自由な社会のための生態学的設計主義

1999年、『季刊 家計経済研究』第44号(家計経済研究所編)に掲載された内藤朝雄さんの文章です。ジンメルノージックの議論を参照しつつ、「いじめ」問題に取り組むための設計主義的アプローチについて考察しています。


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自由な社会のための生態学的設計主義
 −−「いじめ」の秩序を退縮させるジンメルノージック的条件を手がかりにして−−


1・「いじめ」研究の射程
 「いじめ」は80年代半ばから、市井、政界、ジャーナリズム、アカデミズムといったさまざまな領域で問題として扱われてきた。だが現在にいたるまで実践的に有効な対策は講じられていない。また「いじめ」は、「脳死」(医療社会学や臨床的倫理学)や「女性」(フェミニズムあるいはジェンダースタディ)といった同じ社会問題起源の主題にくらべ、学問化の歩みが遅れている。

 「いじめ」は、多くの人びとの生活を苦痛と不安に満ちたものにする放置できない現象である。そればかりでなく「いじめ」研究は、1・心と社会、2・社会秩序、3・自由な社会の構想といった学問的・思想的に重要な問題群に、新しい展開と成果をもたらしうる。

 1・「いじめ」は、人が群れ集まるときにしばしば生ずる、心理(ミクロ)過程と集団(メゾ)過程との特異なループを浮き彫りにする現象である。すなわちコミュニケーションの集合的連鎖に応じて各人の内的モードがある程度自動的に切り替わり、その切り替わる内的モードにもとづいて、次の時点のコミュニケーションの集合的連鎖が導かれる。このように心理過程と社会過程とが相互に他を誘導しあうループをIPS(Intrapsychic-Interpersonal Spiral)と呼ぶ(図−1)。このループでは、独特の現実感覚とメゾ秩序(IPS秩序)が存立し、「場の雰囲気によって人がちがったようになる」とか「付和雷同のうずに巻き込まれる」といわれる現象が生じる。

 この心理-社会的な秩序形態は、「いじめ」を生むメカニズムでもあるが、たとえ「いじめ」が起きていない局面であっても、人びとの生を圧倒し枠づける。集団が個に対して「いきぐるしく」「いきがたく」迫ってくることの内実は、この秩序の形態のうちに存する。



 2・「いじめ」が浮き彫りにするようなタイプのIPS秩序は、それ以外のさまざまなタイプの顕在的および潜在的なメゾ秩序と、社会空間の占有をめぐって競合している。このさまざまなメゾ秩序のせめぎあいに対していわば生態学的な環境のはたらきをするのが、制度・政策的なマクロ秩序である。pHや温度や湿度といったマクロ条件によってシャーレ中の雑多な微生物群の生態学的布置が変化するように、制度・政策的なマクロ秩序によってメゾ秩序の生態学的競合の帰趨がきまってくる(図−1)。個々の秩序に対する豊かな知識をもとにしたマクロ環境操作によって、秩序の生態学的競合を方向づけ、「いじめ」タイプの特殊なIPS秩序を退縮させることができる。

 3・自由な社会を構想する最近のリベラリズムの議論は、各人の自由を確保するための具体的な条件整備の問題よりも、大まかな哲学的論議に比重がかけられる傾向がある。また、具体的な議論としては国家や市場にかんする論議がよくなされるのに対して、中間的共同体で個の自由が破壊されるメカニズム、あるいはこのメカニズムを抑制して個の自由を確保する施策についての議論は比較的乏しい。井上達夫は自由を破壊するものとして、国家的専制・市場的専制・共同体的専制の三項からなる専制のトリアーデを提唱し、特に日本社会においては共同体的専制の比重が大きいことを指摘する[井上達夫 1995:283〜329ページ、 1998:31〜53ページ]。

 共同体的専制が個に迫る主要な様式は、限定的で予測可能な法によって個が守られない状況での、無限定的で予測困難な「非法的・非公式的な制裁」[井上達夫 1995:307ページ]、この制裁に対する持続的な不安、この不安に駆られた「自発的服従」として卑屈や黙従や過度の同調を引きだす陶冶圧である。この「非法的・非公式的な制裁」の内実は、「いやがらせ」、「いごこちを悪くする」といったことであり、これは要するに「いじめ」あるいは「いじめ」の形態の流用である。同じリストラの人員削減でも、普遍的な基準により一律になされるものと、「いじめ」によって辞めるように仕向けられるものとでは、その生きられ方がまったく異なる。自由な社会の構想においては、共同体的専制に対する有効な抑制策として、「いじめ」タイプのIPS秩序を退縮させる上述の生態学的環境操作が枢要となる。

 以上が「いじめ」研究の射程である。このすべてを本稿で詳しく論ずることはできない。また、筆者の研究はこの射程の一部を明らかにした段階にある。すなわち、さまざまな「いじめ」のスペクトラムのうち、もっぱら比較的単純な(夾雑物の少ない・純粋型に近い)状態像を示す学校関連の「いじめ」をとりあげ、「いじめ」にかかわる心理-社会的なメカニズム、およびこのメカニズムにもとづく独特なメゾ秩序を論じた[内藤朝雄 1996、 1999(a)、 1999(b)]。

 上記の体系的な「いじめ」研究の第一歩として、本稿では次のことを行う。1「いじめ」の心理-社会的メカニズム、およびこのメカニズムが埋め込まれて創発するIPS秩序の理論的アウトラインを示す。2秩序の生態学モデルおよび生態学的設計主義の構想を示す。3この生態学的設計主義の立場から、ジンメル(Simmel,G.)による社会圏・支配・分化についての議論を手がかりにして、「いじめ」の秩序を退縮させる条件を示し、学校にかんする制度・政策的な設計原理の変更を提案する。これはリベラリズム社会学の結合に寄与する議論にもなるであろう。


2・「いじめ」の秩序
 「いじめ」が蔓延する場では、しばしば、個と個の信頼関係がないにもかかわらず濃密に密着しあっていたり、市民的な秩序の解体と祭政的な秩序の過重が同時進行していたり、幼児的な「わがまま・やりたいほうだい」とグループの力関係をめぐる大人びた政治や辛抱が同居していたりする。多くの「いじめ」論では、「希薄な人間関係」、「過剰な同調圧力」、「幼児的」、「計算高く大人びた」、「秩序解体」、「過剰な管理」といった叙述がなされている。これらはどれも現状の一端を示しているが、概念としては相互に矛盾する。「いじめ」論の多くは、素朴な自然言語的了解に依存し、何をもって濃密-希薄・幼児的-大人的・無秩序-秩序過重というのか、といった概念の検討が不十分なまま議論を展開している。

