「いじめ」のミクロ・メゾ・マクロ統合理論

1998年、『心と社会』 (日本精神衛生会)に掲載された内藤朝雄さんの文章です。「全能感筋書モデル」や「生態学的設計主義」などについて解説されています。(※ネット上では図は入れていません)


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「いじめ」のミクロ・メゾ・マクロ統合理論


 0・【はじめに】 「いじめ」は、(1)内的過程深部の奇妙な体験構造が露出する側面と、(2)権力・利害・倫理・祝祭の集団構造が露出する側面とが、わかちがたく象られて現れる現象である。ビヤホール談義の水準を超えて「いじめ」を理解し説明するためには、Intrapsychicなミクロ過程とInterpersonalなメゾ過程とがリンクする形式を明らかにする必要がある。これによって、制度的なマクロ制御を有効な仕方で要所要所に敷くことが可能になる。全体の構図については全体図を参照。当論考前半の詳細については[内藤,1996]を参照。


 一・内的過程(ミクロ水準)


 1・【全能感筋書モデル】

 「いじめ」の形式には、単なる攻撃行動では説明がつかない奇妙な点が多々見られる。「葬式ごっこ」で有名な自殺事件の加害グループは、被害者を木に登らせて歌を歌わせ、その木を揺すった。被害者に「つかいっぱしり」で買ってこさせた缶入り飲料が冷めていたことに怒り、被害者の上半身を裸にして背中に水をかけた上で、コンクリートの滑り台を背中ですべらせた。また、マンションの高層階から「つかいっぱしり」をさせるのに、エレベータを使うのを禁止した。このケースに限らず、多くの「いじめ」は歌やリズムや笑いに満ちた、さまざまな奇妙な様式を埋め込んでいる。
 これらの奇妙な側面は次のように説明できる。「いじめ」は、全能感を一定の筋書きを通して具体的な仕方で現実化(具現)する営為である(全能感筋書モデル)。「いじめ」の全能感筋書は、基本形としては、次のようなものである。「他者が自由を有し、独自の存在を生きている初期条件を前提に、だからこそ、その自由を踏みにじり存在を抹殺する」という営みにおける、「完全にコントロールする無限定的パワーに満ちた自己と、完全にコントロールされる無力な他者」。「いじめ」実践において具体的に現れるかたちとしては、この筋書は次の三つのサブタイプからなっている(以下、自己表象と対象表象の組で表記する)。(1)「全能の破壊神と、崩れ落ちる屠物」。(2)「全能の主人と完全に言うことをきく奴卑」。(3)「全能の遊戯神と、変形する玩具」。この遊戯神は、新たな接続線を引いて世界の別次元の脈絡を強引に結びつけ、思いのままに世界の現実そのものを一気に破壊しつつ再創造し、その思いもよらぬ形態変化の愉快なかたちに笑い転げる。この3つの筋書はしばしば、ひとつの出来事に複数圧縮(一石二鳥、一石三鳥)されて具現される。これらのしばしば圧縮される筋書きが、出来事の経緯に応じて転換していくと考えることで、これまで奇妙に感じられてきた多様な「いじめ」のヴァリエーションが説明可能になる(全能感筋書の圧縮転換モデル)。
 たとえば、上記の背中で滑らせる事例は次のように説明できる。缶飲料が「ぬるい」ことに「つかいっぱしり」((2)を具現)に対する遅延という受動攻撃性を読み込んだ加害者側は、まず自己愛的憤怒narcissistic rage(NR)[Kohut,H.,1972]に誘発されるかたちで(1)を具現する態勢に入る−−と同時に(3)が圧縮されることで、例えば単に「殴り倒す」((1)のみ具現)の代わりに、「背中で滑らせる」((1)と(3)を圧縮的に具現)が生成された。この経緯は、(2)→NR→((1)→)[(1)(3)]、というふうに記号的に表記できる。ここでは次の経験則が見いだされている。(1)(2)(3)が弱者により頓挫したと帰属された場合は、NRが誘発されやすい。NRは①を誘発しやすい。(1)がこれまで繰り返されている場合、(1)と(3)が圧縮されるような仕方で、(1)の具現がなされやすい。
 残り2つの事例も説明しよう。木にのぼらせて歌を歌わせる営為は、もっぱら(3)の具現である。また、被害者に余裕を与えることは、コントロールの完全性という全能感筋書の要を損なうので、(2)の具現にエレベータ使用を禁止するのは自然な反応である。

