『いまどき』をいじくることのむなしさ−−マスメディアに煽られた思い込みの系譜−−

『月刊少年育成』という雑誌から、「いまどきの『むなしさ』」というお題をふられて書いた文章。『「ニート」って言うな!』第二部では、酒鬼薔薇聖斗あたりから話を進めたが、それ以前の流れについて書いた。これをあわせて、戦後の流れの、ジグゾーパズルのピースがそろう。十代や二〇代の人には、「三無主義」とか「新人類」とか、言葉の意味がわからないだろうと思われるので、解説をつけておこう。

デジタル大辞泉より)
アプレゲール: 戦後派。特に第二次大戦後、従来の思想・道徳に拘束されずに行動する若い人々。
太陽族: 昭和30年(1955)石原慎太郎の小説「太陽の季節」から生まれた流行語。既成の秩序を無視して、無軌道な行動をする若者たちをいった。
三無主義: 無気力・無関心・無責任の若者気質をさした後。昭和45年(1970)ごろから使われた。
新人類: 従来なかった考え方や感じ方をする若い世代を、新しく現れた人類とみなしていう語。昭和60年代ごろから広まった。


***
「『いまどき』をいじくることのむなしさ−−マスメディアに煽られた思い込みの系譜−−」


1・いまどきのむなしさを論じるむなしさ
「いまどきのむなしさ」、という特集であるが、 (1)いまどきの、(2)むなしさ、というふたつの言葉にひっかかった。「むなしさ」について、編集サイドからは、「ライト感覚のニヒリズム」というヒントをいただいた。「いまどきの」と言うときには、過去との比較が必要となる。「むなしさ」は多義的な日常語なので、過去と現在を比較するさい、「むなしさ」という語で指し示す内容を輪郭づける必要がある。広辞苑がなにほどのものかとも思うが、とりあえず「むなしい」という語を広辞苑(第五版)で引くと、次のとおり。

(1) 中に物がない。からである。
(2) 内容がない。充実していない。
(3) 事実がない。あとかたがない。
(4) はかない。かりそめである。
(5) この世にいない。死んだ。
(6) 無益である。むだである。かいがない。
(7) 欲がない。恬淡(てんたん)である。


このような感覚はいつの時代でも、いろいろな人々が抱いてきた。その抱き方の量や質が過去に比べてどうなったと断言することは、社会学的にはむずかしい。少なくとも、現時点で以前に比べて若者がこういう傾向を帯びるようになったとは言いがたい。また現時点で、過去には見いだされなかったような特異な「むなしさ」のあり方が拡大しつつあるとは、とうてい考えられない。


2・青少年ネガティヴ・イメージの凶悪系となさけな系
わたしは今年の1月に刊行された『「ニート」っていうな!』という本の中で次のようなことを書いた。マス・メディアが青少年のネガティヴなイメージを煽る。大衆は青少年に不気味なイメージを抱き、青少年を不安と憎悪のはけ口にする。それを政治が利用して普段なら通りそうもないような危険な政策や法案を通そうとする。青少年ネガティヴ・キャンペーンは、マス・メディアのイメージ商品に導かれる。「アプレゲール」、「太陽族」、「ゲバ学生」、「三無主義」、「新人類」、「なぜ人を殺してはいけないかわからない少年」、「キレる○○歳」、「パラサイト」、「ひきこもり」、「ニート」、といったものが、そのうちのヒット商品である。このようなヒット商品は、先行ヒット商品のイメージに上乗せするしかたで一定期間流行する。そしてまた新しいヒット商品が、前時点のイメージ商品の祭りの残照に接続して流行する。この繰り返しである。


短期間流行して忘れ去られる「アプレゲール」や「太陽族」や「ニート」といったイメージ商品は、比較的長期間使い回しされるいいがかり資源を組み合わせてできあがっている。このいいがかり資源は、凶悪系となさけな系のイメージを生む用途に使われる。たとえば、同じ「本来の自然からはなれてヴァーチャルになる」といったいいがかり資源が、凶悪系となさけな系の両方に使われることもある。(本田由紀内藤朝雄後藤和智、『「ニート」って言うな!』、光文社新書


3・「むなしさ」関連のネガティヴ・イメージ商品の流れ
以下で、凶悪系となさけな系の色彩を考えながら、青少年に対するネガティヴ・イメージの変遷を追っていこう。マス・メディアによって、発信され、人々に信じ込まれたその時々の青少年イメージが、当時の青少年の実態と一致していたとは思えないが、そのようなマス・メディアに煽られた思いこみの系譜をたどることには意味がある。戦後すぐから、アプレゲール太陽族など、青少年の軽佻浮薄や有害性をあげつらう(軽佻浮薄で有害な)キャッチフレーズがマス・メディアによって売られ続けた。何か事件が報道されると、それを発句にして青少年についてのキャッチーな論評ビジネスがにぎわう。


