こども・教育・学校という宗教

沖縄タイムズ『論壇』(1997/8/11朝刊)に掲載された内藤朝雄さんの文章です。「酒鬼薔薇」事件についての報道について触れています。


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「こども・教育・学校という宗教」


あの酒鬼薔薇が逮捕されたと報じるテレビ番組で、インタビューを受けたほとんどの人々が「14歳の中学生が犯人である」ことに驚きを表明している−−私はこのことに驚きます。「こども」は「本来○○」であるはずという信仰が、多くの人々の現実感覚を歪めています。

この「○○」という特徴は、確かに幼児には個人差を超えてほぼ一律に当てはまっていますが、それが第二次性徴以降の十代の人にあてはまる程度と、20代、30代の人にあてはまる程度とでは、個人差以上の著しい差はありません。基本的に第二次性徴以降の人間は「成獣」であり、「なぶり殺し」も含めて、30代の人間がやり得ることのほとんどを14歳の人間もやり得るのです。

さらに、「本来○○」である「こども」はその「本来性」を引き出す「教育」対象であるという傲慢な宗教は、人間の「成獣」をコミューンじみた学校に義務収容し、「保護」と称して市民的自由と自己責任を剥奪し、過密な「集団生活」を通じて「こころの教育」を内部にねじり込む、といった虐待的慣行を支えてきました。

この学校コミューンでは、普遍的なルールではなく「こころ」が動き合うことがそのまま秩序化の原理とされます。だから教員も生徒も、互いに「こころ」のあり方を気にし、嗅ぎまわり、つつきあうことになります。

またこの心理的過密状態では、個と個の自由な関係が熟すテンポを先回りして、他人の「こころ」が自分のなかに入ってきます。これは一種の毒であり、互いにベタベタしあいながら同時にムカツキあっている、といった関係が蔓延します。

このような「こころ」の過密が、学校を憎悪に満ちた迫害的な空間にします。教育界のトップは「こころの教育」を喧伝していますが、これはいわば、高血圧の患者に血圧を上げる薬を処方するようなものです。学校では「こころ」を秩序化の部品にするのだから、「こころ」のあり方は秩序の存否に関わり、厳しく統制されます。

このような「こころ」の統制の結果、学校では、市民社会では当たり前の自由とされること(例えばピアスをする)が禁じられ、市民社会では許されない暴力や侮辱がまかり通ります。しばしば不遜な態度は、人殺し以上に「わるい」ことと実感されます。

「成獣」初期に、このような閉鎖空間で義務教育された人間は、市民的空間で自己決定権の行使を通じて自己形成してきた人間よりも、恨みや憎悪に満ちてくるのは当然です。快楽的「いたぶり」にふける者が増加し、一部が快楽殺人に走ったとしても、驚くことではありません。

むしろ現在のような学校教育にもかかわらず、殺人や自殺がたったこれだけの人数で済んでいる方が不思議です。

この事件が、「子ども」「学校」「教育」といった宗教から人々を解放する動きのきっかけになれば、と思います。私は、第二次性徴から18歳ぐらいまでの人間を、「こども」ではなく「若葉マークの市民」として扱うことを提案します。


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