日本弁護士連合会編『検証 少年犯罪』書評

月刊『教職研修』(2002年12月号、通巻第364号、教育開発研究所)に掲載された内藤朝雄さんの文章です。『検証 少年犯罪』について、辛口の書評を寄せています。


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日本弁護士連合会編『検証 少年犯罪』書評


 日弁連「人権」派による少年犯罪ついての見解の集大成ともいうべき、400ページ強の大著である。本書の主目的は、少年犯罪厳罰化に対する反対運動である。前半部では、(ケース分析ではもっぱら殺人などの重罪犯をとりあげて)犯罪少年は家庭的に不遇なことが多いということが確認される。そして不遇な家庭環境が犯罪の原因として主張される。後半部では、福祉切り捨て、労働強化、男女不平等、新自由主義の展開、競争主義などの現代社会の矛盾(とされるもの)が列挙網羅され、それらが少年犯罪の原因とされる。そしてこの原因としての家庭的不遇やさまざまな社会的矛盾、および逆境にある少年の「こころ」への心理学的理解と共感が、殺人犯を含めた少年の刑罰を軽くする根拠にされる。
 本書の主張はまちがっている。確かに平時に誰かを「なぶり殺し」にするような人物が幸福な人生を歩んできた確率は少ないであろう。だが逆はかならずしも真ならずであり、すべての不幸な人が誰かを殺して憂さを晴らすとはかぎらない。百歩譲って不遇な生育環境が犯罪の心理的な原因であったとしても、日弁連「人権」派は、(1)(〜だから人を殺すような「こころ」になったとする)心理的カニズム原因と(2)(殺さないこともできた意志決定の主体として位置づけられた個人に責任ありとする)責任帰属原因を混同している。彼らの論理に従えば、不幸な生育環境に育った人間であれば何をしても刑罰を軽くしてもらえる、ということになる。
 さらに、加害者に対する共感をさそうような「こころ」の物語(いいわけとしての心理学的説明)の蔓延は、「恨んでいれば何をしてもいい」と感じ、不遇な人生の一発逆転を狙う人たちに、「こういうしかたで跳ぶんだ!超えるんだ!」という気づきと動機の語彙、あるいは「不幸の英雄」に変貌して自己顕示欲を満たすストーリーの素材を与え、むごたらしい事跡による「神聖心理救済劇」を煽る要因になりうる。
 また「こころ」を最重要視し、何でも「こころ」の問題にしてしまう、「こころ化(心理学化)された社会」は困った社会である。特に正義の代わりに「こころ」の物語が居座ってしまうのは大問題である。「こころ」の社会では、オウム教団(アレフ)は組織的な殺人を行ったからではなく、地域住民に「こころを開かない」「不安感を与える」存在だから「わるい」のである。逆に人を殺しても「こころ」が理解でき、共感できれば、罪は大幅に軽減される。ひとから理解され共感されるような「こころ」の物語を組み上げるワザの出来不出来によって、ひとの命運が決定される。
 藤井誠二『少年に奪われた人生』(朝日新聞社)によれば、山口県光市で本村洋さんの自宅に強姦目的で侵入し、その妻と娘(乳児)を殺害し死姦した少年は、一審判決で死刑をまぬがれた。少年の不幸な生育環境を首尾一貫「いいわけ」に使ってがんばってきた弁護士は遺族がいる前で勝利のガッツポーズをとった。少年は友人に次のような手紙を送った。「知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」。この手紙がマスコミにすっぱ抜かれた後ですら、少年は二審の裁判で「勝った」。日本には終身刑がない。本書を手に取る読者には、『少年に奪われた人生』を併せ読むことを勧める。双方を読み比べながら人権について考えてもらいたい。