学生運動の季節が退潮した後の時代に、マス・メディアを通じて「しらけ」とか「三無主義」というレッテルが青少年に貼られた。実際に大多数の青少年がこのようなレッテルが示す「むなしさ」に浸されていたどうかはきわめて疑わしいが、その報道や論評の量から、多くの人々が青少年のことをそのようなイメージで語ったであろうと推測される。実際には学生運動に情熱を傾けた青少年の割合は、「文化人」が思い込んでいるよりも少ないであろう。国会前でデモをしている人もいれば、野球を観戦している人もいるというリアリスト岸信介のコメントの方が、わけのわからない文化直観をこねまわす評論家よりも正解に近いであろう。


たかが学生運動が退潮したぐらいで、中卒・高卒・大卒を含めて青少年全般が平均的に、そんなに落胆したと思えない。だが、学生運動を憎むにせよ称賛するにせよ、学生運動を若者の情熱の象徴として体感する「文化人」は、その退潮を「しらけ」「三無主義」を短絡させる。ここで、ゲバ棒をふるい「革命」のカオスを噴出させる凶悪系のイメージが、「しらけ」「三無主義」のなさけな系のイメージにチェンジした。この後、酒鬼薔薇聖斗ターンまで、なさけな系優位の青少年ネガティヴ・イメージが売られることになる。


80年代にバブルの時代に入ると、青少年のイメージがさらになさけな系一辺倒になる。メディアはゼネコンと共に「なんとなくクリスタル」の様式で国土をデコレートしはじめる。ポストモダン建築家が設計した田舎の建物がテレクラの待ち合わせ場所になった(宮台真司)。軽佻浮薄な「新人類」というのが、当時の青少年に対する呼び名だった。メディアを通して人々が青少年に抱いたイメージを一言で言えば、ちゃらちゃらした(ちゃらい)ライト感覚のニヒリズムである。


このライト感覚のニヒリズムは、九鬼周三が江戸時代の遊郭の文化に見出そうとした『いきの構造』と形態的に同一であることが興味深い。『いきの構造』と『なんとなくクリスタル』を重ね合わせてみよ。『いきの構造』から論理形式を抽出し、それに当時のファッション・アイテムで肉付けするという作業を行ったとすれば、当時の田中康夫青年は冴えている。


もちろん江戸時代の遊郭で働いていた人々が『いきの構造』通りだったわけでもないだろうし、バブルの時代の若者が『なんとなくクリスタル』通りであったとは思えない。あえて『巨人の星』を比喩に使えば、いっしょうけんめい花形満のまねをする左門豊作のような大学生が、時給800円でバイトをして数万円のブランド品をプレゼントするが、何の成果もなし、といったところが実情ではなかっただろうか。生活の実相は美学的な作品に比して、嫌になるほどいじましいものである。ちなみに、宮台真司氏や浅野智彦氏のような、現在最も優れた若者文化研究者が青年期を過ごしたのがバブルの時代であったことは興味深い。


この時代のなさけな系イメージには、酒鬼薔薇聖斗ターン以降「ニート」バッシングに至るなさけな系イメージの憎々しげで強迫的で、そして政治キャンペーン的な色彩は薄い。80年代半ばから、これまでの青少年ネガティヴ・イメージとは別のイメージが、いじめの問題化によって盛り上がってきた。いじめに関しては、青少年に否定的な意識が向かうよりも、日本社会やその縮図としての学校のいきぐるしさ歪んだ姿が青少年に現れたというふうにとらえる傾向が大きかった。社会が帰責の対象になる傾向が強かった。


バブルが崩壊し、しばらくの空白の後、1997年に酒鬼薔薇聖斗と名のる少年が近所の少年を殺して頭部を切断し、それに加工を施したうえ、学校の校門に晒す事件が起きた。マス・メディアはこの事件を極端なまでに集中的に報道し、日本中が「酒鬼薔薇祭り」に沸き立った。と同時に、いじめに向かう大衆の問題関心はしぼんでいった。この酒鬼薔薇祭り以降現在にいたる青少年ネガティヴ・キャンペーンの流れの詳細については『「ニート」っていうな!』第2部を参照されたい。このときから、凶悪系優位のネガティヴ・イメージが不死鳥のようによみがえり日本列島を飲み尽くした。この凶悪系のイメージは、なさけな系のイメージとまじりながら、憎々しげな「ニート」バッシングの現在にいたっている。


4・跋
何のへんてつもない青少年たちを「いまどき」と珍しがって浮かれるのはもうやめよう。年配者が「いまどきの青少年の○○」という問題を構築しつづけることこそが、「いまどき」をいじくることのむなしさ、すなわち「いまどきのむなしさ」なのである。



『月刊少年育成』2006年6月号、通巻602号、社団法人大阪少年補導協会、16〜21ページ