神戸少年事件から 学校の市民社会化を考える(下)

1997年、『マスコミ市民』(12月号、マスコミ情報センター)に掲載された、内藤朝雄さんとノンフィクションライターの藤井誠二さんとの対談です。神戸少年事件から 学校の市民社会化を考える(上)の続きです。


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「神戸少年事件から 学校の市民社会化を考える(下)」


藤井 「教職員組合の講演に呼ばれるときに、今の子どもたちが見えなくなったと教師たちが言うんです。だから、藤井さん、話してくれって言う。でも、「見えない」状態ってある意味では、いいことじゃないかと思うんです。見えなくなっていいじゃないかと。先生たちっていうのは、なんで学校の外までみようとするのか。」

内藤 「「こころ」を見ようとするんだよね。」

藤井 「別に見えなくなって当然なんですよ。子どもは本当にいろいろな側面をもっていて、それは大人でも同じなんだけど、その人間のすべての行動を把握・監視していようなんて、どだい無理な話しだし、やっちゃいけないこと。でも、「良き先生」「理解ある先生」であればあるほど、子どもにとっての第四空間まで一生懸命のぞき込もうとする傾向がある。それが余計なお世話であってもね。」

内藤 「ぼくが、藤井さんの私生活が見えないといって悩んだりしたら、それはストーカーなわけでね。」

藤井 「そしたら、頭狂います。それで言えば、今の先生たちで、おかしくなる寸前の人っていっぱいいるなって感じがする。だから、地獄の何丁目かはわからないけれども、とりあえず保健室しかないっていうことです。でも、保健室を意図的に「逃げ場」にしていこうって教師が言い出した途端、子どもは保健室に行かなくなる。」

内藤 「そう、逃げちゃいますね。」

藤井 「それは自明です。」

内藤 「どこから逃げるのか、というのが問題です。それは、「こころ」が焦点化され、「こころ」の「まじわり」がそのまま秩序化の原理となり、互いの「こころ」に対する反応が互いの運命に即座に響いてくるような、「こころ」の空間から逃げるということです。
原理的に考えてみましょう。秩序原理にはさまざまなものがあります。市民社会の秩序では、普遍的なルールが守られていれば「こころ」や「きもち」は問題になりません。このおかげで、各人の「こころ」や「きもち」は、保身や生存のための集団心理-利害闘争に埋め込まれない自由を獲得します。各人が安心して、各人なりの仕方で美しく生きるスタイルを追求することが可能になるのは、このありがたい負担免除のおかげです。
それに対して、学校の共同体的秩序原理は、「まじわり」「つながり」あう各人の「こころ」や「きもち」をあげつらい、問題化することの積み重ねを、秩序化の基底として埋め込んでいます。各人の「こころ」が動き合うことがそのまま秩序化の装置となるのですから、当然、「まじわり」「つながり」と離反するような個の「こころ」の自由は絶対に許されません。学校では、同じ地域に住んでいるだけのあかの他人同士が、普遍的なルールではなく、「こころ」や「きもち」の「まじわり」で自治的な空間をつくれ!と無理強いされるわけです。学校が極度に生きがたい場所になってしまったのは、このような秩序化の原理の随伴的効果です。「こころ」を秩序化の原理とした学校コミューン主義の生活空間では、いつも他人から「こころ」をあげつらわれ、互いの「こころ」を過度に気にし、不安な気分で同調しなければなりません。普遍的なルールではなく、「こころ」や「きもち」に準拠してクレイムをつける場合、攻撃する側は、気に食わない者に対して攻撃点をどこにでも見いだすことができます。「こころ」や「きもち」はどうとでも言えますから、集団心理-利害闘争のリアリティ構築能力がものをいうわけです。それに対して攻撃される側は、あらゆる生活空間がいつ足をすくわれるかわからないポイントになってしまいます。あらゆる方向から、「こころ」のサインを見られているような不安。自分の「こころ」に反応する他人の気まぐれによって、自分の運命がどう転ぶかわからない不安。他人がどういう悪意をもつかわからない不安。こういったものが学校の不安です。いじめと内申書が、このような不安が目に見える形で現れる露呈点となっていすが、根本的な問題は秩序原理そのものにあるのです。
「こころ」を秩序化の装置に流用する学校空間に、セラピストあるいはカウンセラーを埋め込んで「こころ」をいじくりまわすのは非常に危険です。セラピストは、一部の人は非情に有能だけど、それが大衆化すると、学校組織に対する忠誠競争にかられた量産セラピストが悪いことをする危険性があります。非常勤などで身分が不安定なカウンセラーを「現場が評価」するなんてことになると、学校関係の有力者たちに忠誠を示さなければならないカウンセラーは、学校にとって不都合な者を、「こころ」の異常者にしたてあげる装置になりかねません。「こころ」の専門家は、あらゆる事柄を「こころ」の問題にずらす術にも長けていますから、「こころ」を秩序化の原理とする学校コミューン主義をさらに強化することにつながりかねません。」

