内藤朝雄さんスペシャルインタビュー その3

その1」「その2」に続き、インタビュー完結です。「その3」では、「いじめ」実践的な提案と政治哲学的なバックボーンについてお話いただきました。

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■休憩中。朝日新聞の特集伊吹大臣からの手紙を見ながら〜
荻上朝日新聞のこの手の特集には、魅力を感じてますねー。私がいじめられっ子だった頃、日本広告機構がボクサーの辰吉丈一郎さんやサッカー選手の前園真聖さんのメッセージをテレビCMで流していました。前園さんの「いじめ、カッコ悪い」というスローガンは、『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』なんかでネタにされてたりしていましたが、個人的にはこのCMに感謝しているんです。当時自分をいじめていた層には、サッカー部員男子が多かったんですよね。そのロールモデルがいじめを否定するというのは重要だったし、それなりに効果があったように思うんです。

朝日新聞の特集では、多方面のロールモデルに対して意識的に声をかけていたのだと思います。ちなみに読売新聞は、『名探偵コナン』のコナン君にいじめを批判させるという広告を配布していました。こういうマスコット利用はありふれた手法であるかもしれませんが、必要で意義のあることだと思います。

ちなみに、伊吹文科大臣の文章は、フォントの仰々しさといい、高みから物を言うような言い回しといい、「うーん、どうなのよ」という感じですね。文部大臣は多くの子どもにとっては別にロールモデルでもなんでもないし、「エラソーなことを言うオジサン」でしかないわけで、これを仮に教室で先生が読み上げたりしても逆効果なんじゃないかと。

内藤:日本の旧軍では、将校クラスの人が、私的制裁は絶対にするなということを朝礼でよく言うわけ。それでも私的制裁は日常的に起こる。軍隊の中ではB秩序が広がっていて、朝礼で将校がC秩序の言葉で喋っても、全然通じないんだよ。

荻上:さきほどのアンケートの話で言えば、アンケートの際は「いじめはよくないとおもいますっ」とか書いて、キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴り、先生がいなくなったと同時に、わーいわーい、ボコボコボコーって殴るというような(笑)。

内藤:文科大臣のこの手紙も、そういうものだよね。C秩序の言葉で書かれていて、B秩序には全然届かないという。

荻上朝日新聞のいじめ特集もそうですが、短期的に学校空間を変えられないのなら、ロールモデルを打ち立てることよっていじめに歯止めをかけたり、いじめられっ子に生き延びてもらったりすることは重要ですね。『ジャンプ いじめレポート』的な、「いじめられているのは自分だけではないんだ」という感覚を共有するというのも大事でしょう。

内藤:ロールモデルの人が、いじめっ子に認知的不協和を生じさせるようなことを言うのは重要ですよね。だから私は、右翼対策としては、必ずリベラルな右翼嫌いの天皇をぶつける。これは右翼勢力にとって、強烈な認知的不協和だからです。

荻上:プラグマティックですね。

内藤:そう。内藤が天皇を持ち上げるのはけしからんという人もいるけれど、プラグマティックなものなんです。まあ実際のところも、私は、明仁さんのかなりのファンなんですけどね。イエスという人がでてきて、世の風景が旧約の世界から新約の世界にワープするみたいに、明仁さんの歩みの軌跡に、アッパー系の天皇からダウナー系の天皇へのワープが刻まれるのを、ほれぼれと眺めています。これを「天皇陛下を敬愛している」というのかどうかは、わかりませんけど・・・わたしにとっては、明仁さんはイエスなみの贔屓のスターですね。『いじめと現代社会』では、二一世紀の新しい天皇論を提出しています。

ところで、いじめ対策で皮肉なのは、いじめはよくない、だからもっと仲良くしましょう、だからもっと緊密に付き合いましょうとかいって、空間をさらに過密にしてしまうというような悪循環が起こるというような場合ですね。

荻上:よく、日教組的な教育と、保守的な教育が対比されますが、いじめという観点からすれば、全体の調整の仕方、個人の意識付けの仕方のソフトの違いでしかなくて、どちらにせよ生きがたくなる人は一定数出てくるでしょう。どのタイプの人が生き難くなるのか、その違いでしかないのではないか。

