「いじめ」の社会関係論 後半

1996年、『ライブラリ相関社会科学3 “資本”から人間の経済へ―20世紀を考える〈3〉』(鬼塚雄丞丸山真人・森政稔編、新世社)に掲載された内藤朝雄さんの文章です。「「いじめ」の社会関係論 前半」の続きに当たります。


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5・投影同一化と容器:癒しとしての「いじめ」
 ここでは、「いじめ」られた者が執拗に「いじめ」をおこなう場合の体験構造に、投影同一化[Klein,M.1946=1985; Goldstein,W.N.1991]および容器-内容の機制が認められることを指摘しよう。

 投影同一化とは、自分の一部を相手に投影し、その投影された部分を相手を支配することで支配しようとすることである。投影同一化は、自分にとって耐えがたい体験の様式になってしまった内的表象構造を、他者を利用してより快適なものへと加工しようとする営為である。すなわち、投影される耐えがたい内容が投影先である容器に入れられ、その容器のなかで内容がより快適なものに変化し、その変化した内容がもう一度自己に帰ってくる。このような容器として使用される者は執拗に操作され、実際に他者の空想の一部にとり憑かれたかのように振る舞うようになる(事例6の被害者コミの振る舞いは典型的である)。

 過去にいためつけられた体験を有する「いじめ」る側は、「いじめ」られる側を容器とした投影同一化を用いて、自分の傷つき歪んだ体験構造を補修し、癒そうとする。図3のクロスした矢印つきの2本の線が、次の2つの投影同一化のラインを表している。

 投影同一化の第1の側面において、「いじめ」る側は、かつて自分をいためつけた迫害者と同一化している。「いじめ」る側は、かつて自分がやられたのと同じことを相手に対してする。図3の、Aユニットの「迫害的で酷薄な対象」からBユニットの「嗜虐コントローラー」に向かう矢印がそれである。

 投影同一化の第2の側面において、「いじめ」る側は、痛めつける役を生きながら同時に自分が現に痛めつけている相手の中で「過去の痛めつけられた自己」をもう一度生きる。図3の、Aユニットの「無力でみじめな自己」からBユニットの「崩れ落ちる被虐者」に至る矢印が、この投影同一化である。かつてのみじめな自己の表象は、「いじめ」られっ子によって具現されて体験される。例えば、自分が痛めつけているにもかかわらず、痛めつけられている「相手=過去の自分の投影先」を見てむしょうにイライラする。そして、ますます痛めつけ、えらぶって超越や達観をおしえさとしたりし、またイライラして痛めつける。こうして相手をさんざんいじくりまわしたあげく、やっと、「いじめ」られているのではなく「いじめ」ている自分を心の底から確認し、過去のみじめな自分から少し離脱したような気になることができる。このような場合、「いじめ」られた自分のかつての特徴は、相手の特長として体験されてしまう。

 「いじめ」られっ子という容器は、「過去の痛めつけられた自己」を入れると「現在の痛めつける自己」を返してくれる。これは、痛めつけられた自己表象-対象表象-随伴情動からなる体験構造を修復しようとする営為でもある。相手に「このような容器として具体的にふるまってもある」という体験構造上のニーズが、「いじめ」の執拗さを支えている(体験構造ニーズに基づく他者支配)。このメカニズムは「子どもたちなり」の独特の倫理秩序(次節参照)とも結合している。


6・「タフ」の全能感、「タフ」の倫理秩序
 自分が無力でありかつ耐え難い迫害的な現実を、それでも「生きうる」されには「生きるに値する」ものへと「すりかえ」つつ変造する体験加工のなかに、当の耐え難い迫害的な現実を再生産する傾向が埋め込まれている*1

 【事例・8】 筆者は、「山形マット死事件」をめぐる地元新庄市の調査で、殺された児玉有平君(死亡当時中学1年)の兄のXを執拗に「いじめ」ていたYの家に聞き取りに行った。一家は、ルサンチマン的体験構造、そして、酷薄な「世間」をわたって鍛えられてきたという「タフ」の自負を示す。さらに、その酷薄な「世間」で学習し身につけてきた、もっぱら利益誘導のためになされる情緒的な粘りつきと感動的な人生論、非論理的な情と気迫で相手を押す語りを背後で演出する論理的に明晰な段取りと計算高さ、相手の自尊心を踏みにじり気力を挫いて思い通りに操縦するための「相手のため」と称する憎悪と悪意のこもった「しつけ」の技法、といった、「世間を生き抜くため」の多種多様な生活技能をY家の人々は実演してみせてくれた。残念ながら、当論考ではこの豊かなデータの一部しか用いることができない*2

