お知らせ

山形新聞に『〈いじめ学〉の時代』の書評が掲載されましたので、ご紹介します。

山形新聞』2008年2月10日(日曜日)書評欄
「闘うための理論と希望学ぶ」
〈評〉滝口克典・若者の居場所NPO「ぷらっとほーむ」共同代表

 新庄・明倫中学「マット死」事件から一五年がたった。とはいえ、昨今の「いじめ」をめぐる事件報道を見るに、人々のいじめ観やいじめ対策のありかたにはほとんど変化がない。相も変わらず「生徒個人の心の歪み」へと問題を矮小(わいしょう)化し、お説教でお茶を濁し続けている。かくして悲劇は続いていく。
 私たちはいまだ何も学んでいない。その凄惨(せいさん)さや残酷さゆえに直視しがたい「いじめ」というものを、しかし、社会学者である著者は直視し続けた。見えてきたのは、いじめが生成・繁茂しやすいような特定の集団や秩序のありかたが存在する、という事実だ。
 それは何か。著者曰(いわ)く、自分とみんな(全体)の関係では、自分の自由より全体の価値を例外なく優先させよ、全体への奉仕や全体の利益を何より大事にせよ、それができないやつに生きる資格はない(=いじめられて当然)、といった秩序感覚であり、これを全体主義と呼ぶ。
 全体主義というと「国家全体主義」を想起しがちだが、会社や町内会、宗教団体などの中間集団も全体主義の担い手になりうる。こうした「中間集団全体主義」のモードが推奨される社会空間の典型例が学校だ。学級の地獄を生き抜くには、いじめへの加担こそが合理的であり割に合う。学級は人々を獣に変えるのである。
 ではどうするか。著者の対案は明晰(めいせき)で明快だ。第一に、全体主義を強いる閉鎖空間がいじめの苗床なのだから、学級制を廃止する。これで「シカト」などコミュニケーション操作系のいじめは不可能となる。第二に、暴力に対しては警察や弁護士を介入させる。これで暴力系のいじめは困難となる。
 こうした「いじめの社会理論」は、「マット死」事件後の現地調査で着想されたとのこと。著者はそこに「中間集団全体主義」のモードを生きる人びとの群れを見た。その意味で本書は、山形に生きる私たち全てにとって他人事ではない。だがまずは、群れの中で今にも窒息しそうな「あなた」に届いてほしいと思う。闘うための理論と希望を、本書は与えてくれるだろう。


“いじめ学”の時代

“いじめ学”の時代