藤井 「セラピストやカウンセラーを学校に置くことについては、さきほどの地獄の何丁目論と同じで、置かないよりは置いたほうがましかなと思っています。もちろん、まともなセラピストという条件がありますが。セラピストの条件というのは、子どものプライバシーを100パーセント守るってことですね。でも、そのプライバシーを教師がのぞき込もうとするんです。教師がセラピストを学校に置くことに反対する主な理由は、相談したいことがあるなら、なんでおれのところに来ないで、セラピストのところに行くのかという、嫉妬の念にかられて、自分をコントロールできなくなるからなんです。教師は生徒の利害関係を握っているのだから、子どもが教師に見せない顔を利害関係のない第三者に見せるなんて当たり前であるという、当たり前の感覚が先生たちはわからない。カウンセラーが子どものプライバシーを教員と「共有」しないのは、「指導」の障害になるという、とらえ方なんです。」

内藤 「ぼくは、学校のカウンセラーに関しては、もっと恐ろしいことが起こる可能性を考えています。『1948年』(ジョージ・オーウェル)の「心理省」ができてしまう可能性です。文部省、教育委員会、校長ラインにセラピストを置くと、ソ連の精神病院みたいになって、反学校的な人とか、学校の雰囲気に合わない人を「こころの異常者」に仕立て上げるかもしれません。ソ連では体制に合わない人を精神病者にしてましたよね。その巧妙な言葉っていうのを、精神医学から借りてきたわけです。医学系のレッテルのはり方とか、カテゴリーの付け方って、使い方によっては恐ろしいんですよ。」

藤井 「おっしゃるような展開は、十分予想できるんですが、カウンセラーを学校のなかに入れたくないという教師たちの考え方の根っこには、「学級王国主義」や「学校王国主義」があると思います。教師(担任)という王様がいて、生徒という大勢の家来がいる。校長を王様ととらえている人もいますが…。教師という王様が自分の「王国」をすべて、すみずみまで統治・管理するべきだという思想です。一人の教師で王国のすべて(子どもの内面や人間関係)に対応できるとも思い込んでいる。これは、「教師万能主義」といえるでしょう。その万能感や全能感は本当は幻想なんです。それは、内藤さんがおっしゃっている「学校生命体」論につながっていると思うのです。
これでけ、学校のなかでさまざまな問題が起きているのに、教師と子どもと親のトライアングルだけで何とかなるんだとい考え方が根強い。カウンセラーを是認していくと、資格化社会を助長していくとか、アメリカのように「言語カウンセラー」といった専門分化された人が、子どもと「話す」ことが理想とされるような状況を危惧するというような意見も理解はできるのですが、とにかう学校に「異物」を入れることに、拒否感が強すぎる気がします。でも、カウンセラー導入に反対している人びとにも、「カウンセラー的」な人の導入ならいいと言う人もいます。もちろん、ぼくだって文部省がおしつけてくるような「学校の論理」で子どもと接するようなカウンセラー導入には反対です。学校の利益を代弁するようなカウンセラーは、学校や教員に問題があると思われるケースも、その子ども個人の問題として責任を子どもの側に押しつけてしまいかねませんよ。たしかにそうなったら「心理省」になってしまう。
埼玉県で全小中学校にカウンセラーを置くために、地域から募集しようというのがあるのですが、そのなかには、地域のなかで登校拒否の問題をやっている親の会の人とか、弁護士とか、そういう一般の人がどんどん学校のなかに入っていってます。みんな「カウンセラー的」な人びとです。しかし逆に、地域のなかで、ボス的な人間が入ってくる可能性もある。例えば、地域一帯が、特定の宗教が強い場合だってあるから、その宗教団体の頭が入っていったりとか。そういうことも考えられる。」

