中村正『ドメスティック・バイオレンスと家族の病理』作品社、書評

『家族社会学研究』(第14巻1号、2002年7月、日本家族社会学会)に掲載された内藤朝雄さんの書評です。


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 中村正『ドメスティック・バイオレンスと家族の病理』作品社、書評


 本書はドメスティック・バイオレンスについての入門書であると同時に、加害者に焦点を当てた最先端の研究・対策の動向紹介であり、さらに著者によるジェンダー論を梃子にした社会論・社会構想論ともなっている。
 第1部「家庭内暴力とは、どんな問題なのか?」では、家庭内暴力のポイントを的確に押さえた議論が展開されている。それは第1部の副題が示すように、「親密さのなかの病理」なのである。つまり家庭内の暴力は、ケアする/ケアされるという関係、あるいは親密さにもとづく相互補強しあう関係を苗床としている。ここで、親密な関係のなかだからこそ発生する暴力や虐待に固有なものは何かについての把握が必要になる。「他人でない」という感覚、あるいは自他融合といった感覚にかかわるシナリオや期待が暴力駆動的に働く機制が問題になる。
 被害者の立場に焦点を当てた第2部、「家庭内暴力における“被害者”とは誰か?」では、これまでの被害者に関する議論の要点をわかりやすくまとめている。特に、保護する者と虐待する者が重なったパワーとコントロールの仕掛けから、被害者に独特の反応様式が生まれやすいことを強調している。また、加害者の責任やパワーとコントロールの関係を隠蔽しがちな共依存説に対する批判がなされている。
 第3部「家庭内暴力の加害者とは誰か」では、アメリカでの最先端の加害者研究と加害者対策、さらに著者による日本での実践が紹介される。まずアメリカの加害者研究の紹介がなされる。DVは脳の構造的欠陥説だけではうまく説明できない。性別役割の檻を原因とするフェミニスト的説明は、社会的背景の説明としては重要である。しかし、同じように伝統的な性別役割意識を持つ男性にも、殴る者と殴らない者がいる。社会的背景のなかで、どのような社会的学習によって男性が殴るようになるのかをさらに、探求しなければならない。パートナーを自己の延長のようにみなす融合感覚と他者存在のシンボル的把握、これを切実に具現する男性的特権にもとづく期待構造、期待はずれに対する被害感、加害責任に対する中和化の技術、「耐える」ことを強化するタフのストーリー、などが指摘される。さらに加害者のタイプ分けが紹介される。アメリカの加害者研究は「男性の暴力は性別役割分業それ自体の廃棄と短絡的には結びつかず、独自な努力をすれば、暴力それ自体をなくすことができるということを示唆している」(113)。「加害者の類型論も踏まえた効果的な加害者対策を考えることが大切」(113)である。
 次にアメリカでの、そして著者による日本での加害者対策が紹介される。アメリカでは家庭内暴力を犯罪化する体制や制度がしっかりとできあがっている(だから加害者研究も可能になる)。著者は、ダイヴァージョン・プログラム(刑罰代替策)としての加害者心理教育プログラムに焦点を当てる。参加しているプログラムが成功裏に修了すれば加害者は通常の裁判のルートを免れるが、失敗すれば元のルートに戻される。カリフォルニア州では、保護監察局が、加害者の人生の道のりを総合的に考慮し人物評価を行い、プログラムへの振り分けを判断する。著者が紹介するアメリカや日本でのDV加害者プログラムの具体例(125-174)は、有益な内容に満ちている。家族や男性-女性についての習慣化された心理的リアリティを変容させる、さまざまなグループによるプラクティカルな技法が紹介されている。特に156-158で紹介されている著者らによる上下関係と暴力の気づきを促すワークはすぐれている。これは家庭内暴力に限らず、職場や学校を含めたあらゆる社会領域での身分関係や暴力の対策に有効であろう(たとえば「上下の関係が、こんなに嫌なものだとは思いませんでした」という参加者の気づきが紹介されている、見下ろし・見上げのワーク)。さまざまな実践に共通しているのは、男らしさと暴力に焦点を合わせた同性同士のグループ・ワークであるということだ。ただ、アメリカの場合はやらなければ刑罰を喰らうという圧力を背景としているが、日本での著者の取り組みは、自分の暴力に悩んで自発的に集まった男性たちを対象としたものである。著者は、「米国のように裁判所による強制ではなく、あくまでも自発的参加なので気づきも早い」と述べている。
