秩序の生態学

1997年、『少年補導』(12月号、大阪少年補導協会)に掲載された内藤朝雄さんの文章です。「浮浪者襲撃事件」の事例に触れつつ、「秩序の生態学」モデルについて丁寧に解説しています。


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秩序の生態学


1・希薄と濃密
 「いじめ」をめぐって、多くのことが論じられてきた。そのなかで、相互に矛盾し合う次の2つの紋切り型が支配的になっている。(1)子どもたちの人間関係が「希薄」になった。(2)子どもたちは「濃密」な集団主義を生きている。そして、だから「いじめ」が起こるとか、「いじめ」はこのことを表しているとか、多くの論者は主張する。だが、何をもって「希薄」とか「濃密」とか言っているのだろうか。事例を見てみよう。
 あるジャーナリストが中学校で浮浪者襲撃事件について講演をした。大人たちが「人を殺したという現実感が希薄になっている」といったことを話しているとき、中学生たちは反感でいっぱいになった。彼らは挑戦的な表情で、上目づかいににらんでいる。突然女生徒が立ち上がり「遊んだだけよ」と、強く、はっきり言った。中学生たちはうなずく。「一年の時、クラスで“仮死ごっこ”というのが流行ったんです。どちらかが気絶するまで闘わせる遊びなんですが、私は『ひょっとしたら死んでしまうんじゃない。やめなさいよ』と止めました。そしたら男子が『死んじゃったら、それはそれでおもしろいじゃん』というんです。バカバカしくなって止めるのをやめました」。「ほんとに死んじゃったらどう思うだろう?」耐えかねたように一人の教員が言った。「あっ、死んじゃった、それだけです」。別の生徒が発言する。「みんな、殺すつもりはないんです。たまたま死んじゃったから事件になってさわぐけど、その直前まで行ってる遊びはいっぱい学校の中であります」。彼らは、普通の中学生たちである。(青木悦,1985,『やっと見えてきた子どもたち』あすなろ書房
 この事例から何が言えるだろうか。中学生たちの人間関係が「希薄」になったのだろうか。だが、大人の「きれいごと」に対して、彼らなりの「遊び」の世界を擁護する情熱は熱い。通常の対人距離を踏み越えた「濃密」なノリの世界が、そこにはある。彼らは「あっ、死んじゃった、それだけです」という「希薄」な関係を、「濃密」に密着し共振し遊び合って生きている。世の「いじめ」学者たちは素人気分で「希薄」だの「濃密」だのと言っているが、概念の根本のところから考え直さなければならない。
 「希薄」だとか「濃密」だとか言うときの基準は、人々が埋め込まれ、その中でそれぞれの現実が生きられている、秩序のタイプによって異なっている。あるタイプの秩序と別のタイプの秩序とでは、何が濃密であり何が希薄であるかが、まったく異なっている。とりあえず、場の雰囲気とは独立した普遍性に準拠した秩序をA秩序、みんなのその場のノリがそのままルールでもあるような秩序をB秩序と呼ぼう。すると中学生たちの人間関係は、A秩序を基準とすれば「希薄」であり、B秩序を基準にすれば「濃密」であるということになる。
 また、「よい」「わるい」の基準も、A秩序とB秩序とでは違っている。B秩序で「よい」とは、その場その場でみんなのあそびのノリにかなっていることである。「いじめ」は「よい」。「わるい」とは、みんなのノリを躓かせて、みんなから「むかつく」とされることだ。だから当然、「いじめ」の場の中学生たちは、人権や個の尊厳といった普遍的な理念が個に内面化されたものの感触を生理的に嫌悪し、「めちゃくちゃにしてやりたい」と思う。当然のことながら、「あそび」の方が人の命よりも重い。「いじめ」で遊んでいて、結果として「人が死んじゃう」ぐらいのことはそんなに「わる」くない。それに対して、「弱いくせにみんなから浮き上がって、自分勝手に自信をもっているような奴」は、百回殺してもあきたらないぐらい「わるい」。
 学校というB秩序空間で残忍きわまりない暴力を生きる人たちは、市民社会のA秩序空間では、うってかわっておとなしい。自分がどういうタイプの秩序の場にいるかで、内的過程のモードが切り替わり、カメレオンのように人が変わってしまう。
 もちろん現実には、B秩序が純度100パーセントで存在することはめったにないが、ここでは敢えてそれだけを強調して取り出してみた。上の事例は、B秩序が露出した局面をかいまみせてくれた。