内藤 「ある局面で、それなりにプラス・マイナスだとプラスにいくかなということがあっても、局面が変わって、予期せぬような仕方に流れていくことがあります。その予期せぬ仕方を前もって考えたほうがいいと思うんですよ。やはり、現在の体質で、学校カウンセラーを導入して、それが学校コミューン主義と一体化すると、本当に『1984年』の「心理省」になってしまいます。学校コミューン主義に同調してくれない邪魔な生徒を心の襞のすみずみまで勝手に評価して、おまえは人とまじわれない人間だとか、おまえは人間関係を物のように考えているとか、「こころ」の障害だとかね。「先生に逆らった」っていう言い方だと、レッテルとしては「先生に逆らった」生徒というだけ。それが「学校心理省」のやり方でやると、「こころ」の異常だということになります。そうすると「こころ」を良くする施設に入れようかということになるかもしれません。紆余曲折を経て最初の段階とは似ても似つかぬものに転化するということはよくあることです。最初は異物として風穴をあけるはたらきをしていたのが、学校組織-共同体の忠実な部品として同化してしまったときに、恐ろしいことが起こるんです。
「こころ」を問題にすることが同時に秩序を維持する営為でもあるという、そういう秩序原理が中間集団で一人ひとりを圧迫する体質が強いところで、学校カウンセラーを入れるのは危険です。その後に局面が変わったら『1984年』の「心理省」になるかもしれない。そんな危険なことは最初からやらないほうがいいと思います。各人の「こころ」のあり方・動き方をそのまま秩序化に流用するという秩序原理のところでは、学校カウンセラーはきわめて危険です。「こころ」とは別の普遍的なルールが秩序化の主装置である社会状態では、学校カウンセラーは人畜無害な福祉サービスなんですけどね。もし学校カウンセラーを入れるとすれば、それは学校コミューン主義を廃棄した後でなければならない。この順序をまちがえると恐ろしいことが起こりかねません。」

藤井 「学校コミューン主義とカウンセラーの一体化を危惧して、現場の教師たちが、カウンセラー制度導入反対と言っていることはないと思います。ところで、内藤さんがお書きになったなかで、市民社会の論理は、相互に他人であることを前提とするということになっていて、「こころ」ではなく、法律などの普遍的ルールによって裁かれたり、問題にされたりする。それは、私的な領域でのことは他人の領域を侵害しないかぎり、問題にされない。これが市民社会のルールであり、「近代」のルールのルールなんですね。要するに、極端に言えば、他人に迷惑をかけなければいいということでしょうか。」

内藤 「例えば、髪の毛を金髪に染めた人がいて、近所のおじさんが不快に思ったとしたら、他人が不快に思うようなことをしてはいけないということになってしまうから、「実害がなければいい」ということです。」

藤井 「「実害」ですね。この論理というのは、すごく大事なことだと思っていて、援助交際の問題は基本的に誰にも迷惑をかけていないわけです。でも、それを良くないと思う人たちは、親に迷惑をかけるじゃないか、親を悲しませるじゃないかとか、当人が傷ついているのをわからないのか、と言う。そういう論理をもってきて、それはやめなさいとなる。裏を返せば道徳ですね。そういう道徳があるからいけないんだ、と。学校という空間は、他人に実害を与えないかぎり、その人個人の領域である、自由の自己決定の領域であるというようなことを決して認めないでしょう。」

