秋葉原通り魔事件の祝祭的報道について

秋葉原で通り魔事件が起きた。
マス・メディアは、模倣犯が起きないように配慮して報道するべきだ。
一部のみじめな者たちが、殺人を実存的な美学としてイメージし、語り合う、流行のきっかけにならないようにしなければならない。
犯人を、ただの犯罪者以上でも以下でもなく、報道すること。
マレーシアとインドネシアで、アモックという「人生一発逆転気分の殺しまくり」が流行して、どうしようもなかったことがある。
そのとき、政府が淡々と犯人を死刑にし、ドブネズミの死骸のように、即物的に扱ったことによって、流行が収まったという。

犯人を、ひとかけらも、承認してはならない。
祝祭的なムードを一切かもしだすことなく、害獣の処理をするような、淡々とした態度が、政府や報道には必要だ。
しかし、マス・メディアは、祝祭的なムードで刺激を売って視聴率をあげ、紙を売る。
このさもしい商売が、模倣犯による被害者を生む。
大手メディア各社は、模倣犯を生むような報道をしないよう、取り決めをすべきだ。


※補論
マレー人のアモック(amok)も中世スカンジナビアベルセルクberserk)も、突然、周囲の人間を殺しまくる現象である。
これらは、共感や承認の空気があいまいにただよう間は蔓延した。アモックやベルセルクに走る者が、モデリングの機能を果たし、絶望したときの人生の芝居の仕方(だだのこねかた)としてムード的に許容されることによって、蔓延する。
ベルセルクは、11世紀に、教会が許さないと「がん!」とした姿勢で宣言した直後に消滅した。英領マレーシアでは総督府がアモックに走る者を死刑に処するという法令を発し、まず一人をおもむろに絞首刑にしたら、衰退した。しかし、あいまいに承認されたインドネシアでは、だらだらと続いた。


モデリングをさせない
社会が承認しない
気持ちのぶつけあいやこころの重ね合いではなく、正義のルールによるおもむろな処置(それで、おしまい)

この三つが重要なポイントになることを、アモックとベルセルクは教えてくれる。
犯人は、あっさりと極刑に処して、それでおしまい。
その「あっさり」さが、きわめて重要なのだ。
マス・メディアの不適切な報道によって、どれほどの歪んだひとたちが、自分のこころを犯人のこころに重ねるイメージの弄びをすることになるだろうか。その者たちの数が多ければ多いほど、確率的に、実行する者たちの数も増える。
酒鬼薔薇の後の、佐賀バスジャックのような模倣犯のパタンが続いた場合、マス・メディアは、人殺しの片棒をかついでいる、と非難されてもしかたがない。
犯人が「やりたいこと…殺人 夢…ワイドショー独占」という自己顕示を行っているのであれば、ワイドショーは絶対に、犯人の夢をかなえてあげてはいけない。放送業界は、ワイドショーに事件をとりあげることを中止させるべきである。
もしワイドショーが事件を取り上げた場合、責任者の放送業界での社会的生命を奪うぐらいの処分が必要である。

内藤朝雄