左翼的な言説、右翼的な言説。どちらも耳なじみが良く、すばらしい言葉が並んでいると思います。どちらも真剣に教育について考えているんでしょう。でも、いじめられっ子的な観察をとれば、どちらであっても自分がスルーされている、象徴的なつなひき合戦をしているというような思いがします。

内藤:右翼の狭い水槽と、左翼の狭い水槽があるというだけですね。しかも、右翼も左翼も、「水槽を広くする」ということに関しては、強く反発するんですよね。

荻上:それが、内藤さんの言葉で言えば、中間集団全体主義(上から押し付けられるタイプの全体主義と区別し、中間集団が自発的に同質性であろうと強制しあうようなムードが全体主義的ムードを作り上げることを指す)という性質を持つわけですね。少人数学級にすればいいということは、どちらの陣営も主張しますよね。コスト面の利点もあるでしょうけど、でも、少人数学級という発想には一方で、監視を強めれば理性の声が届きやすくなるだろうというものがあって、理性を伝えられるという透明性に対する疑問はもたれていない。

内藤:心理的な距離を圧迫してますます難しくなりそうですね。それなら、100人学級にしたほうがいい。


■バウチャー制度とメディア報道の問題点
荻上:大学はそうですね。休憩中なのに話が盛り上がってきてしまったので(笑)、そろそろ話を進めましょう。ところで、教育再生会議の話題で、教育バウチャー制度というものがありますね。これは、一見すると内藤さんの考えに近そうですが、実際は転校をする自由を認めるという程度でしかなく、遠いものです。学校的治外法権の温存が前提なので、内藤さんが批判された意味でのメタユートピアに近いのかもしれない。現在のいじめ問題に関するメディアの議論や政策提言については、どう思いますか?

内藤:その前にノージックの話に一度戻らせてください。今、「転校する自由でしかない」という話がありました。なぜ私がノージックを批判するのかというと、それはノージックが単位をコミュニティにしているからです。コミュニティで生き難い人にとっては、どのユートピアにいってもあくまでコミュニティなんです。だから、私はノージック共同体主義者として批判した。

共同体が好きな人は、共同体にいればいいんだけど、共同体が嫌いな人は、共同体以外の絆を作ることが出来るという形が望ましい。だからバウチャー制度といった場合、学校を選ぶバウチャーだけでなくて、教育支援ユニットを選ぶバウチャーであるべきです。

荻上:私塾や通信制なども含めると。

内藤:数ある教育支援ユニットのなかの、一つのタイプとして学校があって、学校以外のタイプもあるというのであればいいと思う。もう一つ重要なのは、リバタニアニズムのバウチャーではなく、リベラリズムのバウチャーであるということ。つまり、貧乏な人にはより多くのチケットを寄付し、しかも親ではなく、子どもに対して給付するのです。

荻上:しっかりとした教育の機会平等を実現する。

内藤:そこがリバタニアンとは正反対です。

荻上:これまた極端な例かもしれませんが、私は学生時代、他大の授業をもぐるのが好きでした。学校単位ではなく、授業単位で選択できればいいなとかねてから思っていたのですが、インターネットなどの技術が物理的距離を解決してくれることもあって、大学によってはいくつかの大学と提携して、単位交換を始めたりしていますね。淘汰を避け、学生を呼ぶという目的もあると思いますが、かような授業単位のバウチャーというのが進むのは、個人的には嬉しい。そういえば、モグリの授業の方が真剣だったなぁ(笑)。

内藤:メディアの報道に関しては…報道祭りは、いじめではなくて、「いじめ自殺」ばかり取り上げますね。いじめのかわいそうらしさを問題の中心にして、おみこしにしている。それは本当によくない。多くの人が指摘しているけど、狭いところに閉じ込められて奴隷の自殺をするような人が、自殺をすると新聞やテレビで取り上げてくれるから、それを最後の手段、逆転の唯一の方法だと思ってしまう。

荻上:死んで復讐をすることが、輝かしく見えてしまう…。

内藤:報道祭りはそのような自殺を蔓延させてしまう。だから、いじめの問題化を、いじめ自殺のかわいそうらしさに依存させちゃダメなんです。自殺しようがしまいが、いじめはよくないと、自殺以外のものをおみこしにしなくてはならない。