2・生態学
 しばしば秩序は単数で語られ、そこから素朴なアノミー論(希薄になった)や単純な集団埋没論(濃密になった)が出てくる。しかし上で見たように、そういう説明は役に立たない。まずは秩序を複数と考えてみる必要がある。それでは複数の秩序をどのように扱ったらよいだろうか。
 生態学は、さまざまな生物的あるいは非生物的な環境のもとで、さまざまな生物が関係しあいながら消長していく様を描く学問である。
 例えばこんなエピソードがある。昆虫Aが植物Bを食べると、植物Bは生化学的な変化を起こし、同じ植物Bを食べる昆虫Cがそのとばっちりをくらう。植物Aを昆虫Bが食べると、Aは揮発性の化学物質を出し、昆虫Bを食べる天敵Cが呼び寄せられる。植物Aの根から出る化学物質(アロモン)で、植物Bが死に絶え、そのことで植物Cが繁殖する。昆虫Aは、昆虫BがいればX環境に生息するが、昆虫BがいなければY環境に生息する。しかも、気温や湿度や日照や土壌のpHなどの、非生物的環境の変化によって、上のエピソードで紹介したような複雑で雑多な関係ががらっと変わってしまう。このような絡み合った関係の場のなかで、各々の生物が様々な生態学的な位置(ニッチ)を占めている。
 複数の秩序を考える場合にも、生態学の発想を用いてみよう。秩序には様々なタイプがある。ある一つの社会や集団に、いつも一つのタイプの秩序が行き渡っているのではない。だいたいの場合、様々なタイプの秩序が多重的に配置され、せめぎあい、淘汰しあっている。そして各々の秩序は、そのような関係の場の中で独自の位置(生態学的ニッチ)を占めて存立したり、滅びたりしている。このような秩序の生態学が、「いじめ」の分析と対策の決め手となる。


3・生態学的4者構造:教員A秩序・教員B秩序・生徒A秩序・生徒B秩序
 ここでは、ひとつの概念的なモデルを提出する。これは大雑把な考え方についての試作品であり、そんなに精緻なものではないことをことわっておく。
 場の雰囲気とは独立した普遍性に準拠した秩序をA秩序、みんなのその場のノリがそのままルールでもあるような秩序をB秩序と呼んだ。AとBのそれぞれに教員版と生徒版を考えて、暴力が蔓延する学校空間を、教員A秩序、生徒A秩序、教員B秩序、生徒B秩序という4つの秩序の生態学的布置から考えてみよう。またそれとは別にA秩序を、学校印A秩序と、市民A秩序にも分類する(下記分類表参照)。これ以外にもいろいろなタイプの秩序が混在しているはずであるし、もっと細かく分けることもできるが、問題関心に照らして範囲と精度を限定した。



