内藤朝雄さんスペシャルインタビュー その2

その1」の続きです。「その2」では、内藤さんの「いじめ」分析の骨子が分かりやすくまとめられています。

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■秩序の生態学的研究
荻上:そろそろ『いじめと現代社会』の内容に繋げて、話をしていこうかと思います。今回のインタビューでは、内藤さんのいじめ論の骨子を、それこそ根幹となる3つくらいのポイントを整理する、くらいにわかりやすくまとめてみたいと思っています。まず重要なのは「いじめを」生態学的なモデルで観察したという点ですよね。そこから整理していきましょう。

内藤:うん。生き物の分布や栄枯盛衰というか、色んな生き物がいると、足を引っ張る奴、餌になる奴などがさまざまに絡まり合って、それぞれの生き物はその絡まり合いのなかに位置を占めている。生き物のありかたは、そういった生態学的な環境によって変わる。この場合の環境というのは、物理的な環境だけでなくて、他の生き物との関係なども環境に含まれる。その環境の中で自分の位置が決まり、その様々な位置の中で色んな生き物が生きている。そういう分布をもたらすような場のメカニズムを考えてみましょうという発想が生物学の中にあって、その発想は色々なものに応用できます。○○の生態学モデルと銘打つ研究が、さまざまな学問分野できるわけです。

それを何に応用するか、何に代入するかというのが重要です。いじめ研究をする際、私はそれを「秩序」に当てはめたんです。秩序という言葉は、狭い意味で取ると「社会の治安」のような意味で使われますが、ここでの秩序はそうではありません。様々な人々が様々な仕方で動いたり出来たりする作用が連なりあって、ある一定の繰り返しが起こり、一定の形を成し、それが次の連なりに接続していくというのが広い意味での秩序です。

そのような秩序の構成要素を考えるとき、個人よりも小さな単位である、反応の様式や、内的なモードが、個人の意思や「個人」というまとまりを飛び越えて連鎖するというように考えることができます。「私はA子ちゃんと仲良くしたいと思っているが、“みんな”と一緒になるといじめてしまう」というようなものを扱えるようになるわけです。

つまり、心理社会的な秩序であって、単に個人の集合というような意味での秩序ではない。個人よりも小さい構成要素が、個人の間で連鎖し、感染しあうようなものを含む秩序です。そのような意味での秩序が、例えばAタイプ、Bタイプ、Cタイプの秩序という様々な秩序として常にせめぎ合っている。そういった秩序同士の生態学的な布置を考えることで、悲惨な社会現象を減らしていくという方向で応用するのは有用ではないか、このように考えました。そして、そのような社会現象には、いじめが一番ピタっとはまる事例です。

荻上:なるほど。ちなみに、今までそういうことを言う人はいなかったんですか?

内藤:いませんね。

荻上:でも、いじめを経験した人にとっては、体感的に理解できるモデルだという気がして、今まで誰も指摘しなかったことが不思議なくらいですね。

例えば私にもいじめられていた経験があります。小学生の時などは、四人で遊んでいる時は仲良くしてくれていた人が、そこに一人別の人が加わるだけで、急にいじめが起こったりする。でも、誰か一人がそこから抜けると、また普通に遊んでくれたりする。秩序のバランスが変わることで、いじめというアウトプットが用意されたりするということは、体感的に理解していたような気がします。

今お話いただいた、内藤さんの「秩序の生態学的な布置」という考え方は、「ビオトープ」を例にすると分かりやすいような気がします。ビオトープとは、日本の学校等では、人為的に作られた環境シミュレーターというような意味で使われていますね。元々は「bio(生命)+topos(場所)」からなる言葉で、ウィキペディア:ビオトープには「周辺地域から明確に区分できる性質を持った生息環境の地理的最小単位」と説明されています。

ビオトープは、ある水槽などに魚を放すと、環境Aではこういう秩序になるが、環境Bでは別の秩序になる、というようなものの秩序の移り変わりを観察するための、生物の秩序観察の教材として用いられることがあります。ある水槽では仲良く群れているけど、ある水槽では攻撃的になってしまう、ある環境では食物連鎖が適切に起こるが、ある環境では共食いをはじめる、というようなことを説明するためのツールとして分かりやすい。

そのことを踏まえたうえで、とても分かりやすい例があります。2006年12月、メディア上でいじめが話題になっていた頃、朝日新聞が「君へ」という特集を組みました*1。これは「いじめられている君へ/いじめている君へ」という題で、色んな有名人が子どもにむけてメッセージを掲載するというものです。その中で、テレビで人気者のさかなクンという人が、「広い海へ出てみよう」という文章を掲載していたんです。この文章は、内藤さんの研究された、いじめのメカニズムを説明するのにとても分かりやすい文章だと思うんです。