内藤 「「こころ」の調和に対して違和を差し挟むのは、人殺しや泥棒よりも悪い、と意識しないで実感している人たちが多いんですよ。」

藤井 「内藤さんの論文(『Ronza』97年、9・10合併号「14歳の凶悪犯罪は驚愕すべきことか」、朝日新聞社)の全体のトーンとしてあるのは、他人に実害を与えないかぎり、自己決定のなかで意思決定をしていくという当たり前の市民社会の原理を学校のなかに入れていこうということですよね。」

内藤 「ところでテレクラや援助交際をめぐる議論を聞いていると、公的な規則のレベルと私的なコミュニケーションのレベルっていうのを、混同している人たちが多いですね。例えば、多くの人たちは援助交際について公的な規制をしないことは、人々がプライベートなレベルでどんどん援助交際を認めるようになることだと思っています。娘の援助交際にお父さんがショックを受けて、必死になってやめさせるといったことと、公的な規制とはまったく別の次元なんですけどね。」

藤井 「そう。有害コミックの規制の問題のときにも感じたんですが、子どもをセックスの対象にした、セックスのモデルにしたマンガを、子どもに見せられるかというものなんです。それは混同なんです。公的なものと、私的なものと。「見せられるか」って思う大人は、自分の子どもに見せられるかっていうのと、社会の子どもに見せられるかっていうのとまったく混同してしまっていて、ファシズムになっている。ぼくは自分の子どもに見せたくないと思えば、それはそれでいいじゃないのか。それは勝手にやってくれと。だけど、「こんなもの見せられるか」って言うとき、世の中全体の子どもを指してしまうわけですね。その人のなかでは、極端に入れ替わってしまうわけです、自分のなかで。」

内藤 「援助交際を規制しろと言っている人は、家族を大事にしているつもりでいるんだろうけど、じつは逆なんですね。援助交際に関して、公的な規制と私的なコミュニケーションを混同するっていうのは、逆に家族が弱い、家族の領域と公的規制の領域との分化が弱いんです。これは昔から変わらなくて、戦前の家族なんかだと左翼になった息子を親が警察に密告するとか、ありました。暴行傷害犯の学校教員を警察に通報してはいけないのに、左翼になった息子を警察に売るのは当たり前というのは、めちゃくちゃですね。こんなのは、家族が植民地化されているわけですよ。戦前には、子どもを叱るのに「警察」で脅すやり方がありましたね。こういう人たちはまだ家族の絆が「世間」と独立していないんでしょう。本当に家族を大切にしているというのなら、私的領域の独立性を大事にしてほしいですね。」

藤井 「おっしゃるとおりで、和歌山県田辺市で、有害コミックス規制運動が1990年に始まっているわけですけど、何十年かぶりに、その中年女性たちは小学館とか、講談社集英社から出ているマンガを見たわけです。それを見て、「これはとんでもない。警察に行こう」と、まず警察に言ってしまったっていう発想が、まさにそのお話ですね。普通なら、版元に文句を言ってみようとか、本屋に文句を言ってみようってなるはずが、そうはならないところが(ママ)、脆弱を超えて、家族というものが体をなしていない状態ですね。」