荻上:でも、メディアはおみこしを求めますね。例えば生徒の悪びれない姿をモザイク+声を変えて映したり、徹底して謝罪しない学校関係者などを映すことで、特定の誰かの責任問題として語り、コメンテーターが怒りをぶつけるというようなわかりやすい構図にする。もちろんいじめた学生や対応のまずさは責められるべきです。が、そればかりを繰り返し報道することで、何が生まれるんでしょうか。…なんだか、10年後、20年後も似たような報道がある気がします。

内藤:本当にねぇ…。2001年に『いじめの社会理論』を出したのにね…。もっと分かりやすい言葉で説明していかないといけないね…。


■ウェブ空間と予期の変化
荻上:分かりやすい説明は重要ですね。サブカルなんかで喩えると、分かりやすそうですね。

内藤:でも、私はサブカルとか疎いし、ギャルゲーとかに萌えるというのも、そういうのがあるんだろうとは思うけれど、やったことないし。

荻上:ゲームをやりながら、友人にメールを書いたりすると、モニター上ではフラットになりますね(笑)。

内藤:それもきずなユニットのひとつだからね、フラットでいいのかもしれない。でも、ケータイの電子メールで挨拶するとかも、なかなかついていけなくて。ケータイ・メールで「会話」をするということが、わたしには、何が何だかわからない。電子メイルでは、私は「会話」ではなくて、「文を書く」ことしかできない。

荻上:メディアとそれを使うコミュニケーションごとに、異なる作法は作られていきますから。大学生にとってはいきなり電話するというのはむしろマナー違反で、一回メールするのが作法、みたいな場合もありますよね。授業中だと電話に出られないから、「今大丈夫?」と一度メールで確認してからかけるとか。

内藤:そっか。私はケータイメールだと、文脈がわからなくて、どういう意味のメールなんだろうとわからなくなっちゃう。ある技術が身体化しているかどうかというのは重要ですね。それは年齢という問題ではなくて、技術の身体化の問題。年齢が上でケータイメールが身体化している人と、年齢が下でケータイメールが身体化していない人とでも、差があると思う。

荻上:どのメディアを自明の条件として選んでいるか、という。

内藤:私は、リアルワールドで出会って初めて相手を人間として見れるんです。会うまでは、本の中の人と同じ。基本的に、ネットや携帯メールのつきあいは、苦手。その人間の像が、わけがわからない。

荻上:ネット経由で人と会うことってよくあるんですけど、予想を裏切られたことって一度もないですね。

内藤:え!? ほんと!?

荻上:こういう人だろうなと思っていたら、だいたい当たる。身体的な特徴とかは誤差がありますけど、ネット上で面白いことを書いている人はやっぱり話してみると面白いし、おかしなことを書いている人は現実でもやっぱりおかしかったりする。ネットで仲良くなれる人は、オフラインでも仲良くなれますね。あるいはテレクラよりも、ネットで出会った方が、私の場合ギャップが小さかった。

内藤:すごい! ちょっと前の出会い系サイトの話だと、実際会ってみるとしょぼくさい人だった、という話を聞きますが、今はそういったズレがないのかな。

荻上:いや、ネットだからこそある人格が強調されるとか、ネットであるからこそある種のモードになるということはあると思いますよ。2ちゃんねるの出会い系スレとかでも、「実際会ったらひどかった」という書き込みはよく見ます。ただ、どの程度「ネットだからこのモードなのか」というのも、慣れてくると予期に含まれてくるような気がしますね。「ネットでこのモードの人は、実際はこうかな」という。

内藤:私にはわからない世界だけど、なんか、すごいんですね。『いじめと現代社会』で書いたネットとナルシズム肥大化の話はどうですか。こういうネット高フィットな人たちの層を、私は知らなかったんですけど。

荻上:このネット論は、ルポとしては正しいと思います。ウェブ上のコミュニケーションでは、オフラインで機能していた区別が機能しなくなることがあります。えらい経済学者の先生の元に、まったく学問の蓄積に触れたことのない人がシロート談義をふっかけたりすることは確かにある。内藤さんが気になさっているナルシズムの問題が前景化することも、あるでしょう。一方で、ウェブ上では今まで見れなかったものが可視化されることが起こるので、今までと比べてどうか、というのは単純には言い難いですよね。ウェブを観察する際、人はそれぞれまったく異なる風景を見ているので、印象が違ってきてしまう。