 またそれらの概念は単数形でイメージされがちである。しかし秩序や絆のタイプは複数ある。あるタイプの秩序を秩序と観ずる立場からは、別のタイプの秩序は無秩序に感じられるかもしれない。あるタイプの絆を絆とする視点からは、別のタイプの絆は「希薄」と感じられるかもしれない。さらに各人はさまざまなタイプの内的モードを有しており、「幼児的」とか「大人びた」というのはあるタイプの内的モードに対する粗雑な名前にすぎない。過酷な「いじめ」の空間を生きる者たちは、しばしば、「幼児的」と呼ばれる内的モードと「大人びた」と呼ばれる内的モードを組み合わせて、悪乗りと保身のたくみなコンビネーションを生きている。

 「無秩序」とか「幼児的」といった貶価的指摘は、改善すべき事態の的確な認識を妨げる。「いじめ」が浮き彫りにする独自の心理-社会的な秩序を説明する理論が必要である。この秩序は、全能具現モデルをもとに、全能具現と利害構造の接合モデルで説明できる。

 (1)・全能具現モデル: 「いじめ」はあるタイプの全能を一定の体験のひながたを通して具体的なしかたで現実化する営為*1である。

 (2)・全能具現と利害構造の接合モデル: 上記の全能具現と利害構造の接合から独特な政治空間が創発する。


 (1)・全能具現モデル*2
 「いじめ」が蔓延する場では、漠然としたむかつき・いらだち・落ち着きのなさ・慢性的な空虚感と、その反転形としての空騒ぎがよくみられる。そこで少年・少女たちは、具体的な何かが欠乏しているというよりも、あたかも世界が開きそこね、「すべて」ができそこなってしまったかのような「いいようのない」感覚をもてあましている。これを(たとえば空腹や貧乏などの)何ものかに対する欠如と区別して〈欠如〉と呼ぶ。この〈欠如〉からの反転的救済感覚として全能が嗜癖的に求められる。人びとは全能を求める体験のひながたを有しており、そのひながたを具体的なものの形において現実化する(全能具現)。この全能具現の側面は「幼児的」な印象をあたえる。全能具現のひながたは、しばしば自己と他者あるいは集団的結合といった社会的な形態をとる。

 「いじめ」による全能体験のひながたは、1他者が自己と同様の生命的・人格的な自発性の中心として生きていることを前提に、それを破壊する際の悲痛の手応えで成立する*3、2完全にコントロールする自己と完全にコントロールされる他者、という基本構造を有している。この体験のひながたは距離を自律的に調節しにくい社会環境で活性化しやすく、加害者は他者が崩れゆく状態に入り込むことにより、そこから自己の全能を生きる。このひながたを具現するための素材として被害者が探し求められる。

 ところで、「群れると気が大きくなる」といわれるように、集合形態が全能的に体験されることがある。集団的な「いじめ」の場合、「いじめ」による全能具現を共同で遂行する集団過程自体がさらに全能的に体験されがちである。このように全能が二重に折り重なるタイプの集団形式を〈祝祭〉と呼ぶ。このメカニズムにより、「一人のときにはいじめようという気にもならないのに、みんなといっしょになるとなぜかそういう気持ちになってしまう」といった現象が生じる。〈祝祭〉での全能のコミュニケーション的作用面を当事者たちは「ノリ」と呼び、これを独特な倫理秩序の準拠点としている。「みんなのあそび」は選択の余地のない運命として降りかかり、メンバーはこの「ノリ」の結節点であることを要求される。それ以外の個としての存在はきわめて軽視される。「ノリ」は一見「無秩序」な空騒ぎに見えるが、そこには「やりたいほうだい」にかんする厳格な秩序がある。「ノリ」は強い者を中心に湧出し、全能の配分において身分が生ずる。強者は「ノリ」を引き起こし弱者は玩弄物となるといったふうに、各人は分をもって全体に奉仕する。たとえば中学時代に「いじめ」に加わっていたある高校生は、被害者のことを「彼は役的にそういう人だったんですよ」と言う*4。筆者が話を聞いた高校生の多くは、仲間内の「ノリ」や人間関係が中学時代の関心のほとんどすべてを占めていたかのように語る*5

 さて〈祝祭〉あるいは「ノリ」の場では、奇妙な距離のとりにくさが生じる。特にコミュニケーション形態を用いた全能具現を中心とした内的モードに入っているときは、投影同一化(Projective Identification)*6、あるいは自己の主体性をとびこえて他者が自己に入り込み、自己が他者の中で生きられてしまうかのような現実感覚が突出してくる。たとえば「われわれ仲良しのノリ」に対してズレている他者は、自己の内側に入り込んで汚染してくるように感じられる。そして「そういう態度をとられた」といった被害感情が湧き出す。こういう被害感情は、自分でもどうしようもないもの(当事者はこれを「むかつく!」という一言で表現する)に感じられる。そして相手をぼこぼこに殴るなり「しかと」するなりして、その顔が苦痛に歪むのを味わうことなくしては自分たちの汚染されたこころが浄化されないように感じられる。またその際の「むかつき」は、自己とは別の自発性の中心を生きている他者についての自己の否定的な感情ではなく、他者の内部で耐えがたくなってしまった自己のただれた気分として体験される。そして自分が強者であるか弱者であるかの身分に応じて、その他者を自由に使用して「ストレスを解消」できるかどうかが決まる。このように自他嵌入的に共生される不快感は、それがどんなに身勝手なものであっても、何をやっても自分には責任がない(相手がその場でみんなをそういう気持ちにさせたのだから悪い)という現実感覚をもたらす。

 以上、全能具現モデルの骨格を「いじめ」の原型的メカニズムとして提示した。ほとんどの場合、全能具現は他のメカニズムと結合した相で存在している。全能具現と利害構造との接合から独特な政治空間が創発する。


(2)・全能具現と利害構造の接合モデル*7
 「いじめ」の場では、〈祝祭〉、権力、倫理秩序といった領域で、全能具現と利害構造が接合し埋め込みあい、そこから独自の政治空間が創発する。こうして創発した政治空間が、次の時点の全能具現や利害構造の成立平面となる。