 一家は、いじめなら自分たちの方が、よっぽどひどいことをされてきたと切々と訴える。Y兄弟は、無意味に蹴られ、自転車屋が驚くほど自転車を破壊され、背骨が曲がるほど投げ飛ばされ、針で突かれ、それを耐えてきた。母は言う。「いじめられっぱなしでは、みな家族駄目になってします。これでもか、これでもかってやってくるのに対して、『これでもまだ自転車乗っていける』『いがったなあ、自転車で。体さ、さったんねくていがったな』『母さん直してけっさげ、明日頑張って行けよ』『いじめてけるひとは先生だ』って解釈しなおして生きていく。いじめのおかげで成長できて良かった。いじめてける人は先生だ。その人が知恵をつけてくれるから。そうして利口になっていくから。Yはいじめのおかげで大人っぽくなった。相手の顔色をうかがって場の雰囲気を察知できるようになった」。一家はうなずく。Y兄弟が続ける。「それに対して、児玉さんのようなうちは過保護で何にもしらないで終わってしまう。児玉さんの家の子は耐える力がない。そのように育てたのは教育者として失敗だ。いじめられるのは幸せだ。いじめられもしないものは、存在感がなく世の中から抹殺されてしまう。」母は言う。「揉まれるのを怖れるな、揉まれて成長する」「いじめは乗り越えて強くなる試練だ」。

 筆者が、YがXを「いじめ」るのを噂ではなくこの目で見た人がいるということを強調すると、母は割り込みながら言う。「ああ、目で見てたっていい。うん。目でなん、見てたって関係ねえっすよお。石ぶつけられようが、な。うん。ウチの子だって、様々さって来たんだから。さってたっていいの。だからウチではそれを直して直して。な、自転車だって直して、何回やらっても直して。うん。んで、人からさったと思わねえで、な、クギさあたってパンクしたっていうふうに受けとめて、いい方にいい方に解釈して行かねば、生きていかんねんのよ。な。」

 Y家の人々は、ルサンチマン論の典型のような仕方で、生きたがたい現実を体験加工している。本当は単純明快にいじめられない方がいいのdが、耐え難い生活を「いいふうに、いいふうに解釈」しなければ生きていけないので、「価値の表を偽造」する。

 だが問題は、Nietzche,F.W.やScheler,M.が考えなかった「タフ」の美学とでもいうべき「弱者なりの全能感筋書」にある。それは、耐えること自体を「タフ」という「パワー」の具現とする、全能感筋書である。「いじめ」られてみじめな状況にある者はしばしば、耐えること自体を、「タフ」という全能感筋書に変造する。そして、「タフ」になるということを美学的に自負することで現実の惨めさを否認する。「タフ」の全能感を具現するには、絶えず、実際のみじめな自分を否認しつつ分裂-隔壁化しておかなければならない。

 「弱い」うちは、このような体験加工によってみじめさを否認し、「耐えるタフ」の美学を生きながら、ひたすら「世渡り」の技能を修得する。この技能修得は「タフ」の全能感筋書を具現する。すなわち、「うまくやりおおせること」も「タフ」の具現項目となり、「耐えるタフ」から「世渡りのタフ」が分岐していく。「タフ」の全能感筋書において、「うまくやりおおせること」は、救済の価を有する。Klein,M.が「空腹時のタイミングの良い授乳は、栄養の摂取というだけでなく内的な迫害的対象から乳児を救済する」と言ったのは、乳児の理論としては間違っていても、「世間に揉まれ」て生きてきたルサンチマン人間にはあてはまる。Y家のひとたちにとってみれば、「うまくやりおおせること」は、ただ単なる実利の追求にとどまらない、「タフ」の具現による体験構造の救済という意味を持つのである。このことが、実利とはまた別の次元で、「いじめ」の場で「うまくやりおおせる」技能の修得へと、人を駆り立てる。このようにして、「タフ」の全能感筋書は「世間を泳ぐ」生活技能に織り込まれていく。ここのところに、「世間に揉まれる」といわれていることのエッセンスがある。さらにこのことは、全能感と利害-現実計算との結合(後出)をさらに加速する。