内藤 「家族が学校の植民地になって、「ぞうきんを縫え」とか「うんちをしてきたか」などの学校から指令されたものを家族がやるとかね。公的なレベルと私的なレベルを峻別できないことが、私的な関係の独立性が弱いことを暴露しています。
ところで、市民社会の論理、そしてリベラリズムは「美しい良い生」を軽く見てるんじゃないですよ。美しい良い生というのを、非常に大切なものと見るからこそ、何が美しい良い生であるかということに、組織や公権力が介入してはいけないと考えるんです。というのは、人間にはいろんな人がいて、個別の当事者にとってはこの植えなく良く美しい生のスタイルは、さまざまにあるからです。例えば、Aタイプの美しい良い生の追求、Bタイプの美しい良い生の追求、Cタイプの美しい良い生の追求っていうのが複数あるわけですよね。これは逆に言うと、Aタイプの人にはBタイプは不幸であり、Cタイプの人にはDタイプは反吐が出るほど醜く、Eタイプの人にはFタイプは退屈極まりない、といったことにもなります。至高の価値が多元的に並立するとは、そういうことです。それで、もし、国家とか地域とか職場とか学校とか、人びとが生活を維持するために否が応でも所属しなきゃいけないところで、Aタイプが美しい良い生であると決めつけられちゃったとしますよね。そうすると、Bタイプ、Cタイプ、Dタイプ、Eタイプ、Fタイプの人たちは、日々、魂を踏みにじられながら生活するか、精神的な売春をして暮らさなければいけなくなります。彼らの生は破壊されてしまうわけですよね。しかもこのような価値の王制では、ヘゲモニーをとるためのAタイプ、Bタイプ、Cタイプ、Dタイプ、Eタイプ、Fタイプの生態学的なたたかいは、強者-弱者の位置によって結果が決まる、強制-服従や迫害を主要メディアとする殲滅戦になってしまいます。このような殲滅戦では、往々にして、人々を幸福にしない悪化が良貨を駆逐します。
それに対してリベラルな空間では、人びとが美しく良く生きようとする個別の自己決定による試行錯誤のなかで、幸福や善をもたらすと感じられるものが生態学的に生き残り進化していきます。そこでは、淘汰のメディアは魅力です。各人がそれぞれの美しく良い生を追求しながらその追求の過程で成長していくためには、むしろリベラリズムが必要なんです。各人がそれぞれにとっての最適な生を追求することを可能にするために、生活のために否が応でも所属しなければならない国家や地域や職場や学校では、何が良い美しい生であるかを決めてはならないのです。別の生の様式が自分たちにとっては醜悪に感じられるというだけの理由では、他人の行動に制限や攻撃を加えてはならないのです。
リベラリズムに対する誤解は、「おまえたちリベラリストは、善や美しい関係を無視して、アトムのような、原子のような個人だけで自信をもって生きていけると考えているのだろう。だけど、おれたち、コミュニタリアン共同体主義者は、人と人とが美しい仕方で交わることを生きる根底としているんだ」というものです。リベラリズムはこういうふうに批判されてきたわけだけど、それは大間違いです。各人がそれぞれ美しい生や絆を生きるためにこそ、リベラルな社会空間が必要なのです。
それに対して、共同体主義こそが、集団ごとに一元化することが不可能な価値の多元性を無視して、各人にグループ指定の価値を無理強いする結果、人々の生をみじめで醜悪なものにしてしまいます。こういうことを、声を大にして言わなければならないと思うんですよ。」

藤井 「今のお話を聞いて、酒鬼薔薇事件に引き寄せて考えると、僕は須磨区という街のことをよく連想するんですよ。あの街というのは、いわゆるニュータウンで、ある一定の高いレベルの所得層が集まっていて(住人の親の三分の二が一部上場企業)、友が丘中学は非常に高い進学率を誇る、あの地域一帯が友が丘中学を中心とした、お受験タウンなわけです。街のなかには子どもを健全育成しよう、というような標語があちこちにはってあって、幼女が襲われた頃から標語がまた増えていく。街全体が、子どもを健全に育てていこうというようなスローガンに溢れる街だったんですね。あの街で暮らす親というのは、子どもをいい学校から、いい大学にあげて、いい会社に入れていこうというような目標があるわけで、その目標があるから「東大通り」とか「灘高通り」っていうのがある気持ち悪い街なわけですよ。まさに、そういう意味での「コミュニタリアンの街」だといえると思います。」