中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩(せんぱい)が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。

 でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。

 広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。

 中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。

 ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。
いじめられている君へ:広い海へ出てみよう

あるビオトープの中に魚を入れると、魚がいじめを始める。それは「最近の魚が凶悪化した」というわけではなく、環境的な力のようなものが、いじめを発生させることがあるということです。これは、内藤さんの話を分かりやすく説明するための例として、ピッタリだなぁと思うのです。

内藤:なるほど。分かりやすいですね。私はネズミを狭い箱に入れると内臓を食い合って殺しあうとか、過密飼育実験とか、そんな言い方をしていましたが、もうちょっとお花畑風に、ビオトープとか言ってみるのもよいかと思いました。方法論的醜言主義はコアなファンにはたまらないと思うのですが、コンビニ的な客層を増やそうとすれば、方法論的美言主義の方がよいですね。ビオトープですか。なかなか一般客がつきそうで、よいですね。発行部数の多そうなものには、この比喩をつかうことにしましょう。

荻上:(笑)。この手の特集のよいところは、先生とかが教室や職員室にコピーやプリントアウトしたものをそれとなく掲示したりとか、応用が利かせられるところだと思うんですよね。でも、「ネズミが互いを食いちぎり〜」とかだと、貼れないですよ(笑)。同じ小説でもカバーが変わることで売れ行きが変わるとか、同じコンピレーションアルバムでもジャケットによって売れ行きが変わるということがあるように、同じ内容であっても、形式が違うだけで浸透率が変わりますから、見習えると思えます。

さて、内藤さんの本が画期的なのは――というか、この観察が正当だと思うんですが――、個人ではなく秩序を単位にしているところですよね。従来のいじめ論では、個人を単位にすることで、発想がどうしても個人の気質の問題や、個人に対して与えるべき教育アプリケーションの問題や観念論になってしまう。あるいは、個人と向き合う教師の能力、というような形になりがちです。

でも、内藤さんは社会学者なので、教育空間の不透明性を前提としていますね。個人対個人の教育論だと、教育空間が透明であることが前提となっていて、そこで行う教育内容とか、教科書のフレーズとか、教師のカリスマ性とか、そういう方にばかり注目してしまいがちです。しかし、教育空間は透明なメディアではなく、例えば教室などによっていじめが起こりやすかったり起こりにくかったりするというようなことが起こる。交通事故の例を出すと、慣性の法則によってカーブを曲がりきれないために事故が起こりやすい空間というものがあって、ドライバーのテクニックや注意にばかり着目していたら解決できないような問題があるように、秩序や教育空間の不透明性に着目することで初めて見えてくるものがあるんですね。

ところで、内藤さんは、武富健治の『鈴木先生』というマンガを知っていますか?

内藤:いえ、知らないです。

荻上鈴木先生という学校の先生が、学校で起こる色々な問題に取り組むマンガなんですが、その最初のエピソードが、席替えをする以前と以後である男の子の行動が変わった、というものなんですね。席替えの前では普通に振舞っていた男の子が、席替えの後では班給食の際に下品なことを口走ったりする。鈴木先生はそこで説教するのではなく、言うなれば秩序のせめぎあいに注目し、少年が苛立つ理由を突き止めるんですね。シンプルなストーリーですが、「熱血的、破天荒的、カリスマ的な教師が問題児達を更正する」というようなものではなく、さまざまな細部にアンテナを立てることで問題解決するというところが印象的です*2。こういう例も、シンプルで分かりやすいのではないかと思います。

内藤:なるほどー。


■「生態学モデル」の実効性
荻上:今、ビオトープという例を使って簡単に翻訳(笑)させていただきましたが、内藤さんの、例えば「環境」や「秩序」という発想を使うことによって、具体的にどのような見通しが立つのでしょうか

内藤:「環境」と言ったとき、マクロ環境とミクロ環境があるんですが、心理社会的な秩序には色んなモデルがある。今のところ焦点を当てているのは顔が見える範囲のミクロな秩序。ミクロな秩序は複数あって、それが生態学的に混ざり合っている。そこが重要です。最も典型的な例を挙げる時には、A秩序だけ、B秩序だけが突出したケースを挙げて個々の秩序のメカニズムを明らかにするんですが、実際には複数の秩序が混ざり合っているんですよね。

人間の命は虫けら、ノリは神聖にして冒すべからず、誰かが自殺未遂をすると「ワー、かっこいい」と大はしゃぎする…という秩序があったとしましょう。それをB秩序だとします。でも、多くの場合はそれはヤバイと思われていて、死ぬまでやるのはまずいよねというような秩序が混ざっている。これをC秩序とします。B秩序とC秩序とが危うい均衡を保っている中で、B秩序によって苦しめられたりする。現実は複雑、玉虫色で、わけのわからないものに映りますが、それ自体単純な複数のタイプの秩序が混ざり合っていると考えることで、わかりやすくなります。