学問的な蓄積がある人が、ネットに触れて衝撃を受けたりすることがありますよね。リベラル系の人が、ネット上の言説に断片的に触れた際、「右傾化してる!」と騒いだりする。体感的にそう思うのはよくわかる。でもそれは、オフラインでは大学というアカデミックな、ある程度の学問的前提を共有している空間に身を置いていることで、その作法を共有しない人をある程度フィルタリング出来ていたからこれまで出会わなかっただけという部分があると思うんです。でも、ウェブでは、そういう前提を共有していない人が可視化される。

ネットが人を変えるというより、ネットが人にある種のアウトプットを準備する。元々人や社会には、ある程度表出されるような要素があって、ネットによってそれが可視化されているという部分もある。同時に、そのことで予期が変わって、ユーザーの行動が変わるということも起こる。どちらも正しいと思います。

内藤:ネットが体感距離を狂わせる部分はあると思うんですよ。オフラインなら、段々仲良くなってから内面を吐露するという状況に至っていたのが、ネットだといきなり内面をとうとうと語りだす、とかね。赤の他人に対して、見苦しいことをやってしまったり。

荻上:そういうこともあるでしょう。ネットでは特定のモードにダイレクトに繋がることが出来るし、インターネットはパーソナルな空間から利用されることも多いでしょうから。同時に、私たちはパブリックな空間でも、実はそれぞれプライベートな内面を抱えて生きている。普段からプライベートなモードは交錯しあっていて、それが可視化されるというのはひとつあるでしょう。それからウェブ上では文脈が交錯するので、プライベートな意識の人とパブリックな意識との間に誤配が起こるというのがひとつあると思います。

ちなみに、初対面の人に、途方もない内面吐露をされるということは、オフラインでもしばしば起こりますよ。出会って1、2分で、家族事情を相談されたり、止められないリスカの話をされたり。

内藤:インターネットでやりとりしてからでしょ?

荻上:いえ。例えば人づてで、「チキという人は話を聞いてくれる人だよ」みたいなのが、かつて話したことのある人から伝わっていったりすることで、最初から「話を聞いてモード」でやってくることもあるし。

内藤:確かに、チキさん、うまそうですね。

荻上:(笑)。これは「若い人」に限らず、バーのママに初対面でディープな恋愛相談するとかは、これまでもあったと思うんです。あるいは、自分とチャンネルが合う人って、街を歩いていても分かったりする。夜、渋谷とかを歩いていて、「あ、この人はチャンネルが合う」と思ったら、向こうも同じことを思っているというようなこともよくあります。特に、元いじめられっ子であるとか、どことなく脛に傷を負ったような人は、結構通じ合う(笑)。同じように、ネットで繋がり、突然内面吐露とかをぶつけ合うことで、いじめで悩んでいる人にとって救いになるというような面もあると思いますね。

ウェブ上で泥臭いコミュニケーションが目立ってしまうと内藤さんは思っていると思うんですが、でも全体から見て、政治などをめぐる「ブログ論壇」的な泥仕合は、パーセンテージ的には一部の人たちしかやっていないと思います。多くの人は、同じ曲を聴いて盛り上がったり、mixi で日常的なことで共感しあったりしてると思うので、泥臭い政治コミュニケーションが前景化しているというのも、一部の人の心象でしかない部分があるのではないかと思います。

私たちは政治や学問などに興味があるので、はてなアンテナをその手のサイトで埋め尽くしたりする。そうやって政治的なコミュニケーションをやっているところばかり読んでいると、こういうルポにリアリティを覚えてくると思います。

内藤:ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの、さまざまな生き物たちの、さまざまな環境世界(ウムウェルト)みたいなものですね。おもしろい。ネット上の環境世界論ですね。