 2・【全能感の軸と利害の軸】

 「いじめ」にかかわる内的過程の一つの軸が全能感だとすると、もう一つの軸が利害計算である。しつこい加害者も、手痛い損失を被るかもしれぬとなるとさっと手を引く。「いじめ」の場でよく見られる全能感と利害計算とのマッチングは、次のようなものである(全能感-利害計算マッチング)。(1)その場その場の利害状況に応じた利害計算から全能感筋書のストックを編集し、利害適合的な筋書を具現し、その筋書通りの感情状態に成りきる。(2)全能感筋書の具現ニーズから利害計算を行い、利害状況にかなった仕方で筋書具現のための段取りを組む。そうであり得たかもしれない様々な(すきあらば具現したい)全能感筋書の候補は、利害チェックを経て刈り込まれ潜在化しているが、利害適合的になるや顕在化する。


 二・小社会(メゾ水準)


 3・【IPSと政治空間】

これまでIntrapsychicな内的過程に着目しつつ、全能感と利害計算のモデルを提出した。「いじめ」に関わるような内的筋書は、コミュニケーションの具体的なかたちとマッチングされることを通じて現実化(具現)される。またコミュニケーションは筋書の具現として生じる。この具現が、Intrapsychicな内的過程と、Interpersonalなコミュニケーション、さらにはコミュニケーションの連鎖・集積態としての小社会=メゾ過程とを、リンクする。Intrapsychic過程とInterpersonal過程とがリンクしながら螺旋状に誘導し合う機能環を、Interpersonal-Intrapsychic-Spiral-System(IPS)と名づける。
 全能感や利害計算といった内的過程に触発されたコミュニケーションの連鎖・集積は、政治的な空間を創発する。その政治空間がひるがえって、コミュニケーションの、そしてコミュニケーションを介して内的過程の成立平面となる。このようなIPSとしての政治空間を、全能感筋書を構造的基底に組み込んだ利害・権力・祝祭・倫理秩序の結合構造という観点から検討する。


 4・【祝祭】

 祝祭とは、全能感を共同の様式と作業で具現しつつ、かつ当のグループ過程自体も全能的に体験されるような、グループ過程である。祝祭では、(1)祝祭の内容である「いじめ」の全能感と、(2)共同作業過程において「みんな」のパワーと融合する全能感(しばしば自己像誇大化を伴う)とが、圧縮されて具現される。多くの「いじめ」の報告事例において、独りだと何もできないが、群れると気が大きくなって「なぜかそういう気持になってしまう」と言われる現象である。


 5・【全能感筋書きを基底に組み込んだ、利害・権力・祝祭・倫理秩序の結合構造】

 利害と祝祭と権力と倫理は、無数の接合面で相互に支えあっている。祝祭は、「みんな」なるものを、畏怖すべき集合的全能感=エクスタシー的倫理秩序の準拠点として構成する(倫理秩序については[内藤,1996]を参照)。さらに、祝祭のイニシャティヴをとり、「いじめられっ子」という祭具=玩具を共同製作・共同使用(屠り)する音頭をとることは、「群をコントロールするパワーに満ちた自己」という全能感筋書を対自的にも対他的にも具現する。パワーとコントロールの全能感をこの身に具現する者=「強者」(およびそれにあやかるとりまき)は、やり・やらせ・見せる(あるいは喝采する)といったふうに、「いじめ」=「あそび」の全能感を配分する位置にいる。身分の上下は全能感の配分において具現される(それに抵触するのが、「なまいき」)。「いじめ」において全能感筋書を具現する振る舞いは、パワー顕示の祝祭政治にからんだ利害-権力構造に埋め込まれ、合理的な自己勢力拡大の戦術と一致する。また群れて「いじめ」ることは、強く見せかけ、「なめ」られぬよう気を配り、「寄らばみんなの蔭」を当てにするといった保身をめぐる利害にかなっている。祝祭構造がなければ権力はそのイベント資源を失って解体し、権力構造の支えがなければ祝祭は遂行困難となる。