私が、いじめ研究をしている他の研究者と議論になるのは、いじめをしている人たちに質問紙調査をすると、「いじめは悪い」というようにちゃんと答えるわけです。そういう意味で、彼らはいじめをよしとするような秩序を生きていない、やっぱり「いじめは悪い」と知っていて、その秩序に反して無規範的にいじめをしている、というように言われるかもしれない。でも私はそうじゃないと思います。いじめは正しいというB秩序と、いじめは正しくないというC秩序が混在していて、ある局面ではB秩序が突出し、質問紙に答えるような時は、C秩序のモードで書いている。

多くの人は、複数の秩序、複数のモードを生きていますよね。で、環境が変わることで、ある秩序が前景化したり、後景化したりする。そこで、マクロ環境がどう変われば、どのようなミクロ秩序(たとえばB秩序)が前景化し、どのような別のミクロ秩序(たとえばC秩序)が後景化するのかを考えるのかが、秩序の生態学的なモデルだというわけです。

荻上:ある環境では凶暴になったり、ある環境ではボウフラが増えたり。

内藤:そう。ビオトープの例は本当にいいよね。温度を一度上げるとボウフラが増えるとか、水槽を広くするとちゃんと棲み分けが出来るようになるとか、具体的に分かりやすくイメージできる。絵も描けるし。いいなぁ。

荻上:企業開発セミナーとかでも、例えば会議室の椅子の配置や照明の具合によって会議のクオリティが左右されるというような発想が浸透しつつありますね。学校に関しても、広義の環境――物質的な環境の管理というだけでなく――クラス分けなどの人間的な配置などを含めた環境に着目するような試みは、今後着目されていくかもしれません。それが必ずしもいいというわけではありませんが、ただ一方で、昨年末から最近までいじめに関する意見がメディアを飛び交っていましたが、10年前、20年前とちっとも変わらないという印象がありますね。

内藤:2001年に『いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体』を書いたのに…。多くの人がちゃんと読んでくれたら、今、私がいじめに関して何かを言う必要もなくなっているのに…。やっぱり、知名度が低いのかな。

荻上:どんな言説でも、浸透するには時間がかかりますから。むしろいきなり広まってしまうと、それはそれで副作用がでてくると思いますし。

内藤:学会とかでも、「規範意識が低下した」とかいう発表をする人が未だにいるんです。それに対して「いや、A秩序、B秩序というのがあって…」と説明をすると、その場では皆黙るんだけど、数年後に同じ学会に行くと、また「規範意識が〜」ってやってるんだよ。『いじめの社会理論』の秩序の生態学モデルのところを読まずに、いじめについて「規範意識の衰退」なんて学会で発表するなよ、と思います。もし学会や学術論文などで、「規範意識の衰退」と言いたいのなら、わたしの秩序の生態学モデルを論破してから言ってほしいですね。


■「いじめはなくならない」からの一歩
荻上:意識が変わったからいじめが起こるのだというのは、良くも悪くも「分かりやすい図式」ではありますからね。しかし実はトートロジーなんですけどね、これ。いじめるようになったからいじめるようになった、としか言っていない。

印象ですが、いじめっ子がとても悪い人間であるという、ある種モンスター化するようなイメージは、現場やいじめられっ子の視点ではなく、むしろ距離をとって観察している風に振舞おうとする際に多いような気がします。『ジャンプいじめリポート―1800通の心の叫び』とかに寄せられている当事者の声を読んでも、あるいは自分の個人的な体験からも、必ずしもいじめっ子が凶悪なモンスターであるというように思えない。授業を普通に受け、普通に遊んだりしている子が、ある局面では「いじめっ子」になるというのを何度も体感してるからかと思うんですが。

内藤:現場の先生でも、「心を込めれば…」と思っている人は多くて、暴れん坊将軍とか水戸黄門みたいな人が現れれば、一挙によくなりますみたいな感じで考えている。あるいは一方で、ひどい教師をチェックすると言う考え方は「信頼関係が壊れる」とか思っている。でも、平凡な教師、平凡な人というのを前提としてうまくまとまるシステムを考えることをしないと、意味がないんです。その際に一番有益なのが、秩序の生態学モデルなんですよね。

荻上:なるほど。それにしても、粛正や自己批判などを重ねていけばよりよくなるというモデルは、どこまで信頼できるんでしょう。正しい教育をすれば、規範を与えさえすればと主張するような論者や先生が、一方でものすごく攻撃的に他の論者とか生徒とかを罵ったりしているわけで…。