内藤 「人間の学習に対する動機づけとしては、各人が良き生を生きる追求とリンクするような仕方で、さまざまな選択肢(ライフチャンス)を用意しておく。それは、学歴社会よりは資格社会のほうがいいですね。自動車教習所で車の免許を取るみたいに、自分が良く生きるために、ひとつひとつの資格を努力して取るわけです。そのことで、時給が500円上がったとか、そういう形で学習が動機づけられたほうが、いいと思いますね。
しかももう一つ、義務教育っていうときに、義務教育をすべて無くせっていうのは、やはり極論です。そうではなくて、義務教育は必要なものだけに縮小すべきなんですよ。リンカーンのお父さんは、字が読めなかったばかりに、詐欺にあってひどい目に遭いましたね。義務教育の範囲は、読み書きの習得、お金の計算、基本的な法律の三つです。それだけに絞るわけですよ。学校のカリキュラムに法律がないっていうのは、実は変な話です。基本的な法律はちゃんと覚えさせる必要があります。
音楽とか、家庭科とか、スポーツとか、文学鑑賞とか、そういう享受するものを強制的にやらされるっていうのは、恐ろしい話です。モーツアルト宮沢賢治をちゃんと味わえるように宿題を出したりテストをしたりして、できなかったら立たせたり叱り付けたりするなんて、狂気のさたです。分化の享受を義務教育でやるというのが倒錯しているのです。」

藤井 「憲法に定められた義務教育は、親が子どもに学校に行かせる義務があるというわけだけであって、当人がいかなければならない義務はなくて、権利はありますといっていることなんです。不登校を文部省が公認したので、義務教育というものが、意味をなさなくなり、情報化社会になったもんだから、学校に行かなくたって勉強はできる。それこそ一人だって勉強はできる。インターネットを使ったって勉強はできる。それこそ友だちもできたりする。そういう時代においても、今の義務教育のあり方っていうのは、完全に意味をなさなくなった。
その流れで、学校改革案を言うと、ホームエデュケーションみたいなものを義務教育の範疇のなかで広げていくことが割とやりやすいんじゃにあかなと思います。大きな制度をいじらなくても、できることがあると思う。中学に一日も行かなくても、卒業証書がもらえることがこれだけ知れわたったのだから、ホームエデュケーションに市民権がもっと出てくるでしょう。
そして、大きく制度を変革して、アメリカやイギリスのように「家で勉強する」ということを単位として認めていく。そういうことを行政に認めさせていくんです。そうなると、どんどん中学卒業という意味はなくなっていく。ゆくゆくは高校もそうなっていく方向がいいと思う。
私は家で学ぶ、私は通信で学ぶ、私はインターネットで学ぶ、私は学校に行って学ぶ。あるいはそれを併用する。あるいは三つ取るってこともできるような、カリキュラムではなくて、学び方・方法論そのものの選択肢を広げるっていうことが重要だと思う。また、今のように登校拒否が増えると、学校に行かない理由も、別に、いじめられて学校に行かない子もいれば、最初から学校に行かない子もいるし、別に学校で友だちなんかいらないよって学校に行かない子もいるわけだし、否の理由も多様化してきましたよね。多様化、細分化してきたわけだから、ホームエデュケーションに市民権を与えて、それを制度的にも確立させていけばいいのではないでしょうか。」

内藤 「自己決定によって、多元的なものから選び、いつでも変更できることがたいせつですね。義務教育の話でいうと、親が子どもを学校に行かせなきゃいけないというのは、国と親との関係ですよね。で、親が子どもに強制しなきゃいけないわけだから、子どもにとっては実質的に強制なんですね。そのときに、何を実質的に強制するかということで、本当に生きていくのに必要なものだけに絞り込む必要があります。
強制しなきゃいけないこともあるんだという条件で、何をどういうふうに強制するかっていうことに関して言うと、子どもを学校に行かせることを親に強制するのではなくて、習得認定試験を受けに行かせることを親に強制するシステムのほうがいいと思います。それは本当に必要な読み書きと算数と法律の習得認定試験ですね。まず最初の段階では、その試験を子どもに受けさせることは強制である。それに対して、どういう仕方で勉強しても構わない。ただし、何回も何回も落ちつづけた場合には、どこかに行かせて勉強させなきゃいけない。その試験が終了したら、義務教育はおしまい。こういう制度を、ぼくは提案します。さらに講習会部門と習得認定部門とを分割することは、とても重要です。教員が非常に押しつけがましくて、若い人たちに対して酷いことをやるのは、おれがおまえのことを計るんだというようなことがあって、しかも、日々教えて接しているという二つの条件が重なっているからです。この二つの条件がそろうと、教員は神のように生徒の生殺与奪権を握ることになります。これがいけないんですよ。学力認定は、随時役所で、面識のない試験管がやることにすればいいんです。」

