14歳の凶悪犯罪は驚愕すべきことか

『Ronza』(1997年9月10月合併号、朝日新聞社)に掲載された内藤朝雄さんの文章です。「酒鬼薔薇」事件をめぐる言説について分析しています。


*******************

14歳の凶悪犯罪は驚愕すべきことか−−少年を市民社会の論理の中へ−−



犯罪の様態を見る限り、神戸の「酒鬼薔薇」事件そのものは、過去にもあった快楽殺人の一例といえるだろう。もし、容疑者が成人であれば、それほど論議は起きなかったはずだ。ところが、容疑者が十四歳の中学生であったために、教育論から親子のあり方、はては少年法改正の是非まで、おびただしい論議が起こっている。
それは、われわれの社会の根底に「こども・教育・学校」をめぐって「これが当たり前だ」とする認識の枠組みがあるからであり、十四歳の少年が連続殺傷事件を起こすことが、この「当たり前」の認識から外れていることに起因するのだろう。しかし、その認識は正しいのか。むしろ、宗教のように人々の脳髄を縛りつけ、現実認識を歪めてきたのではないか。本論の目的は、酒鬼薔薇事件をきっかけにして、この隠れた宗教を白日の下にさらすことにある。


根本にあるのは「こどもの本来性」という信仰だ。それは、純真、無垢、自然、善、白紙(可能性に満ちているという意味で)、可塑的(変わりうるという意味で)などの言葉で語られる。だが、そうした特徴は、幼児にはほぼ一律にあてはまるだろうが、第二次性徴以降の十代にあてはまるとは限らない。文化大革命時の中国では、十代半ばの集団が多くの人々をつるしあげたうえ殺害した。山形県新庄市の中学校では生徒がマットに逆さまに突っ込まれて放置され、殺されている。
ところで、「こどもの本来性」なるものには大人の満たされぬ夢がぎっしりつまっている。だからいつまでも手放そうとしない。そのうえ悪いことに、この理想は宗教性をおびてくる。こんなふうにだ。
−−「こども」が凶悪犯罪を行ったとしても、それは仮の姿にすぎない。本来性は穢れることも滅することもない。「こどもの本来性」を引き出すための「教育」、保つための「保護」、悪しき仮象から引き戻すための「矯正」によって、どんな「こども」も桃源に復帰する。凶悪行動は、本来性を歪ませた大人の社会が悪い−−。これは少年法の屋台骨でもある。
この宗教によれば、「こども」からその本来性を引き出すのが教育である。教育は、学校という宗教的コミューンで、専門の教師によってなされる神聖な仕事である。本来性を知っている、扱っていると称して、「こども」当人の自己決定権を飛び越えていじくりまわす権能を、「教育」「学校」「教師」は手に入れる。この宗教のおかげで「こども」は学校に義務収容され、保護と称して市民的自由と自己責任を剥奪され、過密な集団生活を通じて「こころの教育」を力ずくで内部にねじ込まれることになる。
この「こども・教育・学校」という宗教体系は、主観的に信じられるだけではなく、生活空間を浸食し、社会的現実をつくり変えてしまう。それは学校を中心とした聖なるコミューンを形成し、現実の社会に根をはりめぐらす。このような観点から「酒鬼薔薇」事件の周辺、そして学校という空間をめぐる問題群を追っていこう。