いじめと現代社会』のおびに、「『いじめをなくそう』ではなく、『いじめはなくならない』という前提で語ろうではないか」というフレーズが書いています。当然これは、カッコつきの「現実主義」的な開き直りではありませんよね。人間から攻撃性を拭い去ることは不可能で、むしろ攻撃性の発露によってその意味が変わる。何かのメディアに表出されることで、それがスポーツであったりゲームであったり、規範であったり露骨な暴力であったりもする。そのことを考えるということでもあると思うのですが。

内藤:『いじめの社会理論』にも書いたんですが、「タフの美学」というのがあります。かつていじめられていた自分というものがあった人が、それをなかったことにして否認し、自分は強いのだという自己イメージを貼り付けて防衛する。でも実際にはものすごく惨めな自分の姿があるんだけど、それを「耐えた自分」というイメージを貼り付けることで惨めなイメージを凍結する。

でも、そのイメージは凍結されているだけで、残っているんです。自分がちょっとうまくやりおおせるようになると、今度は弱くて耐えることの出来ない人に対してかつての自分を投影し、「弱い奴は強くならなければならない」というようにして叩く。

荻上:その行為は、自分の中では「いじめに耐えたがゆえに今の自分がある。しかるにお前は…」と既に合理化されている。

内藤:そう。その「しかるにお前は」と言っている人こそ、変わらぬままの自分であるんです。ただ、理不尽なことをされて、耐えて強くなったと思っている人は、弱い人の存在をどうしても認めることができなくて、弱い人の存在を認めたら、強い自分が壊れてしまうと思い、弱い奴は強くなれ、と圧力を加えずにはおられない。

しかし、本当に強い人間というのは、弱い人が弱くあることを認める人間。弱い人を、弱いままで受け入れることができる人です。私はそう思います。

荻上:「生態学的なモデル」、つまりビオトープモデルと同様に重要な概念として、内藤さんは本書でIPS(Inter-Intra Personal Spiral)という概念を打ち立てていますね。ある子どもが、ある条件が整った環境におかれると、秩序のバランスによっていじめらっれ子になる。長い間いじめられっ子であったその子どもは、構造的に与えられたいじめられっ子という役割を反復することで社会的条件付けがなされ、その役割に対して過剰適応し、そのキャラクターを内面化することで固定してしまう。秩序は、その子が内面化されたキャラクターを演じ続けることで、さらにその子に対してその役割を求めるようになる…という螺旋構造、ループ構造。

あるいはいじめられっ子が、自分がいじめられているのはこれこれこういう理由で悪かったのだと、いじめる側の論理を調達することで合理化してしまう。その現実に見合った世界観を構築していくことで合理化してしまう。このような、「社会の中でのIntra-Personalな体験構造」と「体験構造に基づくInter-Personalな社会」とのループがIPSだと。今お話していただいたような「いじめに耐えたがゆえに」という説明はIPSという考えに基づいて分析すると、「欠如から全能を希求する体験構造」が見出される、というわけですね。

いじめと現代社会』において、教育社会学者の本田由紀さんと対談されていましたよね。そこで、「大学のように自由につきあう相手を選べるところで、自分をいためつける加害者たちにしがみ続けるケースは、ほとんどありません」と仰っていた。多チャンネルであれば、衝突も回避される部分は確かにある。ただ、元々限定的なチャンネルであったところから多チャンネルに変わる際には、ややその意味が変わるかもしれない。

これはごく個人的な雑感でしかありませんが、小中学生の頃は、色々な家庭、色々な背景で育った、別の階級、別のトライブである子どもがごちゃごちゃにミックスされている。そうすると、社会においては意図的にミックスしなければ遭遇せず、むしろ反目しあうような組み合わせが、学級においては生まれますよね。そこに“適切な”パワーバランスをもたらすために、暴力やシカトなどを駆使してヒエラルキーを構築するような機能がいじめなどにはあるのかなぁと思っています。狭い空間で異質な者と顔を合わせるからこそ、過剰な仕方で“適切な”秩序化をしなければならないというような。

それが長期化して、いじめられっ子メンタリティを内面化した後で大学に行くと、その人は自発的にその秩序を完成させるように動いてしまうのではないか。木堂椎の『りはめより100倍恐ろしい』という本がありますよね。「いじり」は「いじめ」より恐ろしい、構造的ないじめは構造が変わればターゲットは変わるという流動的なものだが、キャラクター化された人格に対する「いじり」は、そのキャラクターである以上どこにいっても変わらない、という。長期間いじめられっ子だった子が「いじられっ子」に固定されて、大学で合コンやサークルとかに誘われても「俺はいいよ」と自ずとそこにパワーバランスを見出そうとしてしまう、あるいは人気者キャラに対してどうしても卑屈になってしまうというようなことが、大学的な自由の背景には起こっているような気もしています。