 まず全能具現と利害の結合の様式について考えてみよう。フロイトFreud,S.)はその性発達理論で、性欲動が生存機能から形態を借用すると考えた[Freud,S. 1905=1997]。この借用は依託と呼ばれる。性欲動は、たとえば口(栄養摂取)や肛門(貯蔵や排泄)の機能形態に埋め込まれ、口唇期、肛門期といったふうに発展する。現在ではフロイト説を文字通りの意味で信じる者はほとんどいないが、その思考様式には学ぶべきものがある。「いじめ」の場では、利害が全能具現にその形態を提供し、全能は利害に依託して形態化する。

 権力は、その骨格が利害の式から構成される複合的な利害構造である。宮台真司によれば、権力の基本構造は次のようなものである[宮台真司 1989]。すなわち、X(たとえば強盗の被害者)のオリジナルな選好がA(お金を払わない)>B(お金を払う)であったのに対し、Y(強盗)の行為(お金を払わなければ撃つ)をXが予期することにより、Xの選好順位がB>Aと変わるとき、YからXへと権力が作用している。この骨格自体は、全能具現とは何の関係もない利害図式の組み合わせである。ところが経験的に、権力の形態は全能具現のひながた(完全にコントロールする全能の自己と完全にコントロールされる無力な他者)として借用されることが多い。権力者が「いばり」がちなのは、権力そのものではなくこの借用のメカニズムによる。

 利害と全能具現の接合には「タフ」というタイプがある。「耐えるタフ」のうえに「うまくやりおおせるタフ」が重なり、そのうえに「いじめるタフ」あるいは「いじめるシニカルなタフ」が重畳する。

 強者からの理不尽な迫害が圧倒的な場合は、利害計算により耐えることが選択されがちである。このとき「やられっぱなし」になるしかない者が、耐えることそれ自体を「タフ」という全能具現のひながた(「我が心は鋼のごとく」)へと体験加工することがある。

 また、生き延びるのが厳しい状況ではさまざまな対人テクニックにより「うまくやりおおせる」必要がある。このとき、「タフ」の全能を生きる者は「うまくやりおおせる」ことを全能具現のひながたにし、それを「タフ」の全能に重ねて生きるようになる。

 この生存の美学はそのまま集団の倫理秩序となる。そこではなによりも「なさけない」ことが悪いことである。そして苦労して「タフ」になり「うまくやりおおせる」ようになった者には、「いじめ」る側に転じる権利が生じる。「あいつがなさけないから悪いんだ」という発言は、保身のための中和の技術[Sykes,G.M. and Matza,D. 1957]であると同時に、生存の美学からなる倫理秩序をも表している。

 「タフ」が「うまくやりおおせるタフ」の段階で止まる場合と、それ以上進行し「いじめるタフ」や「シニカルにいじめるタフ」に進行する場合がある。前者の段階で止まるか、後者にまで進行するかは投影同一化傾向の程度による。「タフ」に投影同一化傾向が加わってはじめて、「なさけないやつを見るとムカムカし、いじめたくてムズムズする」といった現象が生じる。たとえば、ある者は上位者から徹底的に「いじめ」られ、ひどい心身症になった*8。その後「タフ」になり、「耐えるタフ」から「うまくやりおおせるタフ」に進行し、宮廷政治的なテクニックが発達した。そして「偉くなる」ことを熱望した。しかし彼は「いじめるタフ」にはならなかった。彼の場合、「自分は自分、他人は他人」という傾向が強く、他者にとり憑いてその内部から自己の体験を反復したり生きなおしたりする共生傾向、すなわち投影同一化傾向が希薄であった。それに対して、別の者は中学時代に「いじめ」られた記憶を反芻しながら、「苦労が足りない」者をいためつける欲望にとり憑かれていた*9。彼は投影同一化傾向が大きく、自己の耐えがたい体験のひながたが他者のちょっとした気にくわない態度の中で生きられてしまい、他者の苦しみにおいて自己の救済を生きずにはいられなかった。

 「タフ」の倫理秩序はさまざまなしかたで普遍的な正義を破壊する。「きびしい世間」を体現する「タフ」な者は、「世間はそういうものではない」と重々しくあるいはシニカルに宣言するだけで、「タフ」になっていない者に対してあらゆる不正をはたらくことが許される。正義の者が有力者の不正にあらがった場合、力関係の違いにより敗北し、暴力に圧倒されたり財を失ったりしがちである。それに加えて、「タフ」の倫理秩序のもとでは、彼を破滅的な事態に陥れた当の加害者側が、「自分の世話(安全の確保・財の確保)もできないなさけなさ」を倫理的に非難しつつ「教育」的な語りで正義の者をあざけり貶価する*10。加害者側は、強者が正義を踏みにじり好きなように弱者の運命を弄ぶのは「しかたがない」という体験を他者に生きさせながら、自己の側では「世間の厳しさ」を体現する「いじめるタフ」の全能を生きる。このとき加害者側は、「自分が何をしているかぐらいはちゃんと知っているけど、こうするよ(→おまえは弱者だからどうしようもないだろう→薄ら笑い→実行)」といった逆説の気分*11による全能具現を、「我が心は鋼のごとく」の変奏として自己刺激的に用いる(「シニカルなタフ」)。

 「いじめ」で〈祝祭〉のイニシアティヴをとり、被害者という祭具を共同製作・共同使用する音頭をとることは、「我らの『ノリ』の結節点として生きよ、さもないと痛い目をみるぞ」という権力行使であり、しかも「コントロールするパワーに満ちた自己」という全能を自己に対しても他者に対しても具現する営為である。このように権力に依託した全能をこの身に現す者(強者)は、やり、やらせ、見せる。強者は、自分の示唆に対して「下の者」たちが創意をこらし、「とりまき」が拍手喝采し、自分を中心とした全能の域がにぎわうのをみる。たとえばある者は、「一番のボスは気まぐれでボコボコに殴ることがあるが、多くの場合、下の者たちがありとあらゆる屈辱的な『いじめ』をするのを、ニタニタ笑いながらみていた」、と中学時代を回想する*12