 自分が過酷な社会環境で「うまくやりおおせる」ことができるようになると、すこしずつその「世渡り」の一環として「いじめ」という容器-内容モデルの「癒し」を始める。

 「弱者」からほどほどに「強者」になると、これまで否認してきた分裂-隔壁化されていたみじめな自己の筋書ユニット(図1のAユニット)を少しずつ解凍し、先に述べた容器(に対する投影同一化)を用いて「癒し=いじめ」をはじめる。Yは、中学生集団の中では相変わらず「低い身分」を生きていたが、「ぼっちゃん」のXだけは「いじめ」ることができた。心理的に生き延び「ステップアップ」するために、それは必要不可欠な(しかも子ども社会では許容される)営みと感じられたはずである。「タフ」の筋書は「強者」の全能感筋書へと変容していく。

 この「タフ」の全能感筋書は、「いじめ」られることと「いじめ」ることとの間を埋めるメカニズムのひとつである。「いじめ」をするものの多くは、この「タフ」の全能感筋書を生きている。また「タフ」の全能感筋書に準拠した体験構造が、不幸の平等主義や「いじめ」に対する権利意識や美意識を生む。子どもたちの社会には「タフ」の全能感筋書に準拠した独自の倫理秩序が自生する。タフの美学・倫理がγ-秩序によって侵害された場合は、子どもたちは憎悪を湛えて侵害者たちをにらむ。

 たとえば、西尾市東部中大河内清輝君自殺事件で清輝君を迫害し続けた「社長」(と呼ばれる「いじめ」グループのリーダー)は、「いじめ」られて「いじめ」るようになった上記「タフ」の陶冶を経ており、清輝君が自殺した直後に父の大河内祥晴氏に呼び出されても、「ポーカーフェイスを決め込」み「睨むような目つきで祥晴さんを見返したまま…だった」[小林,1995]。また、「いじめ」て全治1カ月の骨折を負わせた少年は、入院している被害者Bの病室を母と共に訪れ、「あやまるでもなく、ただ、じーっとB君の顔をにらみつけていた」[太田,1995]。また事例1でも、中学生たちはヒューマニズムを押しつけてくる大人たちを上目づかいににらんでいる。

 彼らが「世渡り」をする社会(「世間」)では、十分に「タフ」になった者が「タフ」になれない者を「おもちゃ」にして「あそぶ」ことは「ただしい」ことであり、おおくの「普通」の子どもたちは、自分たち「なりの」社会のなかでこの「権利意識」を持っている。「いじめ」を耐えた体験が大きければ大きいほど、この「権利意識」も大きくなる。「きれいごとを言ってくる連中」からの、この「権利」の侵害に対しては、子どもたちは「不正」にたいする怒りをぶつける。

 自分自身が迫害されながら必死で「世渡り」をしてきたという自負と、「世間」とはそういうものだという秩序感覚が、このような事態を生んでいる。すなわち、このような子どもたちにとっては、自分が所属し・忠誠を捧げ・規範を仰いでいる社会は、人を殺してはいけないとする社会や、法律で人々を守っている社会ではなく、涙を流しながら「世渡り」をすることで自分たちが「タフ」になってきた社会である。子どもたちは、学校で集団生活をすることによって、このような陶冶をされてしまう。

 「タフ」の美学は、「いじめ」られる者は情けないからいけないのだとか、「いじめ」られた者は今度は強くなって「いじめ」る側になればいいという実感をもたらす。彼らは、自分を痛めつけた嗜虐者が「タフ」の美学を教えてくれたというふうに体験加工する代わりに、「タフ」になれない「情けない」者には「むかつい」てしまい、攻撃せざるを得ない。たとえ「情けない」という印象を与えなくとも、「タフ」の全能感筋書と体験加工を感情連鎖として生きない者は「まじわらない」「わるい」「むかつく」者とみなされ、「いじめ」暴力の対象となる。「タフ」の全能感筋書を生きたものは、不幸の平等主義に対する違反には極度に敏感になる。苦労して「タフ」になってきた人は、おうおうにして、苦労を共にし合うことなく「世間」に対してうまく自他境界を引くことに成功して幸福そうに見える者を、目の当たりにしただけで被害感と憎悪を爆発させる。そして、相手が楽しんでいる幸福をはずかしめ、破壊し尽くさねば気がおさまらない。


7・全能感筋書と利害-現実計算との結合の諸相
 これまでβ-体験構造の理論モデルによって「いじめ」関連諸事象の特徴のかなりの部分を、統一的に説明してきた。しかし、現実の「いじめ」状況や、「いじめ」関連諸事象が浮き彫りにする社会生活を、全能感筋書からだけ説明するのは不十分である。