 人間の尊厳を徹底的に踏みにじった者が、驚くほど軽い刑罰しか受けないことは、人権価値を掘り崩してしまう。人を殺した者が、数ヶ月や数年で刑務所から出てきてしまうことは、その社会において、個人の尊厳があまり重くない、少なくともさまざまな価値群のなかで特別に神聖な価値であるとはみなされていない、ということを具体的に確立してしまう。「教育」「子ども」「共生」「こころ」といった価値が引き合いに出されることで、殺人者、特に「なぶり殺し」的な殺害に手を染めた者が、驚くほど軽い刑罰しか受けない法システムは、諸価値の生態学的なせめぎあいの中で人権価値を聖なる位置から引きずり下ろしてしまう効果を有する。
 真に人権派であるならば、さまざまな価値群がせめぎあうなかで、個の尊厳が最上位に位置するよう努力するはずである。しかし日弁連「人権」派は、「教育」「子ども」「共生」「こころ」という価値の神聖性を、個の尊厳という価値の上位に位置づけてしまう。少年がどんなにむごたらしい殺し方をしても、「人権」派は「教育」「子ども」「共生」「こころ」の価値にもとづいて刑罰を軽くし、結果的に個の尊厳の価値を低下させようと努力する。
 このような「人権」派の人権派らしからぬ奇怪なふるまいは、特殊日本的な右派と左派の対立図式に埋め込まれている。特に政治的な発言をする知識人層は、源氏と平家のように右派か左派のどちらかの陣営に属して、その所属の論理で思考するがゆえに屡々一般人よりも愚かである。右派と左派は、それぞれさまざまな社会現象を問題化しながらトピックとしてとりあげ、それらを争点として対立する。トピックAに右派が賛成・左派が反対というふうに、右派と左派の間でいったんトピック問題化の縄張りが引かれると、知識人たちはその所属の論理に従ってパブロフの犬のように、トピックAに賛成したり反対したりする。
 そのように右と左で線引きされたトピックに対して、右派も左派もコミットするコア価値(たとえば人権)からの論理的帰結によって賛成や反対をしているとは思えない。そうではなくて、線引きの後に所属の論理によって「どういう信念をもつか。どういう論理を採用するか」の内容が決まってくる。だから、人権が大嫌いなはずの右派が北朝鮮政府を加害者とする被害者の人権擁護を担当し、「人権」派を自認する左派が彼らを無視し続ける、といったことも起こる。この無視には、たまたま憎っくき右派が担当したから「この果実は食えない」、という以外の理由は考えられない。人権価値から論理一貫的に導き出される判断よりも、源氏と平家のような半族の論理が優先する。
 少年犯罪に関しては、たまたま右派が厳罰主義、左派が保護主義という縄張りを引いて公論の舞台を独占している。「人権」派は、右派が厳罰主義を担当している以上、ありとあらゆる理屈を総動員して保護主義の立場をとるしかない。
 このような特殊日本的な右派と左派の論理から一歩離れて考えるためには、諸外国の例を参考にするとよい。ヨーロッパのある国では、これまで社会秩序の観点から強姦の量刑が設定されていたが、その設定原理を根本的に改め、人間の尊厳の観点から強姦の量刑を計り直したそうである。社会秩序の紊乱としてではなく、被害者の人間としての尊厳を踏みにじる行為として、根本的に強姦を位置づけ直したのである。その結果、強姦犯はさらに厳罰に処せられ、以前よりも長い間刑務所に監禁されるようになった。これは人権の原理による厳罰化である。
 由緒正しい人権主義の立場から少年犯罪を考えてみれば、人間の尊厳を踏みにじるようなタイプの凶悪犯罪に対しては上記の強姦厳罰化と同形の論理からさらなる厳罰主義、その他の犯罪に対してはさらなる保護主義や教育処遇化、という処遇二方向化の論理が導き出されるのが自然である。先進諸国ではこのタイプの方が普通である。
 日弁連は人権擁護のために大切な勢力である。だからこそ、右派がたまたま別の価値体系から賛成していようと反対していようと、それとは独立に、普遍的な人権の原理から首尾一貫した仕方で個々のトピックについての方針をたてるべきである。日本の人権擁護を担う主力団体としての責任を自覚してほしい。



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