 「いじめ」による〈祝祭〉は脅しにより力を顕示し、自己勢力を拡大する合理的な戦術でもある。ボスといえども「強さ」を実演していないと、いつなんどき転落するかわからない。また身分が中位の者にとって、〈祝祭〉に参加することは、「なめ」られないように強く見せかけたり、大勢の中に紛れ込んだりする保身策となる。と同時に、こうした人びとの戦術によってエスカレートする〈祝祭〉を通じて、当の戦術が合理的となるような空間がひらかれる。たとえば上のインタビューイーは、次のように語る。「中一の新学期には誰が強いのかわからず相手の出方を探り合っていた。そのときだけはみんな態度が丁寧だった。そうこうしているうちにいじめを通じて、こいつが強いのかとか、あいつがこいつの子分なのかとか、彼はいじめられそうだから仲良くするとあぶない、といったことが確定してきた。こういった身分が確定してくるにつれて、いじめはますますひどくなった」。

 「いじめ」タイプのIPSは、次のような基本原理を有している。〈祝祭〉と権力と倫理が、全能具現と利害という2軸の重なりにおいて相互に支えあい、独自の祭政一致的な政治空間を創発する。この政治空間が成立平面となって、次の時点の〈祝祭〉と権力と倫理の結合構造が導かれ、さまざまなコミュニケーションとともに全能具現的な心的過程が再産出される。〈祝祭〉がなければ権力はそのイベント資源を失って解体し、権力の支えがなければ〈祝祭〉は遂行が困難になる。このように〈祝祭〉と権力は相互に支えあい、さらにこれらと倫理秩序が相互に支えあっている。

 次節以降では、このようなIPSが繁茂したり退縮したりする生態学的な条件を論じる。

 

3・生態学的設計主義による「いじめ」対策と学校政策
(1)・秩序の生態学モデル
 「いじめ」の蔓延が浮き彫りにするような社会状態が好ましからざるものであるとしても、それを無秩序状態と呼ぶことはできない。秩序が存在しないという意味での無秩序状態は、現実の社会にはほとんど存在しない。たとえば森林が破壊されたあとにブタ草などがまだらに繁茂した場合、これもやはり一定の生態学的植生なのであり、「不毛状態」ではない。地上に無生物状態はめったに存在せず生態学的布置が変わるだけである。これと同様、あるタイプの秩序が衰退することは他のタイプの秩序が繁茂することであり、無秩序の出現を意味しない。またAタイプの秩序が退縮し、Bタイプに置き換えられるまでのタイムラグにCタイプが繁茂し、そのCタイプの作用として病理と呼ばれる現象が頻発することがある。このCタイプが特に無秩序という名で呼ばれやすい。しかしCタイプは無秩序ではなく、秩序のタイプが転換するタイムラグに繁茂しやすいタイプの秩序である。「いじめ」が蔓延する状態は無秩序状態ではなく、あるタイプの秩序が別のタイプの秩序に対して優勢となった状態である。前節で論じた「いじめ」の秩序は、このような秩序の生態学的布置の中で、社会空間の占有をめぐって他のタイプの秩序と競合しながら存立している。

 秩序の生態学モデルは、一般的に次のように示される。さまざまな秩序が、他のさまざまな顕在的秩序、あるいはそうでありえたかもしれない潜在的秩序とせめぎあいながら、独自の位置(niche)を占めて存立している。ある秩序は別の秩序を潜在化したり、変形したり、下位秩序として組み込んだり、促進したりする。さまざまな秩序がせめぎ合う生態学的な局域に対して、環境のはたらきをするのがよりマクロな秩序である。たとえば経済・法・制度・政策といったマクロ環境が、IPS秩序の生態学的布置を枠づける。この枠づけによる操作の可能性を最大限に引きだすのが、生態学的設計主義である。

 ところでハイエク(Hayek, F.A.)は、個々の好ましいふるまいを設計し指導する全体主義社会主義の設計主義を徹底的に批判した[Hayek, F.A. 1944=1992]。ハイエクが批判するタイプの設計主義とは異なり、生態学的設計主義において設計されるのは、個々のふるまいではなく、さまざまなふるまいがそこで出会われる枠である。生態学的設計主義は、知識が限られている状況[Hayek, F.A. 1960=1986:38〜60ページ]で実践的に有効な成果をもたらす。生態学的設計主義は、ひとつひとつの要素のふるまいを統御するのではなく、細部を十分に把握しきれない複雑な生態学的布置の動態を大枠により方向づけ、そこから実践的に満足しうる帰結を引きだす。

 生態学的設計主義にとって、ノージック(Nozick,R.)の主張は魅力的である[Nozick,R. 1974=1998]。ノージックは、万人にあてはまる最善の生や社会状態が存在しないことを、膨大な名前の羅列によって示した。すなわち彼は、ウィトゲンシュタイン、エリザベス・テイラー、バートランドラッセル、ピカソ、モーゼ、アインシュタインソクラテス、ヘンリー・フォード、ババ・ラムダス、ガンジーエドマンド・ヒラリー卿、釈迦、フランク・シナトラ、コロンブスフロイトエジソン、あなた、あなたの両親などの多彩な名前を挙げ、「これらの人びとの各々にとって最善であるような一種類の生や社会状態が、実際にあるだろうか」と問う。そして「全員が住むべき最善の社会が1つある、という考えは、私には信じられないものに見える」と述べる[Nozick,R. 1974=1998:503-504]。

 ノージックは、多種多様な善い生と社会状態が殲滅し合うことなく発展を遂げるための共通基盤を要請する。彼はこれをユートピアの枠とよぶ。この枠の具体的内実は、他のタイプのユートピアに対する攻撃を禁止し、各ユートピアに対する個人の選択権と移動の自由を保障するといったことである。この枠の中でさまざまなユートピアが平和共存しつつ魅力によって淘汰される。このように働く枠それ自体は、善い生及び社会状態を求める個人の情熱にとって魅力に欠けるものでなければならない。すなわち枠は枠としてはたらくために、特定の善い生と社会状態を積極的に示すものであってはならない。

 ところで善い生と社会状態が多元的に展開する枠を「ユートピア」の枠と名づけることに、筆者は同意できない。さまざまに分布する善い生の核となる拠点は、コミュニティ*13としての「ユートピア」とは限らず、家族や対(カップル)や個人やさらに個人の心理的断片でもよい。またそれらはさまざまに多重帰属されるであろう。以下ノージックユートピアを善い生と社会状態と読み替えて論を進める。

 さてノージックは、上記の枠が多種多様な生と社会を形づくるメカニズムとして、濾過法を提出する。濾過法とは、一定の条件だけをフィルターで濾過して除去する手続きである。ノージックによれば、「濾過手続きは、限られた知識しか持たず求められている最終的産物の性質を厳密には知らない企画者にとって、特にふさわしい手続である」。彼はそれを次のように進化になぞらえる。「進化は、自分がどんな生物を創造したいかを厳密には知らないある慎み深い神が適切にも採用した生物創造の手続、なのである」。[Nozick,R. 1974=1998: 509〜510ページ]