 「いじめ」の場を生きる者たちの全能感筋書は、利害-現実計算に従属して組織されつつ・作動している。ここで、利害-現実計算というのは、(1)利害計算にアクセントを置きつつ、(2)利害計算と(3)現実検討と(4)これらに準拠してなされる行動プランニング(段取り)との総体を示す広い概念である。

 しばしばこのままでは破滅するとわかっていてもやめられない他の全能感希求的な嗜癖行動と違って、「いじめ」に関わる全能感筋書は(たとえハードケースであっても)利害計算と緊密に結合し、利害-現実計算に従属した形で作動している。筆者が知る限り、自分が多大な損失をこうむることがわかっていても特定の人物を「いじめ」続けるというケースは皆無である。

 【事例・9】 中学生の時に「いじめ」をしていた青年は記者に話す。

 朝会って、「おはよう」でケリを入れる。殴って顔が腫れて、誰だかわからない。その子は授業中顔を伏せている。先生は寝てると思ってる。その後、また殴る。「なんでも、すぐ因縁つけて。ターゲット決まったら、そいつに集中ですね。まあ、登校拒否しちゃうから、そういうやつは、結果的に。そうするとまた、つまんねえ。他のやつに移動して。それをなんか楽しんでやってたから。…。やりすぎたかなっていうのは、今頃になって思うことで…。…。中学あがって、イライラするじゃないですか。わかんないことばっかりだし。先輩こわかったり。勉強できないとか。先生が好きじゃないとか。まあ、家のこともあったり。だから、やっぱ、そうなると、いじめちゃうし。普通生活してるなかで、人のこと、がんがん殴る、ってことないじゃないですか。発散できるから。ある意味で気持ちいいし」。彼はその後、教員の強い指導で「いじめ」ることができなくなる。そして、「いじめられる人間いないから」ということで、今度は万引きなどの非行に走り、「クスリ以外はなんでもやった」。[TBS[NEWS・23]1995/9/11]

 この事例は典型的である。自分が人生の大部分を過ごす市民社会(=「普通生活してるなか」)では、「人のこと、がんがん殴る」なんてことは、なかなか出来るものではない。せっかく中学という「普通生活してるなか(=市民社会)」でない環境にいるのだから、できるうちに思う存分やっておこう、という利害-現実計算がよく現れている。

 加害少年たちは、危険を感じたときはすばやく手を引く。そのあっけなさは、被害者側も意外に思うほどである。損失が予期される場合には、より安全な対象を新たに見つけだし、そちらにくらがえする。加害者側の行動は、全能感希求に貫かれながらも、徹頭徹尾、利害-現実計算に基づいている。

 「いじめ」のハードケースのうちかなりの部分は、親や教員などの「強い者」から注意されたときは、いったんは退いている。「自分が損をするかもしれない」と予期すると迅速に行動をとめて様子を見る。そして「石橋をたたき」ながら少しずつ「いじめ」を再会していく。「大丈夫」となると、「チクられ」た怒り−−自己愛憤怒!−−も加わって「いじめ」はエスカレートする。しかも、そのころには親や教員の力は「思ったほどではない」という自身もついている。ハードケースの「破局が唐突に」起こるまでには、ゆっくりとした損失計算の下方スライドがある。ほとんどすべての「いじめ」は、安全確認済みで行われている。頻発しているハードケースは、利害コントロールが十分に行われていればソフトケースの程度で終わるはずのものである。「市民社会の論理」を学校に入れないことが、ハードケースを頻発させている*3

 さて、全能感筋書は利害-現実計算に従属する。それでは全能感筋書と利害-現実計算とはどのよに結合しあっているのだろうか。

 これまでは全能感希求構造を中心に論じてきた。この全能感(筋書具現)を自分に味あわせるために、「いじめ」をする者が人的・物的用具を探索したり配置したりし、安全を確保し、非難された場合にアリバイ工作をしたり言い訳をしたりする、現実的な段取りの組み方は、合理的でたくましい利害-現実計算能力に基づいている。このような利害-現実計算と全能感筋書とのマッチングは、次の2つのプロセスが絡み合った連鎖から成っている。

 (1)その場の利害状況にあわせて有利な情緒的な感情状態を作りあげるプロセス。全能感筋書のストックを検索し、利害状況に適合した全能感筋書を読出して、活性化しつつ具現・体験し、その全能感筋書に即した情緒状態に成りきる。なお、この時点では一連の検索作業は記憶から消去されている。