■『いじめと現代社会』の政治哲学
荻上:やや余談めいた話になってしまいましたが、これまでの話では「読者」を見ることが重要、ということでした。政治という話が出てきたので、最後に、『いじめと現代社会』と政治哲学の話に繋げたいと思います。ここまで、内藤さんの動機、いじめ研究の骨子、現在のメディア報道の問題点、カウンターとしての政策提言と、少しずつ論点を広げてお話していただきましたが、もう一段抽象度を上げて、いじめについて考える際の骨法としての政治哲学のお話を伺いたいです。

内藤:はい。『いじめと現代社会』にも書いたように、学校を神聖な空間として捉え、金八先生的な、お涙頂戴的な熱意を込めて情熱的にぶつかっていけば、思いやりをもった優しい子になる的な発想はまずい。また、学校という空間にいるというだけで、仲良くしなくてはならない、信頼しあわなければいけない、先生という人は、お父さんやお母さんのような人であると見なければならないという環境の設定そのものがいじめを蔓延させる元であるという面があります。あるいは、いじめに対処をするという名目で、最初の環境設定をさらに強化しているという悪循環を起こしている。そういう「いじめ対策」が何十年も続いています。

学校の論理がいじめそのものにアクセルを踏んでいるため、そこに市民社会の論理を入れていかなければならない。でも実際は逆で、いじめの危機感や不安を利用して、よりベタベタした関係を強めようとしてしまっている。それが、まず基本的な反対理由で、そういうことを『いじめの社会理論』で書きました。

荻上:「いじめというのが今ある学校制度の負の側面だとしても、現行の学校制度の正の側面の方が大きいのであれば、ある程度のデメリットはいたしかたがない」という意見も主張可能であるとは思いますが、それに対してはどのように思われますか?

内藤:それに対しては、二つの言い方が出来るかと思います。まず一つ。例えば、人間を経済人として、経済を発展させるための部品として考え、人々の苦しみがどれだけあっても、経済などにとってのメリットの部分が延びるのであればそれでいいという発想は、水俣病患者がどれだけ苦しんでも、経済が発展すれば良いという論理と同じで、前提そのものが間違っていると思います。この場合の経済とは、人々が豊かに生きていくための道具であって、そちらの拡大が形式的に強調された結果、人々が貧しい環境に置かれてしまうというのは本末転倒です。

たてまえとしての人間の尊厳というものが、たてまえとしても存在していたほうがいいと思いますが、それを壊してまでも守らなくてはならないものとは何でしょう。もし仮に、デメリットがあったとしても経済がプラスになったということがあったとしても、そのプラスによって損なわれる人間の尊厳の方がダメージは大きいと思います。実際には、いじめが蔓延する社会が経済にプラスになるということはないと思うけれど、もしあったとしても、それは公然と人間の尊厳が踏みにじられる方が社会的なマイナスだと思います。

二つ目は、いじめが蔓延する社会は、経済にとってもマイナスだと思うんですね。社畜的な状況が続く会社というのは、プラスにはならない。組織にとっては、人間関係に気を使うことで本業が圧迫されてしまい、能率が悪くなるでしょうし、組織が低いコストで商品を作り、競争に勝つという目標達成を実現するためには、人間関係の政治でもって、派閥の論理で企業を運営することは、企業の最良の選択を妨げることになりやすく、デメリットです。

企業でいじめ体質が存在すると、情報が下から上へあがらなくなってしまうし、企業にとって破滅的な不正や事故を、人間関係の圧力によって隠蔽するというようなことが企業を破滅に追いやるというのは、昨今の企業の不祥事を見ればわかることです。むしろ、中間の人間関係、中間集団の環を損なってでも、内部告発を許容したほうが、長期的には企業の反映にプラスですよね。不祥事とかでも、新聞に叩かれる前に、内部で適切な対応をするほうがいい。

財界全体にとっては、職場のいじめをなくすほうがいいと思う。学校も同じで、いじめがない状況というほうが、利益は大きくなると思います。

補足しておくと、職場のいじめとかに関心を持っている人って、左翼的な人が多いのね。そうすると、「資本の論理がいけない!」とか、がなる人が多くて、財界に嫌われたりしている。そうではなくて、いじめは企業にとっても経済にとっても、百害あって一利なしで、職場のいじめをなくすことが企業のコストパフォーマンスを向上させることになると思います。