 枠の中で、さまざまなタイプの善き生と社会が生成したり、発展変化したり、消滅したりし、その全体が生態学的な布置をなしている。このダイナミズムの中で、どのタイプの善い生と社会状態が生成する(べき)か、あるいはどのような生態学的布置を示す(べき)かは、誰にもわからない。このことがわからなくても、実践的にどういう制約条件のもとで生態学的展開がなされるべきかは最低限わかっている。つまり、なにが生起すべきかはわからなくても、なにが生起すべきでないかはわかっている。

 ノージックが推薦する濾過手続は、次のようなものである。他の善い生と社会状態の自由を侵害したり攻撃を加えたりすることを禁止する。人びとはさまざまな社会状態を自由に選択したり拒否したり脱退したりできる。このことは、個人に自由を与えるのみならず、さまざまな善い生と社会状態に魅力という淘汰圧*14をかける。

 この濾過手続きは単に悪いものを避ける効果があるだけでなく、多種多様な生と社会状態を繁茂させる。とくに魅力による淘汰の場合、ある時点で魅力のフィルターを通過した善い生と社会状態が次の時点ではより高い基準*15の魅力を創設し、第二次淘汰の際には第一次淘汰を通過したものがふるい落とされる。このように、魅力によるフィルターは、生のスタイルの選択肢空間をますます複雑で魅力的なものにしていく。このことは愛や信頼や倫理や快楽や絆に関する、洗練されたスタイルの享受可能性の増大を意味する。生のスタイルを自由に選べる人間は、高貴さや美や愛や絆の質に関して贅沢になり、自己の尊厳の感覚が染みつき、完成度の低いものをますます愛さなくなる。こうして人間世界と人格は多元的に洗練されていく。

 ノージックは枠と濾過法の理論を、さまざまな善い生と社会が共存しながら成長する共通基盤としてだけ考察した。また、その枠の具体的内実として侵害の禁止や自己決定権の確保といったものを考えただけである。しかし、より一般的な理論枠組として秩序の生態学的モデルを考えれば、悲惨な結果をもたらすようなタイプの濾過法も考えられる。たとえば法的介入を排し暴力をもっぱら自然発生的な自治や自力救済にまかせるというフィルターや、人びとを強制的に長時間いっしょにしておくといったフィルターは、さまざまな生や社会のスタイルを絶滅させ、特定のタイプの多様*16なスタイルだけが繁茂するような生態学的推移をもたらす。ノージックがひとつのタイプだけで考案した枠と濾過法の理論をより一般的な理論へと拡張する必要がある。秩序の生態学モデルでは、さまざまなタイプの濾過法が考えられる。

 次に、前節で論じた「いじめ」のIPSが繁茂するようなタイプの濾過を効果してしまう枠として、学校の設計原理を検討してみよう。


(2)・学校空間
 前節で論じた〈祝祭〉・権力・倫理の相互埋め込みを原理とする特殊なIPSはある特殊な環境条件のもとで繁茂し、そうでなければ他のIPSに位置を奪われる。学校の基本的な設計原理は、「いじめ」タイプのIPSを繁茂させるような生態学的環境を構成する。

 学校は共同体であるとして、生徒が全人的に交わらないでは済まされぬよう、互いのありとあらゆる気分やふるまいが互いの立場や命運に大きく響いてくるよう、制度的・政策的に設計されている。また学校は、市民社会の秩序と切断しておく不断の努力により、疑似共同体として保たれている*17。学校ではこれまで何の縁もなかった同年齢の人々を朝から夕方まで毎日ひとつのクラスに囲い込み、さまざまな関わりあいを強制する。そして、集団学習、給食、班活動、掃除、雑用割当、学校行事、各種連帯責任などの強制を通じて、ありとあらゆる活動が小集団自治訓練として編成される。

 このような具体的条件は濾過法的な枠としてはたらき、ある程度市民社会と独立した自然発生的な自治空間を繁茂させ、人びとは全人的にこの局所的な空間に隷属するようになる。

 上記の具体的条件は「ここはどういうところか」「どのような秩序の場か」という場の情報として受け取られ、前節で論じた投影同一化および集団的全能具現(〈祝祭〉)に関わる各人の内的モードが(半)自動的にアクティヴになる(図−1)。たとえば、学校でかなり残酷な「いじめ」にふける者が、市民的状況では「うって変わったようにおとなしい」という事象は、この内的モードの転換によって起こる。

 さらに上記の設計は、生存*18をめぐる利害関係を構造的に過密化する。立場や生存が賭けられた利害(「強者」と「弱者」の関係では生殺与奪!)の関連性は非常に密になり、生活空間は「いじめ」のための因縁づけ・囲いこみの資源に満ちる。あらゆる些末な生活の局面が、他者の感情を細かく気にしなければならない不安な集団生活訓練となる。学校が全人的な「共同体の学び」となるよう意図された制度的・政策的空間設計(=過密飼育の檻)が、前述の心理-社会的な政治空間を支える環境条件となる。

 上記の設計のもとで生徒たちが埋め込まれる自然発生的な秩序は、「こころ」の秩序である。すなわち、その場の雰囲気を超えた普遍的なルールや正義による秩序ではなく、「まじわり」「つながり」あう各人の「こころ」や「きもち」が動き合うこと(を問題にすること)がそのまま秩序化の装置となるようなタイプの秩序である*19。前述の〈祝祭〉・権力・倫理秩序の錯綜する秩序状態は、「こころのまじわり」がそのまま秩序化の原理となり、互いの「こころ」や「きもち」に対する反応が互いの運命に即座に響いてくるような秩序状態のもとで繁茂し、普遍的なルールの支配のもとでは退縮する。

 「こころ」を秩序化の原理とした生活空間では、いつも他人から「こころ」をあげつらわれ、互いの「こころ」を過度に気にし、不安な気分で同調しなければならない。普遍的なルールではなく、「こころ」や「きもち」に準拠してクレイムをつける場合、攻撃する側は、気にくわない者に対して攻撃点をどこにでも見出すことができる。攻撃される側は、あらゆる方向から「こころ」を見られ、自分の「こころ」に反応する他人がどういう悪意をもつかわからず、それにより自分の運命がどう転ぶかわからない不安を全方位的に生きる*20

