いじめ

1996年、『東大新聞』 (1996年 10月 1日)に掲載された内藤朝雄さんの文章です。「いじめ」の根幹に関わる「みんな」の「ノリ」について分析しています。


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「シリーズ・研究最先端<第一部> いじめ」 内藤 朝雄


 「いじめ」の事例を通じて、学校に収容された子供たちの小社会を見てみると、彼ら「なりの」の体験の構造や社会秩序が自生しているのがわかる。「よい」とは、集合的な生命ともいうべき「みんなの全能感ノリ」にかなっていることだ。「いじめ」は「よい」。「結果として人が死んじゃうぐらいのこと」はそんなに「わるい」ことではない。「あそんだだけ」。最も「わるい」ことは、「みんな」が共振し合うなめらかな空間に、個を析出させたり普遍性を隆起させたりして、罅をいれることだ。彼らは人権やヒューマニズムを生理的に嫌悪する。彼らの世界を覗き込もうとする「いじめ」研究者たちは、次のような混乱した認識像を報告する。(1)人間関係が濃密で密着し合っている、しかし極度に冷淡で希薄でもある。(2)欲求や行動様式が幼児化し欲求不満耐性が欠如している、しかし、計算高く抑制のきいた「小さな大人」でもある。(3)彼ら「なりの」秩序は残酷なほど過重である、しかし極度の無秩序状態でもある。
 子供たちの小社会を(顕在的あるいは潜在的な)さまざまなタイプの秩序が重層的に配置されせめぎあう生態学的な場と見なせば、上記の事態は完全に理解可能となる。「幼児的」を「全能感準拠的」、「大人びた」を「利害・段取り主導的」と言いかえる。この二つの体験構造の相互参照的結合から「いい(ノリがいい、スカッとする)-わるい(ムカつく)」を分かつ、情動の共同形式として成型される社会秩序を、β-秩序と呼ぶ。それに対して、個の内面において事象を普遍的な理念に照合して「善−悪」を分かつ、普遍ヒューマニズム型の社会秩序を、γ-秩序と呼ぶ。γ-秩序を秩序と見る視点からは、β-秩序に基づいて配分された全能感の筋書をenact(上演=実効化)している心性は「幼児的」で「耐性が欠如」しているように見え、さらに「秩序の解体」「人間関係の希薄」が見えてくる。β-秩序を秩序と見る視点からは、子供たちは悪ノリしている最中ですら計算ずくに立ち回り「大人びて」見え、さらに「秩序の過重」「人間関係の濃密」が見えてくる。子どもたちの小社会では、「いじめ」タイプの秩序(β-秩序)が、そうであり得たかもしれない別のタイプの秩序群(特にγ-秩序)を圧倒(あるいは潜在化)しつつ、独自の位置を占めて存立している。
 このような諸秩序の生態学的競合の帰趨を、その環境である社会的設定条件が左右している。それは、pHや温度・湿度等の設定条件によってシャーレ中の雑多な菌類の生態学的な布置が激変するようなものだ。諸秩序の生態学的布置連関の変化を見越して、その社会的設定条件を制度的にコントロールすることが、「いじめ」対策の主要部分となる。この生態学的設計主義による政策を成功させるためには、「いじめ」タイプの秩序についての深い知識が必要となる。筆者は最近の論文で、この秩序についての理論モデルを「いじめ」事例に則して提出し、リアリティ構成的な体験構造から集合性の存立構造まで原理的に説明した(「「いじめ」の社会関係論」『自由な社会の条件』所収、新世社)。
 社会的設定条件をコントロールする政策は、「いじめ」タイプのβ-秩序を繁茂させる主要因となってきた学校コミューン主義の撤廃と、学校の市民社会化を目標として組織されなければならない。コミューンとは、(1)個を超えた集合的な生命感覚を仮構しながら、(2)「他者の中で私が生きられ・私の中で他者が生きられる」(他者の内側から自己を生きる)ように体験される心理-社会的なメカニズムを、(3)連ね合わせていくことが秩序化の機能を担う社会集団である。赤の他人たちを学校に義務収容して、このようなコミューンを無理強いすることが、子供たちにとっての極度の有害環境を構成している。子供たちは、いわば存在の内襞に望まない仕方で滲み込んだ他人たちの内臓の臭いに、殺意にも似たわけの分からないムカツキを抱く。「本当は」誰が好きで誰が嫌いなのかが自分でもわからなくなり、その判断を、そのとき限りの保身と結合した集団的な心情反射に頼るようになる。