■きずなユニットと「いじめ」からの脱出
荻上:それはさておき、「いじめを耐えたがゆえに」と合理化している人が、そうでない人と反目しあう分には問題ないと思うんですよね。それはそれでオッケー。既に形成された自己像だし、そういうライフスタイルを選ぶのも、当然許されなくてはならないと思う。但し、それが一つの秩序、たとえばさきほどのB秩序として、同心円状に過剰に拡大しようとするのは、制止する必要もあるでしょう。

本文の中で、アメリカの哲学者、ロバート・ノージックの話がありました。複数のユートピア(理想を共有する共同体のモデル)が散在し共存するメタユートピアという状況を想定して、各ユートピアが平和共存するための環境を考えるという思考モデルを借りる意味において参照されていた。ノージックの話に繋げるならば、ユートピア同士の多少の反目もまた共存のためであるが、しかし適切な距離と自由が互いに確保されていたほうがよく…。

内藤:うん。ただ、よく誤解されるんですが、私は本文ではノージックを批判していますよね。

荻上:はい。ノージックは多元的な共同体主義であると。

内藤:だから私はノージックユートピアという概念を使わず、「きずなユニット」という考えを使っているんです。基礎単位をコミュニティに限定せず、さまざまに接続するきずなのユニットを基礎単位にする。それは自然との関係でもいいし、身体内の断片的な感覚群のつながりでもいいし、人との関係やグループ、国家でもいい。ありとあらゆる自己形成的な関係がユニットになっている。それを魅力と幸福感という媒体でもって、繋がったり切れたり、細くなったり太くなったりを繰り返すことで、良い線というのがでてくる。

その良い線というのがでてくる媒体としては、あくまで魅力と幸福感に限定すべきで、暴力や囲い込みは禁止する。そのことで、様々なきずなユニットが淘汰される、こういう考えです。だからノージックの基本的な理論形式を使っているけど、内容は否定しているんですよね。

荻上:メタユートピアというと、各ユートピアの存在が前提として固定されてしまいますね。それよりは交錯的な、ネットワーク的なイメージでしょうか。

内藤:ユートピアというと、コミュニティのイメージ、社会集団のイメージですよね。しかし要素はコミュニティである必要も、ユートピアである必要もないんです。現実に存在するものでいい。自給自足的なコミュニティというのをユニットとして考えるからユートピアというイメージと繋がるんだろうけれど、夫婦、親子、ペットとの関係、コミュニティ、国家、物質でもいい。

荻上:ウェブ上の断片的なログでもいい。

内藤:そう。ありとあらゆるきずなのユニットが繋がったりするダイナミズムに対して、暴力や囲い込みを禁止するフィルターを貼りながら、他のユニットとパターン交換をしつつ形成していくこと。それは普段私たちが日常的にやっていることですよね。それを、ユートピアを単位にする必要はない。

ノージックに対する私の批判は、ユニットをコミュニティに限定する仕方が間違っていること、それをユートピアと呼ぶことが間違っていること、そしてそれを実現する際、あまりにも小さな国家を想定するのも間違っているということなどが挙げられます。自由な中で試行錯誤があり、フィルターディバイス(ろ過法)が機能する社会にするためには、ノージックのリバタニアリズムではなく、福祉制度をある程度完備したリベラルな社会でないと、ノージックの言うフィルターディバイスは作動しない。

だから、ノージックのリバタニアリズムのロジックを、リベラリズムのロジックに強引に引っ張りこんでいるわけですね。ノージックがリバタニアリズムだからといって、内藤がリバタニアンというわけではない。
ここでハッキリ宣言しておきますが、内藤のことをリバタリアンという人がいますが、それは誤解です。内藤は、リバタリアンではなく、リベラリストです。

荻上:経済政策的にはまったく違いますね。ある種の権力の布置からは自由を指向するが、権力の作動の仕方、設計の仕方には配慮が必要であると。

内藤:論理形式を抽出することは、内容を肯定するということとは別ですよね。例えば本文には、精神分析がでてくるでしょう。

荻上:クラインやラカンなどが出てきていますね。但し、精神分析的ないじめアプローチを肯定しているわけではない。

内藤:精神分析の内容は大部分否定して、その論理形式で使える部分だけ使っています。だからといって内藤は精神分析だというのは違うでしょう。
内藤は精神分析に依拠している、などといった誤解もあります。『いじめの社会理論』のなかで、精神分析学の論理形式「だけ」を抽出する、と書いた部分をよく読み返してほしいですね。