 「こころ」や「きもち」が普遍的な正義の代替物あるいは機能的等価物となるところでは、過酷な集団心理-利害闘争を生き延びるために、自己の利益にかなった仕方で真に迫った雰囲気を醸成し上手に他人を巻き込んだり、迫力で相手を圧倒したりすることが強いられる。集団心理-利害闘争の淘汰圧が厳しい集団生活では、さまざまにあり得た生のスタイルのうち、全能感と利害のマッチングをしたものが生態学的な優位を占める。全能感だけ(たとえば単純な乱暴者のスタイル)、利害だけ(たとえばコミットが浅いまま損得勘定をするだけのスタイル−−彼は集団生活を生き延びるために「気合いを入れる」ことを強いられるだろう)というものすら、全能と利害のコンビネーションプレイの有利さの前に敗北し、消えていく。このような政治空間では、具現に至る全能筋書きの多くが利害計算に貫かれており、政治的戦略の多くに全能と利害のマッチングが見いだされる。そして、ありとあらゆる生の様式にこの政治戦略が刻印される。

 普遍的な正義ではなく「こころ」や「きもち」が秩序化の装置として位置づけられるということは、集団の「まじわり」や「つながり」に離反する「こころ」の自由が許されないことを意味する。「こころ」は人格の尊厳と真理の座ではなく、保身や生存のための集団心理-利害闘争の器官としてすり切れるまで活用される。それ以外の仕方で各人が各人の仕方で善く生きるスタイルを追求することは不可能になる。

 「こころ」のこの政治的活用により、個人としての対人情動図式が解体傾向に陥る。たとえば自分は本当は誰が好きで、誰がなぜ憎いのかがわからなくなり、その判断を場の雰囲気に代替させるようになる。数分前になかよくしていた「ともだち」が「みんな」からうとまれはじめると、「いじめたい気持ち」になり、「みんな」といっしょに蹴っていた、といったケースは枚挙にいとまがない。このような対人情動図式の解体傾向は、〈欠如〉生成の主要な要因となり、〈欠如〉が人を集団的全能具現へと駆り立てる。

 ところで、学校の設計による濾過作用は、ノージックが推薦する濾過作用と正反対の効果をおよぼす。学校では、選択の余地のない特定の「なかま」集団の共生が善い生であると前もって決められており、それ以外の生は許されない。「なかま」集団で主流勢力となった者たちは、他のタイプの善い生と社会状態を生きようとする自由を侵害したり攻撃したりすることができる。このことは、各々が愛や信頼や倫理や快楽にかんする、各々にフィットしたスタイルの洗練や成長を享受することを不可能にする。それがどんなに醜悪なものに感じられても、与えられた「みんな」のスタイルを生きなければならない。

 このことを端的に示しているのが、「ともだち」の悩みと「しかと」の苦しみである。たとえば、誠実でない、あるいは迫害する者を友とせず、気楽に互いのこころの真実を語り合える者を友とするというのは、自由な人間にとっては自明のことである。ところが共同体を強いる学校では、酷薄な「ともだち」との関係に苦しむとき、より美しい関係を求めて友の選択を変更するのではなく、クラスの「ともだち」とうまくやっていくように自分の「こころ」の方を変更することが強いられる。学校では友を選択する権利が剥奪されるので、ときには傷つき試行錯誤をしながら、自分の生にフィットした絆のスタイルを探索しつつ成長することが不可能になる。

 学校の集団生活では、次のような人格変容を起こす可能性が高い。すなわち、「みんな」の「ノリ」によって「ともだち」が個と個の信頼関係を裏切ったことに悩み、その結果として自分の「こころ」を集団生活にあわせて変更し、完成度の低いものであってもそれが絆であれば自己を支えるためにしがみつくという人格変容をおこす。このことは、自由な人間にとっては奇異に感じられるかもしれないが、選択の余地がない場合には、多くの人がそうなりうるのである。学校のクラスに朝から夕方まで囲い込むことは、酷い「ともだち」に悩む者に対して、次の二者択一を迫ることを意味する。すなわち、酷薄な絆にしがみつくことを選択するか、毎日朝から夕方まで過ごす過剰接触的対人世界に絆がまったく存在しない状態を選択するかである。この苦しさは友を選択できる自由な人間には理解しがたい苦しさである。「しかと」という「いじめ」は、学校の枠がなければ存在しえない迫害の様式である。もし、出会いにかんする広い選択肢空間とアクセス可能性が十分に確保されており、そこから自由に交友関係を試行錯誤できるのであれば、「しかと」で他人を苦しませるということ自体が存在できない。すなわち、なにやら自分を苦しめたいらしい疎遠なふるまいをする者には魅力を感じないので、他の友ともっと美しいつきあいをする、という単純明快な選択を行うだけですべてが解決する。「しかと」をしようとする者は、他者が崩れゆく状態に入り込むどころか、単純明快に「つきあってもらえなくなる」だけである。

 共同体を強いる学校環境の濾過作用では、多種多様な高貴さや美や愛や信頼や倫理や絆がその試行錯誤による成長の可能性とともに絶滅していき、前節で論じた〈祝祭〉・権力・倫理秩序の成立平面下で成型されるタイプの生と関係のスタイルが繁茂する。

 上で論じたような事態は学校にかぎらず、強制的な共同体化がもたらす普遍的な現象でもある。たとえば、戦時中に近隣関係が組織化され、さまざまなイベントと共に共同体的様式が強制されたとき、いままで潜在化していた妬みや悪意が自由に展開し、以前は起こらなかったような「いじめ」が頻発した。中国の文化大革命はさらにひどい結果をもたらした。これらの集合的嗜虐の詳細は設計されたものではなく、政策決定者にとっては「熱心のあまりの、やりすぎ」と思われたかもしれない。しかしこれらの政策は生態学的濾過作用をおよぼし、「いじめ」タイプの秩序を繁茂させ、その他のタイプを退縮させるのである。

 このような生態学的な繁茂と衰退をいかに回避するかという実践的施策が、学校だけでなく、職場・地域・民族などに関する広範な共同体的専制問題の中心に位置づけられねばならない。

 

(3)・ジンメル的思考による自由のための学校の再設計
 「いじめ」のIPS秩序を生態学的に退縮させ、ノージックが提唱する自由な社会の枠組を維持するには、ノージックの主張する最小国家ではなく、少なくとも中規模の政府による生態学的設計を必要とする。この設計の指針を、ジンメル(Simmel,G.)*21による圏・支配・分化についての議論を手がかりにして考察し、学校の設計原理の変更を提案しよう。