 (2)全能感筋書のニーズから利害-現実計算を行い、利害状況にかなった仕方で巧妙に具現・体験のための段取りを組む。段取りが組まれて筋書が具現・体験される時点では、最初の全能感筋書のニーズから段取りが組まれたことが記憶から消去され、その段取りに内在したもっともらしい動機の筋書が信じ込まれる。そうでありえたかもしれない様々な全能感筋書体験の候補は、安全チェックを経て刈り込まれて、潜在化している。これらは状況に応じて顕在化してくる。

 この2つは、何重にも折り重なりあって接続している。すなわち、(1)利害-現実計算から呼び出された全能感筋書は、即座に全能感体験ニーズになり、(2)この全能感筋書ニーズのためにさらに利害-現実計算がなされる(逆もまた然り)、といったプロセスが折り重なり合っているのである。「いじめ」の場で、多くの人々は利害-現実計算に照合して全能感筋書を組織し、全能感筋書に照合して利害-現実計算している。この照合を全能感筋書と利害-現実計算とのマッチングと呼ぼう。

 【事例・10】 高校生Zの事例。これは筆者による聞き取り事例である。暴力に満ちたクラスには、殴られ要因がいる。Zは観客だった。見物してはやし立てて楽しんでいた。「無理してつきあってる。さぐりあい。ほんとは、つきあいたくない。だましあいなんだよ。ようするに。あの学校では。上の人の話を単に聞くだけじゃなくて、話を聞く態度、ようするに接している態度を見せなければならない」。「接している態度とは?」筆者は質問する。Zは答える。「話をあわせる。相手はどんな気分になるのか?こいつは仲間なんだなと、そう思うんじゃないの。殴られ要因にならないために、話を合わせる。自分だけでなくみんなそう。いじめられる第1の原因は見かけ。こいつ変な顔してるから始まる」。「変な顔してるやつが強いヤツだったら?」と筆者は質問する。「みんな従っちゃう、素直(すなお)だから」。

 「変な顔」という印象で異物として認定され、「異物に対して憤る嗜虐コントローラー」と「その攻撃によって崩れ落ちる被害者」という全能感筋書が作動するかどうかは、相手が強いかどうかによっている。相手が強いと認定されれば、急遽全能感筋書の具現は取りやめになり、相手の顔が「変な顔」と体験されなくなる。暴力的全能感にまつわる全能感筋書は、安全確保という目的に即した強いかどうかの値踏みによって、作動・非作動が制御されている。ここで起こっているのは、単に「相手が強いからやめた」という事態ではなく、相手が強いかどうかの利害-現実計算に応じて、相手の顔がどのように体験されるか・こちら側がどういう人格に成っている状態であるかといった、体験構造の大きなセットがその集塊ごと入れ替わってしまう事態である。

 このような全能感筋書と利害-現実計算のマッチングは、単なる演技とは異なっている。演技は、その背後に様々な演技をしている「本当」の人格が想定されているが、そのような「本当」の人格はマッチングの邪魔になる。保身のために「ふり」をしているのではなく、そのときは「馬鹿になりきって」「そういう気分に成りきる」のでなければ、「いじめ」状況を生き延びることはできない。自分の「感情」を使うのではなく、保身のために「感情」をいわば「あいだ」にあけわたし、そのことで身の安全を得るのである。別の所に「本当の感情」を確保しながら「ふり」をしているときに必然的に醸し出される、独立した人格の雰囲気は、「いじめ」の場では最も迫害意欲を誘発する。

 相手が強かった場合の上記のような豹変に対して、Zは「素直(すなお)」という言い方をしている。ここで言われている「素直(すなお)」とは、上位者*4の一挙手一投足に合わせて人格状態が即座に変化していると思われるように、下位者が振る舞うことである。すなわち、上位者が具現・体験しようとしている全能感筋書に対して打てば響くような仕方で、下位者の人格状態が伸縮変化する(と上位者が感じるように生きる)ことが「素直(すなお)」なのである*5

 ここでつけ加えなければならないことは、この倫理秩序は利害-現実計算に完全に従属していることである。皆が「だましあい」ながらかつ「素直(すなお)」であるという状態は、矛盾も混乱もしていない。この状態は、全能感筋書と利害-現実計算のマッチングに基づくコミュニケーションの集積から構成される秩序状態(β-秩序)としては必然的な帰結である。このような秩序状態では倫理と利害-現実計算とは分離しない。

 これまで述べたような全能感筋書と利害-現実計算のマッチングを多用すると、一貫した人格状態を保持するのが難しくなる。人格がある程度多重化している方が、「いじめ」状況のβ-IPSには適応しやすい。最終的に利害-現実計算は全能感筋書の上位でコントロールする位置を得るが、全能感筋書準拠構造を破壊することはない。むしろ全能感筋書と利害-現実計算は相互に他を増幅し合う。


