内藤朝雄「1000字雑感」

1999年、『中学教育』(3月号)に掲載された内藤朝雄さんのコラムです。1000字という短い文章ながら、内藤さんによる議論の骨子が詰まっており、大変読みやすいです。


*******************

「1000字雑感」

  私は10代のころ、かつての「愛知の教育」のモデル校に通っていた。そこでは、教員による暴力と、偏狭な集団主義が支配していた。教員は気の向くままに生徒をいたぶり、殴っていた。被害を受けても、生徒は泣き寝入りするしかなかった。警察に被害届をだし、裁判で損害賠償を求めるといったことは、頭をよぎりさえしなかった。「先生を訴えるなんて」と言われた。生徒たちは、教員にやられた暴力の話を、被害意識が全くないかのように語っていた。
  今、東京で生徒や教員に聞き取り調査をしていると、一見正反対の姿が見えてくる。
ある中学教員は、不良グループが牛耳る学校で、生徒に蹴られて骨折した。しかし、彼は泣き寝入りするしかない。同僚は冷たかった。教員の間では「指導力が足りないせい」とされる。警察に被害届を出し、損害賠償を求めるなど、思いもよらないことだ。「先生が生徒を訴えるなんて」というのが、職場の常識だ。彼は、被害意識が全くないかのように、暴力被害を語る。聞いている私の方が憤慨した。加害者は処罰され、被害者は損害賠償をうけるのが当然ではないか?
 その骨折した彼が、次のようなことを、被害意識を鮮烈にして語る。
「茶髪にされた(生徒が茶髪にした)」。「ピアスをされた」。「ネイルカラーをされた」。
彼も、それができるときには、茶髪の生徒の髪を強制的に黒く染めたことがある。嘆かわしいのは、力関係が逆転したことである。
  私が通っていた愛知の高校と、不良がのさばる東京の中学とは、一見正反対のように見えるが、実はおなじひとつの「学校らしさ」が違う形で現れたにすぎない。
「学校らしい」学校とは、市民社会の論理が通用せず、「人工的な原始社会ごっこ」のユートピアが強制される空間である。
そこでは、こころをかたちで証しあう仕方が、そのまま社会空間を秩序づける心臓部となる。だから学校の常識は、暴力(しばしば茶髪の方が困ったことである)には甘く、個人が法を用いること(秩序原理そのものの否定であり破壊である)を禁忌とする。このユートピアは、嫌がる人たちの口をこじ開けてもねじり込むことになっている(義務教育)。
わたしは、コミューン主義をやめて、学校に市民社会の論理を入れることを提案する。また、21世紀には、右翼と左翼という両全体主義勢力から離脱した、リベラリストの独立勢力が、教育の原理的改革を担うべきだと思う。


*******************


関連エントリー

  • “熱中高校”って、なんだ