痛みの記憶から制度を考える

劇団俳優座『春立ちぬ』(ふたくちつよし作・亀井光子演出)の公演パンフレットに文章を依頼された。劇の公演パンフレットに文章を書くのは生まれてはじめての体験。そして十数年ぶりの観劇。


「痛みの記憶から制度を変える」


『春立ちぬ』は、いじめに焦点を当てた劇でありながら、いじめのシーンが出てこない。そのかわり、ひとりひとりがいじめに苦しめられた痕跡が家族の会話に滲み出るさまを、ていねいに描いている。劇中の家族は、いじめという汚染物質をとりこみ、苦しみを受け、消化し、分解しようとしている。それは、ナマコやミミズが、人間によってまき散らされた汚染物質を飲み込み、同化しながら分解して、海や土に返そうとのたうちまわる姿に似ている。
ここから、家族というシステムと、学校や職場などの外部のシステムとの関係を考えることができる。そして、外部のシステムが、家族システムをさまざまな矛盾の廃棄処理場にしていることが見えてくる。劇中に家族の会話しか出てこないからこそ、こういった社会のシステムの廃棄物が浮き上がる。そして、わたしたちは、家族の内部を、じっと目をこらして見るからこそ、家族ではなく、学校や職場などのシステムを変えなければならないと感じる。
父の栄一は、職場でいじめられて会社をやめ、タクシーの運転手をしている。長男の敏樹は、数年前に学校でいじめられたが、学校側にうやむやにされた。敏樹は現在、引きこもっている。姉の小枝子は、部活のぎすぎすした人間関係に苦しめられている。妹の彩香はそりのあわない学校の有力者の息子といがみあっただけで、いじめの嫌疑をかけられて担任から謝罪を要求される。彩香の友人朋美の家は母子家庭だ。母はパートの仕事で子どもを育てているが、職場で上司から性的な関係を迫られ、断ると嫌がらせの日々が続く。そしてついには自殺未遂にまで追い詰められる。パートの同僚は自分が仕事を失うのをおそれて、見て見ぬふりをしている。栄一の叔母シゲ子は、敗戦時に満州から引き上げるとき、収容所の世話役のおじさんに金を出せと要求され、断るとロシア兵の性的慰み者にされた。
これらの出来事の背後には、学校や職場や収容所の有力者の意向や、人間関係の政治がある。そして一定の社会条件のもとでは、人間が人間にとって狼になる。学校も職場も収容所も、逃げることができない閉域で、誰かが誰かの運命を左右する「迫害可能性密度」が高くなるようになっている。人間関係の政治をしくじると、運命がどうころぶかわからない。強い者が弱い者をいじめるのを、ビクビクこわがって見ているしかないのは、制度的に人間存在が不安定にさせられているからだ。学校では、学級制度があり、狭いところに朝から晩まで閉じこめられて「友だち」相手に、「なかよしごっこ」の精神的な売春をしてビクビク暮らさなければならない。
もし学級制度が廃止され、広い交際圏で自由に友だちをつくることができれば、学校でいじめる「友だち」と縁を切って、もっと美しい友だち関係を選ぶことができる。いじめをしている最低のクズに「やめろ!」と言ってやっても、痛くも痒くもない。そもそも、ビクビク吸気を読み、顔色をうかがいあう「友だち」関係には、みんなそっぽを向いて、別のところでもっと美しい友情をはぐくんでいるはずだ。学級制度によって、誰と「友だち」でなければならないかを強制されているから、しかたなく、不本意な、醜い「友だち」とつきあっているのだ。
大人の社会に目を向けよう。貧富の差が、人間の尊厳をくつがえすほどに拡大している。子どもを一人で育てている母親が、貧困によって生活破綻寸前だと、上司にセクハラをされても、泣き寝入りするしかないだろう。もし日本が、収入が低くても子どもに教育を受けさせることができ、医療を受けられ、再就職もしやすい制度になっていれば、あんなにビクビク苦しまなくてもよかったはずだ。背筋をぴんと伸ばして、堂々とセクハラ上司を告発できるはずだ。パート仲間も、見て見ぬふりをせずにすんだはずだ。職場のいじめに対処する法律があって、きちんと機能していれば、誰もいない倉庫に一人机を置いて、栄一に毎日鉛筆削りをさせる、などといういじめを、会社はしたくてもできなかったはずだ。
制度がきちんとしていれば、栄一も、敏樹も、小枝子も、彩香も、朋美の母親も、麻里も、この劇に登場する人物はすべて、こんな苦しみを味わうことはなかった。そして、戦争がなければシゲ子は、あんな目にあわなかった。そして、家族は、外部システムの廃棄物を無理して消化することもなかった。家族は、ひとりひとりをいじめから助けることができないことが続くたびに、その襞の一筋一筋がただれてすり切れていった。
この、内臓をヤスリでこすられるような痛みのひとつひとつが、社会を変えなければならないという声になることを願う。まずは、栄一や、敏樹や、小枝子や、彩香や、さまざまな登場人物の叫びを聞いてほしい。そして、あなた自身のこと、家族のこと、友人のこと、職場の同僚のことを考えてほしい。


内藤朝雄