ドメスティック・ヴァイオレンス

『ほん』(東京大学生活協同組合)に掲載された内藤朝雄さんの文章です。


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 ドメスティック・ヴァイオレンス


 男が自分のファミリーに属する女や子どもを「従順でない」と判断したときに暴力をふるうことは、歴史的に古くから、そして世界各地に広くみられる伝統である。ドメスティック・ヴァイオレンスが問題化されてきたのは、人権あるいは個の尊厳という価値の高まりにともなう比較的新しい現象である。究極的な価値の拠点を個の尊厳から伝統やコミュニティの尊厳に奪い返そうとするコミュニタリアニズムの論客であるチャールズ・テイラーは、西洋近代以外の人びとの観点からは「個人の権利を基礎として議論をすすめようとする考えそのものが、奇妙でわけのわからないもの」であることを援用しながら、自説を展開する(テイラー「アトミズム」『現代思想』1994年4月号)。現在の先進諸国では、この「奇妙でわけのわからない」価値が、男が妻や子を殴ることが「いけないこと」として問題構築されるまでに高まったのである。
 ドメスティック・ヴァイオレンスを問題化できる状況の前には、「まず人権ありき」ということを肝に銘じてもらいたい。中間集団の慣習に埋め込まれた「いま・ここ」の暴力や迫害からわれわれを守っているのは、ポストモダンでも関係主義でも構築主義でも社会構成主義でも多文化主義でもコミュニズムでもコミュニタリアニズムでもなく、後期近代になって「人間にやさしく熟して」きた欧米先進諸国の「個人」崇拝なのである。
 アメリカではドメスティック・ヴァイオレンスの問題化は、70年代に活発化を開始し、80年代90年代を通じて順調に進展し、1994年にマスメディアがOJシンプソン事件の報道に明け暮れたことで飛躍的な展開を見せた。
日本では、1995年の『「夫(恋人)からの暴力」調査研究報告書』(「夫(恋人)からの暴力」調査研究会)をきっかけに、1998年に本格的な無作為抽出調査を含む『「女性に対する暴力」調査報告書』(東京都生活文化局)が出され、女性のおよそ3人に1人が夫を含めた性的パートナーから暴力を受けている、という報道が世論を動かした。現在マスコミは年ごとにドメスティック・ヴァイオレンスを大きく取りあげるようになり、出版物も急増し、現在優れた啓蒙書の出版ラッシュが起こっている。
さらにこれまでドメスティック・ヴァイオレンスを「夫婦げんか」と見なしてとりあわない傾向があった日本の司法に、変化のきざしがあらわれた。1999年5月26日、大阪地方裁判所が妻に殴るけるを繰り返していた男性に懲役1年6ヶ月の実刑判決を下した。今ドメスティック・ヴァイオレンスの問題構築に追い風が吹いている(最後に構築主義者が問題が構築されたものであることを暴露するだろう)。
 70年代アメリカのドメスティック・ヴァイオレンスのバイブルは、★レノア・ウォーカー『バタード・ウーマン』(金剛出版)である。さすがにバイブルだけあって、典型的な形態をよく描き出している。昨年出版された、★梶山寿子『女を殴る男たち』(文藝春秋社)は、入門者に最も勧めたい本である。ルポルタージュがすばらしく、社会科学的に水準の高い考察を示しながら、文章がきわめて平易である。ドメスティック・ヴァイオレンスにかぎらず様々なジャンルの書物で、この3点がこれほどそろった本におめにかかったことはない。★吉廣紀代子『殴る夫 逃げられない妻』(青木書店)は、ルポルタージュがより濃厚で、「男で苦労する」とはこういうことかと考えさせる。
 その他よい本が次から次へと出ている。
★日本DV防止・情報センター,『ドメスティック・バイオレンスへの視点』(朱鷺書房)
★「夫(恋人)からの暴力」調査研究会,『ドメスティック・バイオレンス』(有斐閣
鈴木隆文・石川結貴『誰にも言えない夫の暴力』(本の時遊社)
鈴木隆文・後藤麻里,『ドメスティック・バイオレンスを乗り越えて』(日本評論社
★日本DV防止・情報センター『ドメスティック・バイオレンス』(かもがわブックレット)
草柳和之『ドメスティック・バイオレンス』(岩波ブックレット
 地球規模での動向は、★米国国務省『なぐられる女たち』(東信堂)で鳥瞰されたい。
 ところで筆者の研究によれば、「いじめ」と同様にドメステック・バイオレンスの場合でも、(1)他者をコントロールすることを用いた全能追求の軸と、(2)自己利益を最大化しリスクを最小化しようとする利益追求軸との、巧みな接合構造がみられる。世の多くのバタラーは、パワーとコントロールをめぐる全能を追求する内的モードの活性/非活性の調節を、利害構造内の合理的戦術とシンクロさせている。ノーチェックで(リスク無しで、さらには利益になるようなしかたで)誰かが誰かの生殺与奪権を握り運命を弄びうる機会が多ければ多いほど、それを利用して他者を全能具現の素材にしようとするコミュニケーション構造が繁茂する。利害と全能の継ぎ目を切断する社会政策により、加害者の行動をかなり抑制することができるだろう。このような観点については以下の文献を参照されたい。
内藤朝雄,1996,「「いじめ」の社会関係論」『ライブラリ相関社会科学3 自由な社会の条件』(新世社) 
内藤朝雄,1999,「自由な社会のための生態学的設計主義」『季刊 家計経済研究』44号(財団法人 家計経済研究所)



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