藤井 「顔が見えない関係って、すごくいいと思うんですよね。とくに試験は「べたべた」関係で行うべきではありません。
顔がべたべたべたべた見える関係で、子どもたちを何とかしていかなければいけない発想というのは、最近のものだと思うんですよ。そういう発想が教師たちのなかに決定的にかつ「美しく」染み付いたのは、ぼくは、校内暴力の時代だと思うんです。あの頃、ツッパリたちがいっぱいいて、暴走族をやったり、教師を殴ったり、窓ガラスを割ったりした。でも、ツッパリたちは、学校が好きで、むしろ、べたべたした師弟関係みたいなものを求めて、授業には出ないけれども、学校のなかではたむろしていたというような光景がありましたよね。そのなかに、ものわかりのいい、ちょっと兄貴格の教師がいたりして、ツッパリを家に呼んで勉強を教えたり、学校の空いている教室に呼んで話をしたりして、「学校に来いよ、おまえたち」と、金八先生的な接し方をしたんが子どもたちにうけたんですよね。「あの先生は、おれたちのことをわかってくれるぜ」と。そういうロマン主義みたいなものが、学校のなかで一定力をもって、実践してきた先生たちがいっぱいいたわけです。」

内藤 「教育評論家は、才能がある人にしかできないことをみんながやればよくなる、っていう内容のことをよく言います」

藤井 「そうなんです。結局、教師の力量論になっちゃったんです。バンカラ気質をもって、腕力もあり、どっかで不良性をもったような先生たちだけが、いわゆる問題児を相手にできた。」

内藤 「しかも、才能ある人の人口比率がどのくらいかっていうと、それも、かなり疑わしい話です。さらに、今言った人たちって、金八先生気取りで半分は暴力団、ヤクザ、チンピラで、ぼくぼこに殴ったりしているんじゃないでしょうか。それと同時に、インテリ的なメンタリティで無力な「民主的」な人たちというのが、路傍の石みたいに分布しているわけですよ。彼らがなぜそんなに無力なのかっていうと、暴力や威力業務妨害に対して警察を呼べないからです。「民主的」な先生たちも、皮肉なことに学校は治外法権だと思っている。」

藤井 「金八先生が殴っていたっていうのは事実で、そういうことをやるから、生徒たちは「あの先生はおれたちのことをわかってくれた。だから殴ってくれたんだ」「殴ってくれる先生ほど愛があるんだ」というふうに勘違いして、その論理が説得力をもってしまい、暴力型金八先生に自信を与えてしまったんです。そういう子どもへの接し方が、今でも力をもってると思っていて、そういうやり方をすれば、問題児なり問題行動を起こす生徒というのはなんとかなるんだというような発想が学校にはあるんです。ということは、当時のやり方というのは、すごく反市民社会的なやり方だったわけですね。その子どもたちだけをなんとかうまくコントロールして、手綱を付けておいて、手綱を引けば、なんとか学校の秩序を維持できるということだったんですね。荒れるものを多少荒れないようにしておこうという方法だけであって、根本的な改革にはほとんどならなかったのではないでしょうか。」

内藤 「システムのなかの部分の振る舞いしかみんな見えなくて、システムそのものを評価する視点がないんですよね。とくに、現場の論理で生きている人は、部分はよく見ているのに、システム全体は全然見えない。システムそのものを、部族抗争タイプから、市民社会タイプに変えるとどうなるかということを、現場の人も考えるといいと思います。市民社会タイプにすると、部族抗争タイプに比べて、やっぱり、暴力はうんと減ると思うんですよ。」

藤井 「校内暴力で荒れる生徒の原因の一部がシステムにあったりするわけなんですけど、荒れる生徒たちを腕力の強い、兄貴肌の金八的な人が押え込むというのは、考えてみれば、暴対法ができる前の暴力団とマル暴の刑事が仲良くして押え込んで、とりあえず沈静化させていくという行動と似ているきがします。いわゆる本来的な市民社会のルールがないところで片付けておこうという発想ですね。」