「学校へ来るな」といった教員はなぜ責められるのか
容疑少年の逮捕後、次のようなエピソードが報道された。少年が猫を殺していたことを、同級生がほかの生徒に話した。それを聞いた少年は拳に腕時計を巻いてその同級生を殴り付け、けがをさせた。またその同級生にナイフを突きつけて脅した。それを知った教員は少年に「学校に来るな」と言った。少年は学校に来なくなった。おびえた同級生は転校した。
テレビや雑誌などでは、教員が「学校に来るな」と言ったことに対する非難が沸騰した。学校が少年を受容しなかったから、彼はあんな事件を起こしてしまった、というわけだ。この見解は一見、「人間を大切にしている」ように見えるかもしれない。しかし、へたをしたら殺されかねなかった同級生の人権や、いつなんどき暴力を振るわれるかもしれない潜在的被害者たちの人権は、さっぱりと忘れられている。被害者の人権(生命身体を安全に保つ権利)と加害者の通学権(たかだか学校に行く権利)の軽重が、これほど転倒するのはなぜなのか。しかも、加害者が転校せずに被害者が転校したことが「正義に反している」という声はない。このような一連の奇妙さ、すなわち問題配置のアンバランスは、人々が意識せずに「当たり前」と思っている隠れた宗教を浮き彫りにする。
新聞報道などで「学校の再生」などと言われるように、学校はしばしば生命体視される。至高の価値は聖なるコミューンとしての学校の生命にある。その学校生命が現実化されるのは、「こども」たちが子宮の中の胎児のように学校に包み込まれ、その包み込まれて「在(あ)る」ことを応分に生命の躍動として示すことによってである。
この現実化は、かつての超国家主義の文脈で国体明徴(めいちょう)と言うときの明徴に当たる。このような現実化の積み重ねによって、学校は生命らしく存在する。生徒の「人権」は、その全体生命の現実化や保身の一環に位置づけられる限りでは、しばしば奇怪なレトリックで尊重される。しかし、個人はまったく尊重されない。
もし生徒同士の暴力で苦しみ、個としては不幸になったとしても、その苦しみや涙が学校生活の感動的なひとこまであるならば、その重苦のうちふるえは学校生命の(明徴の)糧でこそあれ脅威ではない。だから学校を生命体視する人々は、生徒同士の暴力それ自体には鈍感であり、「こどもは人間関係で揉まれて成長する」と言う。それに対して、酒鬼薔薇が「学校に来るな」と言われ、つながりを切られて傷つくことで犯罪に手を染めたという筋書きは、学校は本来、子宮のような空間であるという本義を揺さぶるのである。子宮的全体生命は、それがどんなに残酷な「つながり」であれ、「つながり」の絶対性が崇拝されることから生じ、「たにん」であることが前提となることにより滅びる。このようにして、「たにん」と宣告した教員が非難される。そして別に被害者がいたことは忘れ去られるのだ。
このような学校の隠れた宗教的秩序は、「いじめ」の一般的対処法にもよく表れている。被害者を暴力から保護するために、「つながり」を解除しつつ普遍的なルールによって加害者側だけを処罰するというやり方は、子宮的空間としての学校にそぐわない。「いじめ」は双方が気持ちをさらけだす話し合いから和解に至ってこそ、学校らしい展開になる。だから多くの教員は暴力犯罪を「いじめ」と位置づけたうえで、双方に和解のふりを強いる。すると、被害者はますます虐待される。「出席停止だ。今度やったら警察に通報する」という処置をする教員は少ない。


市民社会から離脱した学校コミューンの論理
学校では、「あそぶ=いじめる」側は集合的生命の内側にいると感じられ、「いじめられる」側の苦しみは単なる個人の問題と感じられる。子宮空間の論理でいえば、内側で揉まれることに耐えがたいと文句をつけた被害者側のほうが、加害者側よりも責められるのである。どうしても関係解除が必要な場合は、被害者が転校することになる。だから、被害者側が転校して加害者側が居座っても、違和感が希薄なのだ。
神戸の事件における同級生暴行傷害の対処として、市民社会ならば当たり前と思われるのは、次のような対処である。(1)被害者の人権を加害者の学習権に優先させて即座に加害者を出席停止にする。(2)警察に通報する。(3)被害者側にも、まず万人が法によって守られていることを告げ、加害者の出席停止を学校に求めたり、警察に被害届を出したり、裁判で損害賠償を求めたりする選択肢があることを教える。
ところが、学校コミューン主義が支配している日本では、こういう当たり前の市民社会的対処が、学校や教育に対する冒涜として慣習的に禁じられている。学校内の暴力に対して、個人は勝手に法による救済を求めてはならない、というのだ。
その代償として、教員による恣意的な暴行は慣習的に認められている。そして「体罰をやめれば学校は不良生徒のチンピラ王国になってしまう」という現場の論理がまかり通ることになる。これは「暴行教員首狩り族」と「チンピラ生徒人食い人種」との一種の部族抗争の論理である。両者は類似の精神構造を生きており、しばしば、畏怖力を認めあう関係になる。学校内で命を奪うほどの爆発的暴力は、比較的普通の生徒が「そむくこころ」をかすかに匂わせたときに起こりがちだ。
もちろん暴力を振るえば生徒も教員も等しく法の下に裁かれるのが市民社会の基本であり、これを確保するだけで、部族抗争の論理は消滅し、暴力による学校の地獄絵図はすっきり解決するはずだ。だが、こんな「いろは」を言わなければならないほど、学校は市民社会から離脱してしまったのである。
さて、少年の逮捕後、参議院文教委員会や都道府県の教育委員会など、あちこちで「こころの教育」がさかんに論議され始めた。だが「こころの教育」が重視されればされるほど、事態は悪くなる。実は、学校が悪意と憎悪と迫害の渦巻く「他者の地獄」になってしまった原因は、「こころ」の過剰・過密、すなわち他人同士が精神的な密着を強いられ、互いの「こころ」を過度に気にし、不安な気分で同調しなければならないことにあるのだ。学校は、いつも他人から「こころ」をあげつらわれ息をつくこともできない場所になっている。あらゆる場から、「こころ」のサインを見られているような不安。自分の「こころ」に反応する他人の気まぐれによって、自分の運命がどうころぶかわからない不安。他者がどういう悪意を持つかわからない不安。そこでは、他者の「こころ」のサインが自己の「こころ」の安定をいつも揺さぶる。
たとえば、「後輩がタメ口をきいた」と気になり、ぼこぼこに殴るしかないような気になる。ちょっと誰かの態度が気に食わないと、みんなでハブにしてその苦しむ「こころ」を感じなければ、自分の「こころ」がすまない、というふうに。
本来なら、「他人のこころなんて関係ない(→だからやめておけ)」「赤の他人だ(→殴れば裁判沙汰になるぞ)」といった啓蒙活動が、暴力減少のために必要になるはずだが、現在の学校では「こころのつながり」が強制され、互いに距離をとる権利も能力も剥奪されてしまう。
他者との距離をとる能力を失うことは、他者と共にある自己を失うことにつながる。いらつき、ムカツキながら、自分の憎悪がどこに向かっているのか把握できなくなる。把握できなくなった情動は、コントロール不能になる。とにかく、ムカツキがたまってしょうがないから、何でもいいから、誰でもいいからぶつけてしまえ。これが、最初の生きがたさを再生産する。八つ当たりをされた者は、また同じように八つ当たりをする人間になる。
大人の初期に、このような場で教育された人間は、市民的空間で自己決定権の行使を通じて自己形成してきた人間よりも、恨みや憎悪に満ちてくるのは当然だ。
根本的には、学校という空間の秩序原理、すなわち人々の「こころ」が一定の仕方で動きあうことの積み重ねを、そのまま秩序化の装置として流用するという秩序原理(コミューンの原理)が問題である。
「こころ」をそのまま秩序化の部品として流用するのだから、当然、「こころ」のあり方は押しつけられ、「こころ」の自由は限りなくゼロに近づく。