 ジンメル[Simmel,G. 1890=1998、 1908=1994]によれば、人びとが所属する集団や人びとが活動する社会圏が大きくなればなるほど、人びとは自由になる。これは社会的結合の原理が、具体的・個別的・主観的なものから、抽象的・普遍的・客観的なものに変化するからである。この変化が起こらない場合は、社会が大きくなっても自由は拡大しない。

 社会の規模が大きくなるにつれて、全体の統一を維持するために、抽象的で客観的な形式を採用しなければならなくなる。社会を結合する抽象的な形式は、個人にとって隔たった距離にあり人格的支配を行わないから、人びとを自由にする。また抽象的な形式による支配は、個人の限られた一部だけを服従に充て、その他の部分を全く自由な状態にしておく。個人が巻き込まれたくない部分は、支配に巻き込まれずにすむ。したがって、客観的な支配は人びとにとって耐えやすい支配である。全人的な支配はきわめて耐えがたいのに対して、一面的で抽象的な支配は耐えやすい。分業と社会的結合の客観化が進むと、職分と人格が切り離され、上位とは単なる抽象的な地位にすぎなくなる。また個人が複数の集団に所属するほど、人格が分化し自由が拡大する。

 ジンメルは、(1)個人、(2)個人からなるより小さな圏、(3)すべてを包括するより広い圏という三層を区分する。そして、個人と広い圏は相互に支えあい、小さな圏と対立すると考える。ジンメルは述べる。「われわれが身をゆだねる圏が狭ければ狭いほど、われわれはそれだけますますより少しの自由しかもたない。しかしその代わりに、この圏そのものは個性的なあるものであり、まさにそれが小さいものであるから、鋭い境界づけによって他の圏から分離される」[Simmel,G. 1908=1994(下)314ページ]。広い圏に支えられて人びとが自由で個性的な人格になればなるほど、小さな圏に無関心になる。しかし、ジンメルはアトミズムを主張しているわけではない。別のところでジンメルは、小さな家族が重要性を増し、個人が自由に参加し形成する団体において人びとは名誉の感情による絆でむすばれ、それに対して国家は干渉できないとも述べている[Simmel,G. 1890=1998: 116〜117ページ]。ジンメルの構図は、は強制的な共同体から普遍的・抽象的・客観的なものが個を守り自由にし、自由になった個がそれぞれの仕方で新たな絆を選び取り育成するというものである。これはノージックの構図と基本的に同じである。

 ジンメルが示した自由のための枠をまとめてみよう。

 (1)人が動きまわる社会圏はグローバルであること。
 (2)所属する集団は大規模であること。
 (3)社会の結合の原理は客観的・普遍的・抽象的なものであること。
 (4)人びとは複数の集団に所属する。
 (5)自由に選択したり脱退したりしうる、愛や絆や誇りや喜びや自己成長のための関係ユニットに限っては、以上の規定はあてはまらなくてもよい。

 (1)(2)(3)(4)は、(5)を豊かなものにするための条件でもある。

 このジンメル的原則により、「いじめ」の秩序を退縮させる、学校の再設計のプランを提示しよう。


 (1)学校の公的業務は知育に限定する。ただし、この公的業務の限定の枠内で、教員の個人差に応じて、さまざまな隣人愛的善意が展開するのを妨げない。学校では試験を行わず、子どもは役所で随時国家試験を受ける。それにたいしてどんな勉強の仕方をしようと自由である。学校で勉強することを選択してもしなくてもよい。

 (2)学校の内規は知育業務の遂行にかんするものに限定し、秩序維持のアウトラインは法律で行う。教員は警察や裁判官の業務は行わず、業務妨害に対しては退去を命じ、従わなければ警察を呼ぶ。暴力が生じた場合は即座に警察を呼ぶ。制服や頭髪の規制など法律にない強制はいっさいしてはならない。

 (3)義務教育の内容を、一定範囲最低限の学力認定国家試験を子どもに受けさせることに限定する。その最低限の一定範囲は、日本語と算数と法律とする。ただし最低限範囲の試験に落ち続けた場合は、個人指導サービスチケットを消化することが、親に対して義務づけられる。

 (4)最低限の義務教育以外は、収入に逆比例するようなチケット配布制の権利教育とする。権利教育は、学術系、技能修得系、豊饒な生の享受系の3つに分かれる。学術系と技能修得系は、国家試験が厳しく、努力と自己コントロールが要求され、職業上のキャリアと直結する。学校は国家試験を準備するためのチケット制サービス機関となる。豊饒な生の享受系は、芸術やスポーツや旅行などで、公的な補助をうける自発的なクラブあるいはサロンからなり、ただ享受することを目的とし、試験はない。子どもたちはこのクラブを自由に選び、いったりきたりし、その親睦的人間関係の試行錯誤を通じて、自己のスタイルを確立していく。政府はこのクラブ群にたいして潤沢な補助を行う。街に林立するクラブ群を、縁日を歩くようにいったりきたりできる環境により、グローバルな領域での出会いのチャンスを増やす。交際圏のグローバル化と友の自由選択により「しかと」系の「いじめ」は存立不能となる。

 (5)このような関係のネットワークの範囲は、子どもたちが電車やバスで移動できる範囲となる。この範囲全体で、暴力を禁止する最後の防衛線は司法である。少年法を改正し、暴力にかんしてだけは自己責任主義の度合いを強める。これをしないと、きわめて陰惨な地域社会のギャング支配がおこる可能性がある。暴力に対してはだれでも法による実効的な救済を求めることができる状況を確立することで、暴力能力の差は意味をなさなくなる。このことで暴力系の「いじめ」は激減する。

 (6)大学はその学科に応じて、学術系・技能系の国家試験の合格単位の組み合わせで入学資格を与える。

 