荻上:なるほど。例えば左翼の人であれば、「資本主義は差別を生む。資本主義は差異化のプロセスによってなりたつからだ」と言ったりする。保守の人は保守で――例えば西部邁さんなどですが――「いじめというのは民主主義の必然の帰結だ。なぜなら多数決で少数派を切り捨てるからだ」とか、「引きこもりは自由主義の必然の帰結だ」というようなことを主張したりする…。

内藤:西部さんが!? 彼、元東大の思想系の教員でしょう…。そういうことは、もっとお勉強苦手系の人が言うものかと思いましたが、思想系の訓練がある人がそういうことを言うのか…。いや、リベラリズムを批判するのは全然構わないんですが、例えばK1選手がフォームもデタラメなシロートのパンチを出したりすると、「え!?」って驚くじゃない。アカデミズムの世界にいると、プロのプライドみたいなのがあって、そういうことを言うと恥ずかしいと思うようになると思っていたんだけど…。

荻上:でも、思想系の人がその手の議論をすることは、むしろ多いのではないでしょうか。ある特定のイズムから論理形式を強引に一部抽出して、かくかくしかじかの結末が必然的に導かれるのだ、という議論パターンハイデガーがナチズムに加担したのはこれこれこういう必然があるとか、自由主義は互いが自由ばかり主張してしまうので必ずミーイズムになるとか、戦後民主主義はこういう退廃を必ず生むとか、その手の議論です。昨今の「バックラッシュ」でも、「フェミニズムは必然的にフェミナチになる」という次元のことが真剣に語られていたし、その他特定の人格パターンや思想を広げていったから、こういう悲劇が起こったのだとかいう類の議論は尽きないと思います。

内藤:そうだ、本当だね。東大院出とか京大院出とか、どこどこ大学のマルクス主義者とかが、なんでも資本の論理のせいだというようなことをシャーシャーと言っていたから。そういうアカデミズムの専門家ほど、一般人よりも愚かなことを言うんだなぁ…。

荻上:もちろん例えば、人間を生産や消費のファクターとして観察するということで有意義な分析になるということはあります。それはシステムの観察として妥当だと思う。それとは別に、思想の話をする際、抽象概念を抽出する作業を現実にそのまま還元することで、あたかも私たちが特定のイズムの法則や原理のみで行動したりしているかのように議論してしまうことがありますね。

あるいは、相手を批判するために、相手の論理形式を単純化して抽出するということもあります。これは非常に難しく、ケースバイケースで妥当か否かが決まると思うんですけど、例えば日教組を批判するときに「共産主義を実現させようと目論んでいる」とか、逆にリバタニアニズムの論理を批判するときに「リバタニアンは差別を肯定するんだ」とか、そういう批判が行われることがある。でも、リベラリズムにせよリバタニアリズムにせよ、どのようなイズムにせよ程度問題や距離の取り方、応用の仕方があるわけですよね。また、例えばコミュニタリアリズムの要素とリベラリズムの要素とを組み合わせたりして実際の設計をするということは起こるわけで、根幹の論理形式が矛盾するからといって、それらが不可能というわけでもない。

内藤:それはそもそも程度問題以前の問題で、大学の教科書レベルでも、J・S・ミルが出てきて危害論理が出てきて、自由なのだから人をボコボコにしていいかというとそうではなくて、「人に危害を加えない限りは」という制約があり、それに対しても各派によって距離の取り方が様々あったりして…という論争の系譜があるわけでしょう。

荻上:しかし自由主義というなら犯罪も自由なのか、ミル的なリベラリズムを認めると援助交際を肯定するからけしからん、というような言説が溢れています。援助交際に関していえば、リベラリズムの観点から全面肯定されるわけでは必ずしもなく、本来ならばケースバイケースの議論をするしかない。しかし、ミルを参照した以上、「加害さえくわえなければ何をしてもいい」という原理を忠実に実行しているかのように受け止められることもある。

内藤:リベラリズムを批判する場合、意味の体系やシンボリズムを破壊するという批判には反対だけど、それはそれで筋は通っていると思うんです。ただ、「加害を加えなければ何をしてもいいのか!」的な揶揄って、本当なら議論の土台にすら上がってこれていないでしょう。