8・容器の共同製作・共同使用
 これまで論じてきたさまざまなメカニズムに加えて、容器の共同製作・共同使用も、β-IPSを構成する重要な契機である。

 子どもたちなりの「いじめ」の場の秩序は、「あそび」の秩序でもある。自分たちの〈欠如〉を全能感で補完するために犠牲者を見つけだし、打てば響くように恣意に応える「おもちゃ=自己対象」という容器として「いじめ」られっ子を製作しながら「使用する=あそぶ」共同作業の秩序を子どもたちは生きている。かれらは、全能感筋書を具現して自己を補完する他者、自己の延長として情動的に体験される他者を切実に必要としている。

 全能感筋書の受け皿としてのこのような容器はしばしば、個人単独では製作することができず、他者との一定のコミュニケーションの連鎖・集積を必要とする。β-IPSは、β-体験構造が必要とする全能感筋書具現のための、個人単独では製作できない容器を共同製作・共同使用する、共同作業的コミュニケーションの連鎖・集積を重要な契機とするIPSである。それゆえβ-IPSにおいては、全能感は容器を製作する共同作業の動向に従って消長することになる。この共同作業は、β-体験構造を生きる者にとっては極めて重要なものである。〈欠如〉の「ブラックホール」からのつかの間の錯覚としての全能感を希求して生きる者は、おうおうにしてその全能感を、つかの間の「生命」のようなものと感じる。そして、その全能感の消長の座が個人ではなく容器を製作する共同作業にあると感じられるので、そこから錯覚としての集合的な「生命」感覚が生じる*6

 上記の共同作業が「あそび」と言われるものである。子どもたちが「いじめ」を「あそび」と言うときの「あそび」とは、彼らのβ-体験とβ-IPSあるいは集合的な「生命」感覚を構成する、極めて重要な営みなのである。事例1で女子中学生が「遊んだだけよ」という時の「あそび」は、実際に、殺された者の生命よりも大きな価値を有している。

 このような「あそび」の群のなかで、体験構造は集合的に陶冶・成型されて、独特の倫理秩序をなぞるようになる。β-体験構造にもとづくコミュニケーションの連鎖・集積の効果が翻ってβ-体験構造を再成型する反復運動から、感情連鎖の秩序ともいうべき独自の倫理秩序が自生する。この倫理秩序は、事象を論理に従って理念と符合することで妥当性を指示するような論理の秩序(γ-秩序)ではない。それは集合的な「あそび」の全能感やタフの美学がそのまま倫理でもあるかのような情の秩序(β-秩序)である。この秩序がγ-秩序を圧倒してしまっている。

 この秩序の中で「いじめ」られる身分の者は、その場その場で全能感をもたらす容器あるいは「おもちゃ=自己対象」としてのみ存在意義がある。「おもちゃ=自己対象」に対しては、「独自の人格」を前提すること自体が不自然であり、命令によって動かすことがもっとも自然な接し方である。事例1で、女子高生が「気絶するまで闘わせる遊び」という命令的な言い方を、大人たちの前ですらごく自然な感覚でしたのは、このようなニュアンスにおいてである。また、「死んじゃったら、それはそれでおもしろいじゃん」「あ、死んじゃった、それだけです」といった発言も驚くに価しない。「死の実感がない」と言われる子どもたちの言動は、彼ら独自の倫理秩序に整合的な帰結である。むしろ、その時その時の感情連鎖の場とは独立して普遍的に「人間の生命」が尊いなどということの方が、β-IPSを生きる人々にとっては不自然な「わるい」感覚である。彼らの秩序にとっては、つかのまの全能感ノリこそが「生命」であり、その結果、「おもちゃ」身分の「人間」が死ぬか生きるかなどは取るに足らないことなのである。

