中、かっこわるいのいないっす」と言った。その直後に誰かが「B以外」と言うと、Aが「B以外みんなかっこいいっす」と言葉を続け、まわりがうなずく。また、ケンカが一番強いことからリーダー格と目されていた少年Cも、「つきあいが悪い」ということで悪口の標的になったことがある。彼らが集まるときはいつも他の人たちの話をする。話題としては、先輩の話と、その場にいない仲間の悪口が多い。つきあいが悪いものは悪口の標的にされる。少年たちは、これまでの向背定かならぬ人間関係の経緯をすべて記憶しているが、このことを感情的には切り離していた。「けっこう不安定な人間関係だね」という筆者に対して、少年たちは「みんな、仲いいですよ」と答えた。

 ある少年はあらゆることにむかつくと言いながら、仲間について次のように語る。「一人でいたらむかつく。ひとりでいると胸がもやもやしてくる。仲間といると、ひとりのむかつきがおさまる」。

 筆者は別の少年と2人で話した。彼は仲間から「強い・危ない・かっこいいと三拍子そろった」とほめちぎられていた少年である。「軍団」と縁が切れたら自分はどうなると思うかと尋ねると、彼は「弱くなる」と答えた。(1)両親が死んだら、(2)(結婚するつもりの)彼女にふられたら、(3)学校を退学になったら、弱くなると思うかという質問に対して、彼は「思わない」と答えた。仲間といて何が与えられるのかという質問に対して、彼は「仲間といると何でもできるっていうか」「自分を守るっていうか」と答えた。

 あるとき彼が盗んだバイクの件で仲間が警察につかまり、彼はチクったという疑いをかけられた。そのときどう感じたか尋ねると、彼は「むかついた」と答えた。この件で仲間と縁が切れそうになったときどう感じたかという質問に対して、彼は「強い方につくっていうか。そういう疑われたりしても、強いやつが、そう言えば従うというか」と語った。

 彼に円グラフをイメージしてもらい、自分にとっての重要度という点で、「軍団」の仲間、親、結婚するつもりの彼女、学校がそれぞれ何パーセントになるかを答えてもらった。すると彼は、「軍団」40パーセント、親20パーセント、彼女20パーセント、学校20パーセントと答えた。次に筆者は、A君、B君、C君、D君…と、「軍団」のひとりひとりの名前を挙げながら、自分にとってどのぐらいの重要性があるかを尋ねた。すると彼は、「ひとりひとりは、べつに、何とも思わないです」「とくべつ仲いいとか、そういうわけでもないです」と答えた。上の円グラフをイメージしてもらうと、彼はひとりひとりの重みを「1ぐらい」と答えた。筆者は、「例えばA君B君C君とあなたの4人で会うと仲間の重要性は40だけど、ひとりの個人だと1になるんですね」とたずねた。彼は「はい」と答えた。

 

 (2)分析
 少年たちは日常的にむかついている。そして、ありとあらゆることにむかついている。少年たちのむかつきは、自己の目標達成を妨げる何かに対する怒りという意味での、通常の攻撃性ではない。むかつきは、本人たちにもよくわからないしかたで体験世界の全域に瀰漫している*12

 少年たちは仲間と集まり、暴力によってかたちを与えられる全能感によって、むかつきから「守られ」、「なんでもできる」ような気分になる。この全能感は仲間を媒介することによってしか得られず、仲間と疎遠になると自分が「弱くなる」。それゆえ救済財としての仲間の重要性は、ときとして親や恋人や学校よりも重くなる。しかし、「軍団」のひとりひとりの人物の重みは無にひとしい。

 少年たちの集団は、(1)暴力によってかたちをあたえられる全能感を中心にして組織化され、(2)その組織化に制御されながら暴力の全能感が再生され、(3)その全能感を中心にして集団が再組織化される、IPSをなしている。このようなIPSをなすことにより、「軍団」は最初のきっかけ要因(防衛のために団結する必要)から離陸し、それ自体の内的論理によりエスカレートした。

 仲間関係に位置づけられた暴力は、孤独な暴力では感じることができない全能感をもたらす〈祝祭〉的暴力である。暴力による全能具現を共同で遂行するグループ過程それ自体がさらに全能的に体験されるという意味で、全能は二重に折り重なっている。集団の自己再産出の枢軸ともいうべき全能具現は、(1)暴力の全能感を共同の様式と営為で達成するグループ過程が、(2)当のグループ過程自体が全能的に体験されるようなしかたで連鎖することにおいて、安定的に供給される。さらに仲間内での自慢-賞賛によって、個々の暴力遂行は必ず位置ある暴力(the situated violence)となり、少年たちは位置ある全能の自己を与えられる。

 事例の少年たちにおいては、集合的全能感を核とした内的モードが著しく中心化し、他のモードによる現実構成が解体傾向にある。これは、被害者に対する感覚(いわゆる虫けら扱い)だけでなく、仲間に対する感覚にもあてはまる。仲間は集団的全能の共鳴板としてのみ扱われる。

 また「むかつき」については次のように考えることができる。(1)集団的全能具現を核とする内的モードが中心化することによってその他の体験構造が解体傾向に陥る。この解体傾向に帰因する曖昧な不全感として「むかつき」が生じる*13この「むかつき」に対してさらに集団的全能具現が起動され、上記の中心化が悪循環的に進行する。(2)少年たちは、全能具現的営為を起動するための触媒として「むかつく」よう、自分たちの心理状態を操作している。