自由と自己責任の原則が学校の息苦しさを救う
一般に学校では、市民社会では当たり前の自由とされることが禁じられ、市民社会では犯罪とされる暴力が許される傾向がある。このことは、根本的には、コミューン的な秩序化の原理に基づいている。学校の秩序化の原理がコミューンの原理である限り、「こころ」は個から奪われつづけ、個は「透明な存在」になっていく。これが学校の息苦しさの本質である。
この学校の悲惨は、市民社会の論理を導入することなしには、少しも軽減しないだろう。
市民社会の論理は、相互に「たにん」であることを前提とする。「こころ」ではなく普遍的なルール(法もそのひとつ)に従って、「やったこと」だけが問題になる。それ以外は私的な自由に任され、他人の自由を侵さない限り強制されない。ただし、自分でやったことの責任は、自分で引き受ける。自由と責任の原則は自分を磨く。自分で相手や目的を選び、行動し、その行動の結果が自分に降りかかってくる。「こころ」のつながりは私的な関係であり、双方はいつでも縁を切ることができる。
こどものころからこのような自由のなかで生きていれば、試行錯誤を繰り返しながら、自分にとって最適の「こころ」の関係を磨き上げていく能力を獲得していくだろう。それは自分を知る旅でもある。
恋や失恋や親交や絶交など、自由な「こころ」のさまざまな濃淡の揺らぎは、学校よりもはるかに教育的であり、「おもいやり」の能力を育てる。一人ひとりの顔が違うように、一人ひとりの最適な「こころ」の関係も十人十色である。この多様性は、「こころ」のつながりを強いられ、生き延びるためにいやいやながら従うようなコミューン的秩序から自由になることによってのみ可能になる。市民社会の秩序は、望ましい「こころ」の関係を育てる教育的な秩序でもある。
ほしいものを手に入れるために働く。資格を得るために勉強する。他人を尊重し自分も尊重してもらう。自由な人間が、人生をよりよく生きるために自分で自分の能力を高めていくのが市民社会の秩序だ。しかし、現在の学校では、このような「生きる力」は弱められる一方である。
今こそ、学校を市民社会の論理で設計し直し、十代半ば以降の少年を「若葉マークの市民」として扱うことが必要だ。市民社会こそが「生きる力」を育てる空間なのである。

*******************