 「いじめ」の場を生きる者たちは、容器を共同製作・共同使用することを通じて、集合的に成型された倫理秩序、あるいは特有の「よい」「わるい」を体得しており、それに対して、大人の予想をはるかにうわまわる自信と自負を持っている。大人たちは、子どもたちの倫理秩序のうち、「人間の死を軽く見る」傾向や「個人と個人との間に信頼関係が全くないにもかかわらず、濃密に密着しあっている」奇妙さに頭を悩ませる。この倫理秩序に従えば、「よい」とは、全能感希求に準拠した「みんな」の感情連鎖の段取りや秩序にかなっている、と感じられることである。例えば「いじめ」は「よい」。大勢への同調は「よい」。「わるい」とは、自分たちの共同作業の効果としての全能感ノリを外した、あるいは踏みにじったと感じられ、「みんな」の反感と憎しみの対象になることである。最も「悪い」のは、「チクリ」と個人的な高貴さである。それに比べれば、「結果として人が死んじゃうぐらいのこと」はそんなに「悪い」ことではない。他人を「自殺に追い込む」ことは、ときに拍手喝采に値する「善行」である。個の尊厳や人権といった普遍的ヒューマニズムは「わるい」ことであり、反感と憎しみの対象になる。彼らにとっては、その場その場で共振する「みんな」の全能感ノリを超えた、普遍的な理念に従うことや、生の準拠点を持つことは「わるい」ことである。また、「みんな」と同じ感情連鎖にまじわって表情や身振りを生きない者は、「わるい」。β-IPSのメンバーとしての陶冶が十分になされている場合、人はそのような「わるい」者を「いじめ=あそび」の「おもちゃ=自己対象」として流用するために段取りを再設定し、思う存分痛めつけはずかしめ、新たな全能感ノリを享受する。「わるい」相手が強い場合は、〈欠如〉が露呈し、漠然とした空虚感やムカツキが身をさいなむ。


9・「いじめ」を契機とした自己産出的なシステムとしての特殊β-IPS
 これまで論じたβ-IPSの大枠は次のようなものである。「いじめ」の場の、生きがたい迫害的な現実をそれでも生きるに値する現実につくりかえる「したたかで」「しなやかな」体験加工のワザとして、人々は全能感をめざし、それを生活技能に組み込む。その集合的な営みにおいて、全能感筋書や自己愛憤怒は、倫理や正義の代わりに用いられるようになる。さらに、そのような人々のコミュニケーションの連鎖・集積が、「いじめ」を誘導しつつ妥当とするような新たな倫理秩序と社会的オーガナイゼーションを生み出し、そのなかで構造的に最初の生きがたい〈欠如〉と迫害が加速的に拡大再生産される。すなわち、「生きがたい」現実を「それでも生きうる」現実に体験加工する構造に基づく、コミュニケーションの連鎖・集積が、最初の「生きがたさ」をもたらす当の現実を再産出してしまう。そして、この「生きがたい」現実が、最初の体験加工の構造(β-体験構造)を再産出し、ここから、また同じコミュニケーションの連鎖・集積が再産出される。このように自己産出的に、β-体験構造と、その体験構造に基づくコミュニケーションの連鎖・集積とが、相互に螺旋状に他を産出しあうシステムが、当論考が主題とした、「いじめ」の場を構成する特殊なβ-IPSである。

 β-IPSは「いじめ」を生み、「いじめ」はβ-IPSの自己産出の主要な契機となる。β-IPSというシステムは、その作動の効果として、当のシステム産出の契機を再産出する。このシステムは、人間に苦しみを与え・その苦しみに対して悶える人間が噴き出す膿を流用することで・さらに最初の苦しみを再生産し、そのまわり続けるサイクルに寄生して生き延びている。


10・自由な社会の条件を論じるために
 以上、学校関連のものを中心に「いじめ」関連諸事象を、独自の理論モデルを提出しつつ分析してきた。そして、従来の「いじめ」論では解くことができない問題と矛盾を氷解させつつ包括・統合し、リアリティ構成的な体験構造から集合性の存立構造まで原理的に説明してきた。

 この理論モデルは普遍的なものである。いつの時代でも、どの地域でも、ある社会的設定条件ものとでは必ず当論考で述べたような、群であることの「いきがたさ」が爆発的に増大する。それは、pHや温度・湿度等の設定条件によってシャーレ中の雑多な菌類の生態学的な布置が激変するようなものである。学校は、その「いきがたさ」が最も際立っている一つの典型的領域に過ぎない。理論モデルを構築する最初の段階で、今回はこのような典型的領域に限定して論を展開した。

 筆者が理論モデルを考える際に、実は学校以上に念頭に置いていたのは、会社組織であり企業社会日本と言われる我々の社会である。導入部で「われわれ市民」との「彼我の懸隔」を強調したが、それはちょっとした倍率の違いに過ぎず、実はわれわれも同様の境遇を生きている*7