文献
Freud,S. 1905 Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie, in Gesammelte Werke, Imagao Publishing(1940)=1997 中山元訳「性理論三編」 中山元編訳『S.フロイト エロス論集』筑摩書房
橋本努 1999 「自由な社会はいかにして可能か?」『社会学の知 33』新書館
Hayek F.A. 1944 The Road to Serfdom=1992 西山千明訳『隷属への道』春秋社
Hayek, F.A. 1960 The Constitution of Liberty=1986 気賀健三・古賀勝次郎訳『ハイエク全集5 自由の条件Ⅰ』春秋社
井上達夫 1995 「個人圏と共同性」 加藤寛孝編『自由経済と倫理』成文堂
井上達夫 1998 「自由の秩序」 井上達夫編『新・哲学講義7 自由・権力・ユートピア岩波書店
Klein,M. 1946 Notes on some Schizoid Mechanisms, International Journal of Psychoanalysis,29, in 1975 The Writings of Melanie Klein Ⅰ-Ⅳ, Hogarth =1985 加納力八郎・渡辺明子・相田信男訳「分裂機制についての覚書」 小此木他監訳『メラニー・クライン著作集 4 妄想的・分裂的世界』誠信書房
熊沢誠 1989 『日本的経営の明暗』筑摩書房
宮台真司 1989 『権力の予期理論』勁草書房
宮本政於 1993→1997『お役所の掟』講談社
森政稔 1996 「「学校的なもの」を問う」 小林康夫船曳建夫編『知のモラル』東京大学出版会
内藤朝雄 1996 「『いじめ』の社会関係論」 鬼塚雄丞丸山真人・森政稔編『ライブラリ相関社会科学3 自由な社会の条件』新世社
内藤朝雄 1997 「いじめ」 浦野東洋一・坂田仰編『入門 日本の教育 ’97−’98』ダイヤモンド社
内藤朝雄 1999(a) 「精神分析学の形式を埋め込んだ社会理論−−「いじめ」を典型的な例題として−−」、『情況』6月号 情況出版
内藤朝雄 1999(b) 「心理と集団をつなぐ理論枠組と集団論−−Durkheim,E.の物性論的側面を手がかりに−−」日本社会病理学会編『現代の社会病理』第14号
中井久夫 1997 「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』みすず書房
Nozick,R. 1974 Anarchy, State, and Utopia, Basic Books=1998 嶋津格訳『アナーキー・国家・ユートピア木鐸社
Ogden,T.H. 1979 On Projective Identification, International Journal of Psychoanalysis,60
Simmel,G. 1890 Uber sociale Differenzierung, Duncker&Humblot=1998 居安正訳「社会分化論」『現代社会学大系1 ジンメル 社会分化論 宗教社会学』青木書店
Simmel,G. 1908 Soziologie, Duncker&Humblot=1994 居安正訳『社会学』(上、下)白水社
Sykes,G.M. and Matza,D. 1957 Techniques of Neutralization, American Sociological Review., vol.22: 664〜670ページ


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*1:このうち特に重要なのは、集合的な全能具現としての「いじめ」である。

*2:本稿では紙幅の都合で比較的直感的な表現を用いたが、より厳密な定式化による全能具現モデルの詳細については[内藤朝雄 1996、 1999(a)、 1999(b)]を参照されたい。

*3:従って茶碗や机をいじめることはできない。同じように踏みつけても犬は哀しげにするが蟹は潰れるだけである。「いじめ」を「おもいやり能力」の欠如から説明する立場もあるが、そもそも「おもいやり能力」がとどかない対象を「いじめ」ることはできない。

*4:筆者によるインタビュー(1998年)。

*5:教育評論的ステレオタイプに反して、受験のリアリティはかなり薄い。

*6:投影同一化については[Klein,M. 1946=1985、 Ogden,T.H. 1979、 内藤朝雄 1996: 342〜343ページ、 1999(a) 30〜31ページ]を参照。

*7:本稿では構想の骨子を示すことしかできない。詳細については稿を改めて発表する予定である。

*8:筆者によるインタビュー(1994年)

*9:筆者によるインタビュー(1998年)

*10:「いじめ」においてはしばしば、相手を惨めにする心理的破壊のテクニックが、「タフ」の倫理秩序に準拠した「しつけ」と称してなされる。

*11:「なすところを知らざればなり」という童心主義の「いじめ」論は、この点を見落としている。

*12:筆者によるインタビュー(1996年)。

*13:ノージックはさまざまなユートピアをコミュニティとして論じている[Nozick,R. 1974=1998: 505〜506ページ、 512〜540ページ]。

*14:淘汰されるのは個々の人間ではなく、生やコミュニケーションや小規模社会のスタイルである。この淘汰の受益者は、それらのスタイルを享受しつつ多様に成長することができる自由な個々人である。かつての野蛮な優勝劣敗モデルは淘汰の単位が個々人である場合であり、生やコミュニケーションや小規模社会のスタイルを単位とした淘汰は個々人の幸福追求に奉仕するものである。筆者は、「個人には福祉を、スタイルには淘汰を」という原則を提案したい。

*15:上記の枠のなかでは、魅力の基準自体が複数化する。

*16:「いじめ」が蔓延する場では嗜虐や威嚇や保身や卑屈の多様性が極大化する。「いじめ」を生き抜いてきた「タフ」にとっては、しばしば、「いじめ」のない集団は「ぼっちゃんぼっちゃん」した平板な空間に感じられる。そして彼は「いじめ」の輸出を開始するかもしれない。

*17:市民社会の論理との関係で、学校について論じたものとしては、[森政稔 1996、 内藤朝雄 1996、 1997]を参照。筆者は、日本の学校に「管理教育」という概念をあてはめるのは誤りで、コミュニタリアン全体主義という概念がふさわしいと考える。このような共同体的専制は学校に限ったことではなく(例えば日本の職場組織については[熊沢誠 1989、 宮本政於 1993→1997]などを参照)、一定の条件のもとで普遍的に生じる現象である。極端なまでに自治と共同への人格的隷従を強いる日本の学校は、(戦中期日本の草の根全体主義や中国の文化大革命などと共に)この現象を典型的に示す純度の高いケースであり、われわれの社会の共同体的専制問題を見据えるためのいわば倍率の高い鏡である。

*18:文字どおり生命を奪われないようにし続けるというだけでなく、自己を不可逆的に圧倒し断片化してしてしまうほどには痛めつけられないようにしておくことも、生き延びることと考えることができる。

*19:「こころ」が倫理秩序の原理となるので、「みんなのこころ」の調和(「ノリ」)に対して違和を差し挟むことは、人殺しや泥棒よりも悪い、といった実感が蔓延することもある。

*20:加害者が攻撃点をどこにでも見出すことができ、被害者が全方位的な不安を生きることについては、[中井久夫 1997]を参照。

*21:自由主義の文脈からジンメルを論じたものとしては、[橋本努 1999]がある。