荻上:あるいは、「権利には義務がつきまとう」というフレーズを使った批判もありますね。でも、法について議論をする際、そもそも権利と義務というのは一対一対応になるようなものではない。義務と権利が、何か等価交換されるべきものであるかのようなイメージが広がっているんだと思いますが、何について議論をするのかによって、権利と義務についてのバランスや関係性は変わってくる。例えば憲法に関して言えば、基本的人権というのは国民であれば無条件で求められるものですし、憲法はそもそも国民から国家への命令であるので、そこで義務が等価に扱われなければならないという発想は出てこない。何と何との契約なのかによっても、議論の性質は大きく変わるんですが…。

内藤:いや、今のはけっこう驚きました。一応プロで保守主義をやっている人なら、リベラリズムが一応の敵になるわけですよね。で、戦いだから、敵がどういうことを言っているのかということは把握した上で反論する、それが保守とリベラルの関係になるわけです。相手がこういってるからこう反論する、というのを繰り返すのが議論でしょう。日本と戦うのに、「日本は刀と槍で、馬に乗って戦っているんだ」みたいなことは言わないで、「相手は大艦巨砲主義的で、補給と空母の活用がもろいから、そこを責めよう」とか計算するでしょう。同様に、リベラルを批判するなら、危害原理の議論くらいは抑えた上で反論を考えるとかするんじゃないだろうか。

荻上:どの立場でもそうなんですが、「運動」の場合だとどうしても、細部の議論の反論よりは、失言や過失を象徴化して叩くほうが目立ちがちです。もちろん失言は失言でそれぞれが反応することで、その意味を広める機能もあるでしょうが、それだけではまずくて。

内藤:フェミニストの人と話しても、「男は野蛮だから、女が政治家にならないといけない」ということを言う人も、本当にいるんですよね…。これが東大院出だったりして(笑)

荻上:前回の選挙の際に、あるコミュニティで「女性議員なら誰でも良いのかということを、問うべきではないのか」みたいな議論を今更にやっていて、ビックリしました。教育論に関して言えば「保守主義」の役割も大変重要なので、駄目なものは駄目と認めつつ、有意義な議論が行われて欲しいです。

内藤:ところで保守主義というのは、理論的には正しいかもしれないけれど経験的には失敗ばかりしている人間の現実を見据え、理性や知性においつかない経験的な蓄積を尊重し、その力を軽視しないというところがありますよね。その意味で言えば、例えば私は天皇に関してはある意味保守的です。すべての人が愚民的でない、高い見識の市民であるなどということは、実際にはありえない。ひとびとのうちのかなりの割合が多かれ少なかれ愚民的であることを前提に考えれば、天皇は絶対的に必要です。天皇をなくしたら、さまざまな出口王仁三郎麻原彰晃たちが日本の王になるでしょう。また、日本が共産主義にのっとられていたかもしれません。多くの愚かな人たちがそこに意味を見出して、機能をもっているものを、穏やかにベターな仕方で変質させながら使うやりかたの方が、「ラジカル」な革命などよりも、はるかによい成果をもたらすことが多いのです。慣習的な効果をゆっくり変質させながら利用することは重要なんですね。
 保守の戦略というのは、実際の場面でよりベターにしていくためにはやはり必要だと思います。
 今、日本が右派勢力にのっとられないようにするためには、良質の保守の層の危機感を結集する必要もあると思います。

荻上:確かに内藤さんの教育論には保守戦略的なところがありますよね。時間をかけてねかせておけば、淘汰されて良きものが残る、というような。チケット制度に対するスタンスもそうですね。

内藤:そうです。

荻上:最後に思想的な部分に少しだけ触れましたが、立場を問わず、いじめを無くすためにはどうすればいいのかを議論するための土台が築かれていくことが必要だと思います。その意味でも、内藤さんの議論がより多くの人に共有されることを願います。本日はありがとうございました。


(2007年3月10日、東京御茶ノ水にて)

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※インタビューをお読みくださってありがとうございました。いかがでしたでしょうか。『いじめと現代社会』と合わせてお読みいただくと、いっそう理解が深まると思います。是非手にとってみてください。そして、「いじめ」に対する有効なアプローチを一緒に考えてください。(荻上





いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

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