この保身と情緒との結合は、集団生活にふさわしい「こころの売春」を習慣づける(この売春は、教員との関係では、情意評価という形で制度的に内申点化された。気に入らない生徒に対する教員によるいやがらせや暴行は、「こころ」を評価して進路の妨害をする「公的に正当な」権利のもとで、さらにエスカレートするだろう)。個として心理的距離を自律的に調節する能力は失調し、情緒的対人関係とその中での自己感に関する認知-情動図式が漠然化する。この失調と漠然化は迫害や拘束といった他の「学校的な」要因と不可分に絡み合う。子供たちは、リアリティがずれた感覚に苦しみ、慢性的で漠然としたイラダチ・ムカツキ・空虚感・落ち着きのなさを抱えることになる。「いじめ」は、このような〈欠如〉からの集団的な「癒し=祭り」であり、「生きがたい」現実を「それでも生きうる」現実に体験加工する全能感希求的な営為である。このような体験加工に基づくコミュニケーションの連鎖・集積の効果が、最初の「生きがたさ」をもたらす当の現実を再産出してしまう。「いじめ」タイプのβ-秩序は、主に制度的な社会的設定条件に支えられつつ、このような副次的な自己産出性能を獲得するに至る。
 「いじめ」加害者は、上記の全能感準拠的構造に貫かれながらも、徹頭徹尾、段取りと利害計算にも基づいている。筆者が知る限り、自分が多大な損失を被ることがわかっていても特定の人物を「いじめ」続けるケースは皆無だ。中学の時に「いじめ」をしていた青年は回想する。「普通生活しているなかで、人のこと、がんがん殴る、ってことないじゃないですか。発散できるから。ある意味で気持ちいいし」(TBS[NEWS・23]1995/9/11)。せっかく中学校=コミューンという「普通生活しているなか=市民社会」でない環境にいるのだから、できるうちに思う存分やっておこう、という段取りと利害計算がよく現れている。学校に市民社会のルールが働いていれば、「これ以上やると警察だ」の一言で、(利害計算の値が変わって)「いじめ」は必ず止まる。また、非暴力的「いじめ」に対しても、「切り札としてのゲバルト」を奪うことは確実に「いじめ」る側の集団力を弱めることになる。学校に市民社会の論理を入れないことが、「いじめ」のエスカレートをまねいている。しばしば自殺にさえ至る多くの被害者は(中学生にもなって!)「警察沙汰」や「裁判沙汰」にすることを思いつきさえしない。市民社会の論理を排斥する学校の体質については、森政稔による現時点で最も優れた学校論を参照されたい(「「学校的なもの」を問う」『知のモラル』所収、東京大学出版会、及び同タイトル『東京大学新聞』1996/7/16)。
 現在よく見られるような「いじめ」のエスカレートの原因は、(1)学校が強制的なコミューンであることと、(2)「いじめ」が罰せられず利害にかなっていることである。その対策は、学校を聖別されたコミューンから市民社会の一員に戻し、個人を中間集団共同体の専制から守るための、法規の改正と制度の再構築である。学校を市民社会化する社会工学的(社会的設定条件を制御する)政策は、「いじめ」のエスカレートを確実に激減させる。
 日本で「いじめ」がこれほど問題化されながらも、長期に渡ってあきれるほど事態が改善されないのは、「学校」「教育」なるものを神聖なもの(集合的な「生命」!)にしておきたい学校コミューン-イストたちが、敵対的補完構造をゆるやかに形成する右と左の両支配勢力を占めていたからである。さらに、「いじめ」を問題化する熱心派グループも(ほど!)、学校コミューン主義の枠組の中でしかものを見ることができなかったからである。旧世代の文部省・財界・日教組・教育学者の「冷戦構造の思考枠組」にとらわれない自由な精神による、すなわちリベラリズムの原則による学校改革が必要とされている。最近事態は好転してきた。文部省・財界は学校スリム化を本気で考えている。この『東大新聞』の特集での教育学者の発言にも希望を感じさせるものがある。
 最後に、「いじめ」が問題となっている英米濠北欧などでの取り組みが近年注目されているが、今のところ「いじめ」が問題となっていない独仏などのグループの教育政策の方をこそ参考にするべきではないか、ということを指摘しておきたい。前者のグループは学校が子供たちの生活を広範におおっているが、後者のグループでは学校の活動がもっぱら知育に限定されている(『世界の学校』二宮晧編著、福村出版)。


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