文献
Durkheim,E., 1895 Les Regles de la Methode Sociologique, Felix Alcan, (宮島喬訳 1978 『社会学的方法の基準』岩波書店
Durkheim,E., 1912 Les Formes Elementaires de la vie Religieuse, Felix Alcan(古野清人訳 1975 『宗教生活の原初形態』岩波書店
Canetti, E., 1960 Masse und Macht, Claassen Verlag(岩田行一訳 1971 『群衆と権力』法政大学出版局
本間康平・田野崎昭夫・光吉利之・塩原勉編 1988 『社会学概論〔新版〕』有斐閣
Kuhn, T. S., 1970 Structure of Scientific Revolutions, University of Chicago Press; 2nd ed.(中山茂訳 1971 『科学革命の構造』みすず書房
内藤朝雄 1996 「「いじめ」の社会関係論」、鬼塚雄丞丸山真人・森政稔編『ライブラリ相関社会科学Ⅲ 自由な社会の条件』新世社
内藤朝雄 1997 「いじめ」、浦野東洋一・坂田仰編『入門 日本の教育』ダイヤモンド社
内藤朝雄 1998 「「いじめ」のミクロ・メゾ・マクロ統合理論」、日本精神衛生会編『心と社会』 No.91
内藤朝雄 1999(a) 「精神分析学の形式を埋め込んだ社会理論」『情況』6月号 情況出版
内藤朝雄 199(b) 「自由な社会のための生態学的設計主義」 家計経済研究所編『季刊 家計経済研究』 第44号


本稿は1996年度トヨタ財団研究助成による研究成果の一部である。フィールドワークにあたっては、大野俊和氏(日本学術振興会特別研究員)に御協力いただいた。

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*1:全体主義という実践的な概念用具が状況に応じて輪郭を変じていくとすれば、国家と個人のあいだにある中小集団規模の全体主義(が構造的に埋め込まれた社会編成)をも含めた、包括的な全体主義概念のスペクトラムを想定してもかまわない。全体主義概念ののスペクトラムおよび現代社会に適合的な概念のタイプについては、本稿で主題的に論じることはできない。別の機会にまとまった論考を提出したい。

*2:もちろん、ここで問題化されている諸現象が過去に比べて増加あるいはエスカレートしたと言うことはできない。Canetti,E.が集めた古今東西の事例によれば、上記のタイプの集団現象は人類の歴史と共に古いと考えることができる[Canetti, 1960]。先進諸国で人権意識の水準が高くなっていることが、問題化がいきわたる条件となったと考えることもできる。しかし程度の差はあれどの社会にも存在するとしても、そのことが事態を問題化しないまま放置する理由になるとはいえない。むしろ、人類の宿痾の病ともいうべき普遍的な現象がさまざまな条件のもとで繁茂したり退縮したりするメカニズムに取り組むことは、単に近代や現代だけの問題に取り組む以上に意義深いとも言える。

*3:例えば、筆者が目にした限りで最も完成度が高く水準を落としていないと思われる教科書『社会学概論〔新版〕』のDurkheim,E.の項は、Durkheim,E.のマクロ力学的側面(本稿第2節参照)が社会学史的Durkheim,E.像として選択されていることを典型的に示している[本間康平・田野崎昭夫・光吉利之・塩原勉編, 1988: 7-8, 10]。

*4:前述の社会学史的なDurkheim,E.像は科学社会学的な観点から、Durkheim,E.のマクロ力学的側面は理論内容に関する分析的観点から名づけられた概念であるが、その内容は同じである。

*5:IPSに精神分析学から抽出した説明モデルを埋め込んだ応用例としては、拙稿を参照されたい[内藤, 1996: 332-354, 1998, 1999(a)]

*6:たとえば、パソコンによって何千万人もの人びとがリアルタイムで参加する株式市場で心理的パニックと株価の上下が同期するといった場合が、この例外的なケースである。ただし将来的には集団(メゾ)を媒介しないこのようなミクロ・マクロIPSが普通の社会現象になるかもしれない。

*7:従来の社会理論は個人水準の現象を最小要素とし、その結合から創発する複数個人水準以上の社会現象を研究対象としてきた。それに対してIPSを組み込んだ社会理論はミクロ方向に射程の限界を拡張し、個人よりも小さな心理メカニズムを最小要素とし、複数個人水準以上の社会現象を研究対象とする(図-3)。

*8:拙稿では、この観点から「いじめ」問題に関する政策提言を行った[内藤, 1996: 357, 1997: 52-55, 1998: 78, 1999(b)]。

*9:全能概念の詳細については拙稿を参照されたい。[内藤, 1996: 332-336, 1999]

*10:彼らは事態を教育問題ととらえ、司法による解決や出席停止を嫌った。筆者が話を聞いた被害少年の親たちは加害少年を敵視せず、話し合いの場では彼らの健全育成を願う会話がなされていた。この親グループが筆者の前で嫌悪を示したのは、抜け駆け的に警察に相談した被害少年の親や、暴行により身体に損傷を受けたとして生徒を告訴した一教員に対してである。

*11:彼らが自慢したり盛り上がったりするために話す内容を、そのまま事実として受け取ることはできない。しかし彼らの話は、本当に起こった出来事かどうかにかかわらず、グループの秩序や現実感覚を分析するための重要な資料となる

*12:むかつきとよばれる感覚がいかなるメカニズムによって成立しているかについては、拙稿による〈欠如〉論を参照されたい[内藤, 1996: 332-336, 1999]

*13:当事者はこの「むかつき」をありとあらゆる細かい「おもいどおりにならないこと」に帰属し反応するから、あたかも「欲求不満耐性が欠如している」かのような状態像を示す。「欲求不満耐性」という概念を安易に使用することは、非行少年に対する理解を妨げる。理科室のにおいに「むかつく」少年は、「欲求不満耐性が欠如している」どころか、欲求の秩序が特定のIPSに特化してしまったのである。