荻上:きずなユニットという発想でいえば、あるコミュニティが耐え難い状況でも、複数のチャンネル、ユニットを生きることができれば、いじめ自殺などをせずにすむかもしれない。その意味で、秩序のビオトープという着眼点は、広く活用できる、実効的な概念ですね。

内藤:そうです。

荻上:ユニット単位という考えで言えば…また個人的な話で恐縮ですが、子供の頃、小学三年生から中学二年生までの間、1989年から1995年までの6年間、ずーっといじめられっ子だったんですね。

内藤:6年間! ずいぶん長いですね。6年というのは、田舎の例に多いんですが。

荻上兵庫県から埼玉県に引っ越した時で、言葉が違う、発音が違うから「関西弁喋ってみろよ」とはやされ、言葉を発することに躊躇するようになったのがきっかけでした。ちょうど、メディア上で連日「いじめ」の問題がクローズアップされていた頃で、「葬式ごっこ」や「大河内君の遺書」が大きな話題となり、金八先生でいじめの問題が取り扱われされ、野島伸司人間失格」が大きな反響を呼び、少年ジャンプが「いじめレポート」「元気やでっ」などの連載を開始し、どこかの校長の「いじめはありません」発言が顰蹙を買い、当時スターサッカー選手だった前園選手が「いじめ、格好悪い」とCMで叫ぶというような時期でしたね。

いじめは相当きつかった記憶がありますが、しかし体感的には、結構やりすごせていた気がする。というのは、いじめが発生しだした頃から、時を同じくしてゲームにはまりだしていた。スーパーファミコンが発売したこともあって、ゲーマーになった。当時、『ファミコン10年』という本を読みながらチェックしたことがあるので覚えているのですが、1993年時点で1200タイトルほどのファミコンソフトが発売しており、そのうち300本近くは持っていて、3分の1以上はプレイしたことがあった。ゲーム雑誌を定期購読して常に新しいゲーム情報や裏技情報にアンテナを立てていて、弁当代を我慢して水を飲み、代わりにゲーム代に回していた。

そうすると、いじめられている学校の時間というのに帰属意識があまりわかないんですね。「ゲームをするまでの、待ち遠しい時間」でしかない。そちらの方がウェイトが高く、ある種の「きずな」たりえていたから、殴られようがハブられようがスルー出来ていたのではないかなぁと思います。でも、放課後、靴がなくてなかなか帰れないとかは結構ダメージだった気がする(笑)。


■「いじめ」を解消するための実効的な提言を
荻上:他にもB級映画とかお笑い、絵本にハマったりしていましたが、自分の場合、他にチャンネルがあったからやりすごせていた、自殺もそれほど多くは考えずに済んだのかもしれない。でも、別のチャンネルがない、スルーするためのメディアがなかったらと思うと厳しい。個人の努力でなんとかなるわけではなくて、その学校がその学校である以上、その秩序環境がその秩序環境である以上、いじめが続いてしまうということがある。

そのような状況を変えるために、内藤さんはいじめ問題の是正に関連して、二つの提言を本書の後半でされていますね。学校的治外法権に対する公権力の導入と、クラス制度の廃止およびチケット制の導入。

内藤:正確にいうと、短期的な改革と、中長期的な改革に分けているわけです。短期的なものというのは、今の学校制度を前提とした上での改革なんですね。中長期的な改革は、学校制度そのものを別のタイプのものに変えるというものです。中長期的なものの実現はかなり大変ですが、短期的なものは簡単にできます。で、短期的なものとして、学校的治外法権に対する司法の導入(学校の法化)と学級制度の廃止があります。

その前に前提を説明しておくと、私の政策は第二次性徴以後の子どもが対象で、第二次性徴以前の子ども、特に幼児に関しては分かりません。だいたい小学4〜5年生くらいの段階から効いてくるお話であることを確認しておきます。第二次性徴以降で狭いところに閉じ込めて、市民的でない、みんなのノリがそのまま秩序であるような空間で、先生と言われている、みんなのノリを方向付ける王様みたいな役を期待されている人がいるというのは非常に危険です。人の能力には限界があるし、教員が迫害者となる場合も、生徒が迫害者となる場合もふくめて、あちこちで陰惨なことがおこる。