 第4部「家族という関係性」では著者の考察や提言が出されている。家族が情緒的に多大に期待され、聖なるものと言っていいほど重視され、適度な距離感を失いがちになるありかたが、暴力や虐待の背景となっている。このような家族のあり方は歴史的な現象である。また、社会構造のなかで支配的な男らしさが生まれると同時に、その男らしさを構造的な要素として社会が成立している。著者は「親父が変われば社会が変わる」可能性に賭けようとしている。著者が提案するのは変革のための制度改革である。男性の育児休暇、父子手帳の発行、父親教室などの男性問題政策、家事・育児・看護・介護を家族のなかだけで完結させない福祉政策、男性を「大黒柱」に擬した賃金政策や税制の変革、離婚における調停前置主義の見直し、などである。
 評者は、本書の大方に同意する。当事者、特に加害者が社会的に生きている現実感覚に着目し、しかも心がけ論ではなく、さまざまなな実践の提唱や、制度改革や新たな社会構想に向かうスタイルには共感する。しかし御説御尤という書評ほどつまらないものはない。以下では9割の賛成に対して1割の疑問に焦点を当てて論じる。
 心理教育療法と司法的処置を選択させる制度には、(加害者が得をした気分になるかならないかは別にして)公権力が「こころ」を評価し、「こころ」のあり方を強制する側面がつきまとう。またこの制度には、「みんなでいっしょに」「こころ」を変えたふりをする演技を強いる(あるいはどれほど演技力のある役者であるかが加害者の命運を左右する)危険性がある。さて多くの加害者は、これまでの人生の屈辱やどうしようもない怒りを、特定の人物をはけ口にして晴らそうとする。はけ口になってしまった人物に暴力を加えて人生の重荷を下ろし、その後に心理的なケアを受けて救われるというルートは、加害者にとってはあまりにも都合が良く、はけ口にされた被害者にとってはあまりにもアンフェアである(特にひどい暴力の場合、心理療法によって改善したのか、重荷を下ろし底をついたから一時的に改善したのかよくわからない。また加害者がこの社会復帰ルートを事前に計算に入れて行動する可能性すらある)。またそれなりに世なれた人物においては、人生の重荷を下ろしてみじめだった自分をなぐさめる祭りと狡猾な利害計算とが、絶妙なしかたで接合し誘導し合っていることが多い。この接合の論理については拙著『いじめの社会理論』(柏書房)第6章および第7章(DV論への応用)を参照されたい(さしあたっては、いくつかの役を合わせてあがる麻雀の戦略を想起されたい)。加害者の多くは、自分が損得計算しているという都合の悪いことは知らないふりをしながら、ちゃんと知りながら自他融合を前提とした「純粋」な激情に駆られる。「やってしまって重荷を下ろし、そののち泣いて改心し、前向きに生きる」というドラマを、世間(特に人格を評価する司法関係者)の承認を得るようにうまくコーディネイトする能力の発揮は、「うまい」「世なれている」ということであって、刑罰を軽くする理由にはならないのではないか。厳罰主義の場合、暴力をふるえば厳格に刑事罰を受けるという動かざる利害構造が、キレる祭りの論理と利害の論理の複合体を貫いて、重力のように軌道の大筋を暴力をふるわない方向に引っ張っていく。他人をはけ口にして人生の重荷をおろそうとする暴力に対しては、やはり厳格に刑事罰を科すべきである。そのうえで、加害者本人が悩み、それを望むのであれば、刑務所内であるいは出所後に心理教育療法をサービスすべきである。学校や少年司法においては教育(聖なる教育!)の論理が人権を掘り崩してきた前例がある。遅まきながらもDVの犯罪化によって女性が暴力から解放されはじめたばかりのところで、人権価値が教育価値によって掘り崩される危険性には、注意が必要である。

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