 6・【生態学的布置と淘汰】

 内的過程やコミュニケーションや権力構造や利害構造や祝祭構造や倫理秩序やそれらの政治的結合構造やIPSといったもの(以下ではこれらを項と呼ぶ)には様々なものがあり、それらは重層的に配置され・せめぎ合い・淘汰し合う。あるタイプの項は、別のタイプの現存の項を抑制・変形・促進したり、部分的に解体した上でサブシステムとして組み込んだり、あるいはそうであり得たかもしれない項を潜在化したりしながら、項の生態学的布置の中で独自の位置(生態学的ニッチ)を占めて存立する。
 生態学的布置の中で淘汰されるのは、内的過程やコミュニケーションやIPSといった項である。上記政治空間の淘汰圧のもとでは、さまざまにあり得た項のうち、全能感-利害マッチングをなしたものが生態学的な優位を占める。全能感だけ、利害だけ(ただ損得勘定をしているだけ)というものすら、全能感と利害のコンビネーションプレイの有利さの前に敗北し、消えていく。このような政治空間では、具現に至る全能感筋書の多くが利害計算に貫かれており、政治的戦術の多くに全能感と利害のマッチングが見いだされる。そこには、群れた者たちのシニカルで醒めきった熱狂が蔓延する。


 三・生態学的設計主義による制度変革(マクロ水準からの環境操作)


 7・【空間設計に起因する、生存をめぐる利害の過密構造】

 学校空間は共同体たるべく、生徒が全人的に交わらないでは済まされぬよう、互いのちょっとした気分や振る舞いが互いの立場や命運に大きく響いてくるよう、制度的・政策的に設計されている。学校では、これまで何の縁もなかった若い人々を朝から夕方まで毎日単数のクラスや班に囲い込む。そしてありとあらゆる活動が小集団生活訓練として編成される(集団学習、給食、班活動、掃除、雑用割当、学校行事、各種連帯責任など)。このことにより、立場や生存が賭けられた利害(「強者」と「弱者」の関係では生殺与奪!)の関連性は非常に密になり、生活空間は「いじめ」=祝祭のための因縁づけ・囲いこみの資源に満ちる。あらゆる些末な生活の局面が、他者の感情を細かく気にしなければならない不安な集団生活訓練となる。学校が全人的な「学びの共同体」となるよう意図された制度的・政策的空間設計(=過密飼育ケージ)が、前述の政治空間の生態学的布置と淘汰を支える環境条件となる。


 8・【生態学的設計主義の政策論】

 ミクロ・メゾ領域の生態学的布置にとっての環境条件は制度的・政策的な学校空間の設計方式である。この環境条件はミクロ・メゾ水準と制度的・政策的なマクロ水準との接合部分である。この接合面こそ、生態学的設計主義による社会政策のピンポイント爆撃点である。生態学的設計主義は、個々の項の振る舞いを操作するのではなく、生態学的布置において「いじめ」タイプの項が淘汰を勝ち抜かないように環境条件を操作する。筆者は(1)学校を共同体的設計から市民社会的設計に変更し(過密飼育ケージの解体)、(2)法などの普遍的ルールによって「いじめ」が損になるようにすることを提唱する[内藤,1996,1997]。

文献

Kohut,H., 1972, Thought on Narcissism and Narcissistic Rage, Psychoanalytic Study of the Child,27:360-400 『自己心理学とヒューマニティ』(林直樹訳,1996,金剛出版)に訳あり
内藤朝雄, 1996, 「「いじめ」の社会関係論」『ライブラリ相関社会科学3 自由な社会の条件』新世社
内藤朝雄, 1997, 「14歳の凶悪犯罪は驚愕すべきことか」『Ronza』9・10合併号,朝日新聞社


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