ビオトープの例で言えば、学級制度を廃止すると、狭いところに閉じ込めるという水槽の大きさが変わる。本当は学校という水槽の狭さ自体が有害なんだけれど、学級という狭さはさらに有害で、せめて学校くらいの大きさにするとそこそこ改善される。また、暴力に対していえば、学校以外の公権力を作動させる。しかも、公権力は、スクールポリスというような、狭い学校空間内の一つとしておくわけではなく、学校を飛び越えた市民社会の警察が入ること。スクールポリスには反対です。スクールポリスは、ダーティワークの暴力教員のたぐいを一人増やすような危険な効果をおよぼしかねません。あくまでも、普通の街中の警察官が学校に入ること。これが短期的な改革です。一方、長期的な方が、学校というビオトープを廃止し、さまざまな学習支援ユニットが散在する状態になること。それに対し、チケットで淘汰させるという仕方です。

短期的な政策で、学級の廃止と暴力の禁止というのは、それぞれコミュニケーション操作系のいじめと暴力系のいじめに対応しています。暴力系のいじめは、たいていの場合警察が入ると一気に壊れる。それはひとつは利害関係によるもの。警察に逮捕されちゃかなわない、という理由です。もうひとつは、警察や裁判所や弁護士の介入によって、「ここはノリは神聖にして冒すべからずのB秩序ではなく、普遍的な人間の尊厳が通用するC秩序の場である」というふうに、場のモードをチェンジが起こるからです。

学校は神聖なる教育の場所だから警察の入れない場所である、市民社会のルールが通用しない社会ですというように囲わないことが大事です。人々は、ここがどういう秩序であるのかという信号に従って、特定の秩序を生きていきます。それに対して、警察が入ることで、ここが市民の空間であるということを確認すること。そのために、警察を入れることが重要なんです。公権力の導入と言うのは、前者の意味(罰による抑止)でしか考えない人が多いけれど、実は後者の意味(場のモードのスイッチを、B秩序からC秩序に変える)で効果が大きいんですね。

お金と法というのは、秩序のモードを変更させる機能がありますね。例えば離婚裁判でお金を払うことが重要なのは、ひとつには生活費という面が勿論ありますが、もうひとつは、ものすごくドロドロした、接着ボンドが指にからみついているような関係になっている状態から、金の論理に変換することでモードを変更させるという役割もあるわけです。

荻上:経済的なインセンティブに変換すると。

内藤:どろどろした鏡像モードから、金とか法とかドライな別のチャンネルに変更する。

荻上:だとしたら、その機能さえあれば「国家警察」でなくてもよいということでしょうか。

内藤:但し、コミュニティ的なものは機能しない。「私たちの繋がり」というのを重視するタイプのものでは、意味がないです。赤の他人が、心と心、感情と感情ではなく、抽象的な数値の交渉に介入してくる、しかも個々の人間関係の成り立ち等ではなく、普遍的な法律によって決めるという場合は、国家の方がいいんですよね。

荻上:なるほど。それは、自治を認めないという理由ではなく、チャンネルを変えるのに適しているがゆえの選択というわけですね。

内藤:迫害的な自治をみとめない、ということと、チャンネルを変えるということと、罰による抑止をするということと、一石三鳥です。暴力に関しては法が介入し、自然発生的な暴力を媒体とした自治は認めない、ということです。

一方、言葉によるいじめ、無視、シカト、くすくす笑い。こういうものは、警察は手出しが出来ないですね。この間の、福岡県筑前町立三輪中の自殺のケースでは、多くの生徒が彼をいじめていたけれど、暴力系のいじめは多くなかった。パンツを下げるくらいだった。警察はパンツを下げた5人を逮捕し、あるいは児童相談所に通告したけれど、コミュニケーション操作系のいじめでは何をやっても、警察は捕まえられない。刑法の考えになじまないんです。悪口をいって自殺した、とかはね。

大学生くらいになると、なんで悪口くらいで自殺するのか、不思議に思う人も多くなるでしょう。実は、コミュニケーション操作系のいじめで自殺をするというのは、閉鎖的な環境に朝から晩まで閉じ込められて生活するという環境条件が整わないと、なかなかおこりません。

荻上:その閉鎖的な環境での評価が、人生そのものの評価であると重ねられてしまう状態ということですか。

内藤:そうです。コミュニケーション操作系の自殺には、環境的な作用が大きく働いています。今回は男の子の例ですが、女の子の例では、コミュニケーション操作系のいじめだけで自殺するというのはよくある例なんです。一昔前は、嫁が姑にいじめられて自殺するというのはよくあった。姑が障子の桟に指をスッとひいて嫁をチラっと見るだけで、地獄に落とされたような気分になる。でも、多チャンネルなところであれば、その効果は少なくなります。

仲良しグループでシカトされたり悪口を言われたりした場合、大学とかなら、この人は違うなと思いつつ、ちょっと傷ついたりしつつも距離をとったりすることが出来る。一方で別のグループに、格好悪そうに見えたりしたけど、実際つきあってみるといい奴じゃんということで距離が縮まったりする。だから傷つくことも大事で、傷つかないと距離の調整が出来ないということはあります。