 井上達雄によれば、日本社会は「高度産業資本主義と共同体的社会編成原理を結合した」社会である。そこでは「国家は…共同体の集合的諸利益の保護や調整のために介入することには積極的だが、その内部における社会的専制から構成員個人を保護するために介入することには消極的である。従って、中間的共同体は受益主体としては国家に依存しても、内部秩序維持に関しては国家に対する相対的に強い自律性を享受している」。中間的共同体から個人を保護するためには、日本の統治原理上意図的に、法は働かないようにされている。その結果、中間的共同体は、個人に対して「非法的・非公式的な制裁をきわめて実効的に加えることができるため、共同体内部での社会的専制が跋扈する」。市民的自由を奪われた個人は「こころ」の襞を隅々まで企業組織に介入されることになる。実際に企業組織は、そこに働く者をしばしば「学童のように」扱い、プライヴァシーに深く立ち入った「生活指導」を行う[井上,1995]。

 学校とオウム教団はわれわれにとって「少しだけ倍率のある鏡」[見田,1995]である。多くの人々がこれほどまでに学校とオウム真理教に関心を寄せるのは、そこに自分たちの(生きていくために否認せざるをえなかった)屈辱的な生の姿を投影し、安全な所から自分たちの不当な境遇に対して怒ることができるからである。この投影をもう一度自分たちの側に引き受けるところから、自由な社会をつくりだす我々の作業が始まる。

 さて、上記井上論文には次のようにある。「会社の過剰な共同体的統合力が緩和されない限り、個人の生を貧困化する「会社人間への自己鋳造」は止まらないだろう」。ここで、「個人の生の貧困化」と一言で言われていることの内実が問題である。それは諸個人がかけがえのない生をリアルに生きることそのことに即した問題である。これまで論じてきた体験構造およびIPSに関する理論モデルは、この生のリアリティに肉薄しつつ、その人たち「なりの」社会秩序の存在様式を明晰に分析し得る。さらに、生にとってその社会編成原理は何を意味するのかを、ある程度示すことができる。すなわち、筆者の理論モデルを用いれば、諸個人が如何なる体験構造を生きることになるかという評価軸を、社会編成原理を評価する軸の集合に新たに加えることができる(図4)。自由な社会の条件を探索する作業に対して、IPSシステムは多大な貢献をなすだろう。





文献
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*1:奥村隆はこのような観点から、第三世界の貧困をもたらす社会構造とその中で生きられる〈貧困の文化〉との、各々の自己再産出に食い込んだ相互誘導関係を見事に暴いている[奥村,1988]

*2:「山形マット死事件」については[内藤,1995]も併読されたい。

*3:暴力に対しては警察を呼ぶのがあたりまえの場所であれば、「これ以上やると警察だ」の一言で、(利害計算の値が変わって)「いじめ」は確実に止まる。また、非暴力的「いじめ」に対しても、「切り札としてのゲバルト」を奪うことは確実に「いじめ」る側の集団力を弱めることになる。さらに市民社会状況であれば、非暴力的なものでも、「葬式ごっこ」や「村八分」などは、民事訴訟をされるおそれがあるのでできなくなる。残念ながら多くの学校関係者たちにとっては、「いじめ」で人を殺すことよりも、学校の聖性を冒涜する「裁判沙汰」や学校を自動車教習所のように見なす態度の方が、「悪いこと」「憎むべきこと」である。

*4:ここで言う上位者には、通常の意味の他に、暴力の能力によって強者になった個人やグループのみならず、群れて「みんな」の勢いを駆ることで、状況的に強者になった個人やグループも含める。

*5:下位者を「素直(すなお)」にするのが「しつけ」である。「素直(すなお)」ということの本質上、「しつけ」のためにはジャイロコンパス型のルールに従った予測可能な賞罰を与えるのではなく、予測不能な仕方で、上位者の気分次第で恣意的に「いためつけ」る方が理にかなっている。このような「いためつけ」(およびその不安なレーダー型の予期)によって、まわりの顔色をうかがい、状況次第の人格を生きるthe contextualが育成される。学校は、β-IPS型の社会に順応させるという教育目的からは、実に理にかなった教育空間となっている。

*6:このβ-IPSによる集合的な「生命」感覚は、α-体験構造による生命感覚とは全く別物であり、この2つは相互に他を破壊し合う。すでに論じたように、β-体験システムはα-体験の欠如につけ込んだ嗜癖的寄生システムである。α-体験の生命感覚を生きる者は、β-IPSの集合的「生命」感覚になんら魅力を感じない。ただし、β-体験を生きる者にとっては、麻薬的な魅力を有している。

*7:この倍率の違いを、導入部ではあえて「彼我の懸隔」と言ってみた。子どもたちが収容された学校は、われわれ大人の社会が見えてくるための補助線であったのだ。