 学校は「教育の論理」で運営される自治空間であるべきであり、個人が暴力に対して法の論理で対処するのは、「教育」に対する一種の涜聖行為とされる。学校は、法の厳格な適用から保護されるといえば聞こえがいいが、むき出しの暴力が跋扈する無法地帯であるとも言える。ただし、無法と無秩序とはことなる。法の支配が遠ざかることで、支配的な秩序のタイプがAからBへと変わるのである。それは、気候条件の変化で植生が変わるのと似ている。
 法と公権力による暴力からの救済が禁止される代償として、教員による恣意的な暴行は慣習的に認められることになる。教員B秩序は、生徒B秩序に対する学校防衛力として、法律上は犯罪である行為を「体罰」として黙認されて、そのことで大繁殖する。「体罰をやめれば学校は不良生徒のチンピラ王国になってしまう」という現場の論理は、要するに、暴行教員とチンピラ生徒との部族抗争の論理である。この論理は、生徒にとっても「学校はこういうところだ」という現実感覚になる。だから、教員が「こわく」なくなると「やっちまえ」ということになる。そして、もっぱら暴力能力の低い生徒や教員が標的となる。暴行教員の方では、これを「なめられた」せいで「荒れた」と解釈し、教員による暴行が必要であることの証拠とする。だが実際には「荒れ」は、部族抗争の論理が学校という小世界の現実感覚になっていることから生じている。つまり、「なめる」「なめられる」のシーソー・ゲームのノリからなるB秩序の中で、シーソーの片側で生徒が受け持つ共犯の役割が、「荒れ」と呼ばれるものなのである。
 ところで、教員B秩序と生徒B秩序が猿のようにそっくりなことはあまりにも有名な現象であり、双方はよたつき方やいきがり方といった形態情報をコピーし合っている。
 学校内暴力に対する警察導入がタブーである環境条件下では、生徒B秩序を生きるチンピラ生徒と教員B秩序を生きる暴行教員とが、「なめる」-「なめられる」をめぐるシーソーゲーム・システムをつくってしまう。こうなると、市民A秩序は、生態学的な場所を失って壊滅する。教員B秩序は、たてまえとしては学校印A秩序を生徒B秩序から保護する目的で暴力特権を与えられ、そのことで、市民A秩序を滅ぼしながら生徒B秩序と共生的シーソー・システムを形成しつつ大繁殖することができる。
 このような生態学的条件のもとで繁殖できるA秩序は、学校印A秩序である。学校印A秩序は「ちゃんと制服を着よう(丸刈りにしよう)」「中学生らしい自覚をもって生きよう」といった「学校良い子」の秩序で、多くの生徒にとって魅力がないどころか、嫌悪をもよおすものである。市民A秩序が壊滅してしまったところで、この学校印A秩序に対する嫌悪を、暴力的な生徒B秩序が独占的に利用する。多くの場合、生徒集団の秩序候補は、人気のない学校印A秩序と人気のある生徒B秩序の二者択一と化し、当然のことながら生徒B秩序が裏社会を形成しつつクラスの秩序を制圧する。生徒B秩序は、学校印A秩序を様式的に虚仮にすることで、拍手喝采を受ける。学校印A秩序を信奉する生徒は、しばしば「いじめ」られっ子に転落する。また生徒B秩序のノリ軍団は、ときおり顕在化しようと芽吹き始めた生徒市民A秩序を攻撃する。生徒B秩序を生きる者たちは、強者としてのやりたい放題は大好きだが、普遍的な個の自由が大嫌いである。制服や丸刈りの強制廃止運動でも起これば、ちょっと制服を改造したり剃りを入れたりしている生徒B秩序のグループは、教員B秩序のグループと結託して、自由化運動をつぶしにかかる。その手口はしばしば暴力団のものである。
 ところで「いじめ」に関して補足すると、小学校の小さな子どもでは学校印A秩序がひどい「いじめ」を引き起こすことがよくあるが、第二次性徴以降、特に中学生以上では、ひどい「いじめ」は主に生徒B秩序によって引き起こされている。


4・生態学的制御
 これまで述べた生態学的発想による分析は、なかなか細かいものであった。だが、事態を改善するための制御は大雑把にしかできない。前に、気温や湿度や日照や土壌のpHなどの、非生物的環境の変化によって、生物の複雑で雑多な関係ががらっと変わってしまうと述べた。このような変化のプロセスを予測しつつ、個々の要素のふるまいではなく、環境条件に操作を加えることで事態を改善することができる。B秩序が大繁殖したのは、暴力に対する対処機能を、法秩序から奪い取ったからだ。学校を法が免除される聖域とみなすのをやめ、暴力をふるえば生徒も教員も等しく法の下に裁かれるといった、あたりまえの市民の論理を導入することで、B秩序は弱体化し、学校内の構造的な暴力は激減する。 

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