内藤 「ところで、若い人たちのストレスという言葉を使うときに、二つのストレスを分けて考える必要があります。一つは何かつらいことがあって、それに対して緊張すること。もう一つは、悲惨な状況のなかで、誰がなぜ憎いのかすらわからなくなって、何かわけわからないけどむかついてしょうがないとか、そういうストレスですね。誰のことを自分が好きなのか嫌いなのかが自分でもわからなくなってしまって、30分前には仲良くしていた人が、みんなからなんとなく浮き上がった瞬間に、いじめの急先鋒になってしまうとかね。
こんな事例があります。ある美形の女の子が、女の子仲間から妬まれた。で、女の子の場合、男の子に頼む「お願いいじめ」っていうのがあってね。男の子に髪の毛をはさみでばっさり切られちゃったんですね。それをやったのが、なんとその子と付き合っている彼氏だったというのね。ほとんど個と個の実体的な信頼関係がなくて、まさに人間は諸関係のアンサンブルであるといった、とんでもないことになっているわけ。で、そういう仕方の壊れ方っていうのは、あれやこれやのストレスそのものを感じたり枠づけたり処理したりするシステムそのものがぶっ壊れているわけです。まさに、学校に収容されて若い市民たちがぶっ壊れるわけです。これが、もう一つのタイプの、深いストレスです。
保守系の人たちの批判で部分的に正しいのは「進歩的な人たちは子どものありとあらゆるストレスを救ってやらなきゃいけないと言っているようなものだ」というものです。ストレスには多種多様なものがあるんですよ。ストレスと言うときは、社会問題として取り上げるべき、これこれこういうタイプの危険なストレスが、学校のこういう構造から生じている、という言い方をすべきだと思います。」

藤井 「そうですね。学校生活から、どんなストレスが生じるかっていうことを、まず分析しないといけませんね。70年代〜80年代に「学校」を生きてきたわれわれにとっては、学校を変革するためにはロマン主義も理想主義もいらない、というのが実感ですね。」

内藤 「それから最後に提案をします。
第二次成長から18歳ぐらいまでの人びとを「こども」と呼ぶのをやめましょう。そうではなくて、彼らのことを「若葉マークの市民」と呼ぶことにしましょう。このことは、これまでの対話を聞いてくださった読者にはわかっていただけるでしょう。
今まで「体罰」と呼ばれていたことを、「教員による暴行」とか、「教員による傷害」と呼ぶことにしましょう。「体罰」というカテゴリーは、リアリティを変造する隠微な政治に組み込まれています。「体罰」というカテゴリーで現実を切り取るとき、被害者側になんらかの「罪」があり、それに対する「罰」を加えた、という意味が暗黙の内に生じてしまいます。そして、「教育的な罰」の手段が「はたして相応しいものであったか?」という教育問題へと、問題を横滑りさせてしまいます。こうして、暴力に対して人権を守る正義の問題が、教育問題によって骨抜きにされてしまうのです。福岡県飯塚市の近大付属女子高で教師が憎悪の爆発によって生徒を殺したケースでも、被害者を悪しざまに罵りつつ、不幸な結果になってしまったけど「体罰」自体は正しいものだったと考える地元住民が多かったのには、大いに驚きました。これについては、ぜひ藤井さんの近著(藤井誠二、『暴力の学校・倒錯の街』雲母書房)をお読みになればと思います。
私は「いじめ」についてのインタビューを行っています。ひどい「いじめ」を経験したり目撃したりなさっている方は、ご連絡ください。特に、「いじめは楽しい。いじめは悪くない。きれいごとを言うやつはムカツク」といった気分を現在進行形で生きている「若葉マークの市民」の方々の話を聞きたいと思っております。そのような方々を身近に知っている型は、ぜひ私に紹介してください。なお、インタビュー相手に対しては説教や批判を一切せず、ひたすら「その人たちなりの世界のなりたち」を理解しようと努めるのが、私の流儀です。


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