でも、閉鎖的な空間では、距離を取ろうとせず、いじめの被害者が涙を流しながら「私の心を変えるから、仲良くしてください!」と言ったりする。「こいつは醜い人なんだな」と距離をとるのではなく、醜い人に対し、自分の心を変えて付き合っていこうとする。これはとても惨めなことです。

人の人格というものは、生まれたときから元々出来ているものではなくて、自分の魅力と幸福感にしたがって出来ていくものですね。これは自分にとっていいかなと思ったらよくなかったとか、悪いかなと思ったらなかなかよかったというようなことを繰り返しながら、自分にとって何が幸せで何が不幸で、何が良くて何が悪いかという感覚が見についていく。このまとまりの感覚を自己といいますね。

この自己、つまり「まとまりをもって生きること」そのものが、先ほどのような場合奪われてしまう。そこでは、「友だち」に魂の深いところを売り渡して、仲良くすることで生き延びようとするんですよね。しかも、ただ単に形だけ合わせるというのではなく、自分の深いところから作り変えさせられてしまうわけです。

なぜそこまでの状況になるかというと、学級的な空間では次のような二者択一を迫られるからです。ひとつは、魂を深いところから売り渡すこと、自分を根元から変えるということですね。加害者に対して責めるのではなく、自分の心を変えてまでそのクラスに適応しようとする。

もう一つは、朝から晩まで同じ人と付き合わないといけないような場所で、人間関係がまったく存在しないという状況を、長い間ずっと過ごすということです。子どもの体感時間は大人より長いですから、それはとても長い苦痛です。感覚遮断実験に近い…いや、感覚遮断実験よりもかなりきついかもしれない。宇宙の真空状態に一人でポツンといるような状態を長い間続けないといけないんですから。

周りが「○○ちゃんおもしろーい」「○○ちゃん、キャー」とかやっている中で、自分だけまるで亡霊のように存在していて、いないかのようにすごす。その苦しみを選ぶか、魂を深いところから売り渡すことを選ぶか、二つに一つしかないんですよね。
そして、どちらかを選ぶとなると、多くの場合は後者を選んでしまう。

学級制度はこのような二者択一を迫るんです。その中では、自分の存在基盤が「仲良くすること」に独占的に繋がっていて、「仲良くすること」を無理やり求められる。仲良く出来なければ、自由な人間であれば自殺するはずもないような悪口で、自殺に追い込まれたりする。それは、そこでの絆を強制されたりするからですね。

絆というのはものすごく大事なものであるがゆえに、非常に醜悪な絆が自分を支える根本的なものになった場合は、そのダメージはとても大きいんです。誘拐され、レイプされ、殴られて、でもその加害者との人間関係しか自分を支えるものがないような場合、その人の趣味趣向に対して自分を変えていったりすることがありますね。それと同じで、とても悲惨なことです。

学級制度というのは、そういうタイプの絆を蔓延させてしまう。そこから逃げ出す最後の手が、自殺なんです。デュルケムが奴隷の自殺という言い方をしていますよね。奴隷にとって、その世界から逃げることは死しかない、という状態です。

荻上:『いじめと現代社会』の中には宮台真司さんとの対談が掲載されていますが、そこでも掲載されている通り、宮台さんはそのような状態を「満員電車状態」と呼んでいますね。電車というのはかなり特殊な空間で、異質な人と同じ空間に過剰なほど近接的に位置づけられる。俗流若者論などで「最近の電車のマナーは」という論法がやたらと問題にされるのも、そこで普段出会わないような異質な人と同居させられて、過剰に驚いているという部分があるのかもしれない。

しかし電車であれば、目的地がくればさっさと降りれば事足りるので、数分から数時間で嫌な思いからも解放されるわけですね。隣の人がちょっと臭かったり、見た目が怖かったりしても、時間がたてば離れられる。でも学校は、6年間、あるいは9年間というようなスパンで、異質な人たちと同居させられる。それに対して、「異質なものと長期間共に生活するという通過儀礼が人間には必要なのだ」「そこで傷つくことも必要なのだ」という意見もあるでしょうが、それに対して内藤さんはいかが思いますか?

内藤:そんなことないでしょう。人間の長い歴史を見れば、学校なんてごく短期間にしか存在していない制度ですし、そんなものがないところでも健やかに生きている人はたくさんいます。しかもそれが狭いムラ社会とは限らず、親がいて、路地があって、地元仲間がいてというような多チャンネル的な世界を生きていて、満員電車状態を生きないような生活環境もいくらでもあるわけです。


[その3に続く]