学校という有害な閉鎖空間がもたらす、奴隷的境遇

学校マネジメント 2008年1月号』に掲載された内藤朝雄さんの文章です。「学校」という空間の特殊性と、経済活動の機能について論じています。


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学校という有害な閉鎖空間がもたらす、奴隷的境遇。そして、広い社会で業績をつみかさねることとお金をかせぐことの重要さ


 学校にかぎらず、軍隊にせよ、寺院や教会にせよ、そして家族にせよ、何かが教育を独占するのは、しばしば悲惨な結果をもたらす。
 狭いところに閉じこめられて、狭い人間関係によって、細かく運命が左右される生活環境は、地獄である。
 わたしは、「学校にかぎらす」ということを強調したい。江戸時代の大奥でも、戦前の陸軍の内務班でも、旧家族制度の嫁と舅・姑でも、戦争中の隣組でも、疎開による児童生徒の共同生活でも、事態はまったく同じである。しばしば、人間が人間にとって怪物になる。
 一言でいえば、生活の場を何かが独占することは、迫害可能性密度を高める効果を有する。それに対して、複数のチャンネルを一人一人が魅力と幸福感にしたがって自律的に調整して生きることができる、多元的な生活環境は、生きやすい場である。
 学校の残酷の大半は、学校が教育を独占することの、必然的な帰結である。このあたりのことについては、拙著『いじめの社会理論』(柏書房)で論じつくした。この本で、学校教育の問題点について、言うべきことはほとんど言っている。
 ここで、今まで私が発表してきたものとは、別の主張を加えよう。
 お金を稼ぐことの重要さである。
 有能な仕事をする人を育成するのに、これまでの学校制度は機能しない。
 わたしは教員をしているが、大学の授業が、就職後の仕事の有能さとはまったく関連がないだろうことは、確信できる。中学や高校の場合でも同じであろう。それに対して、自動車教習所やアルバイトでの経験は、そこそこ仕事をして生きていく能力と関連しているだろう(ただし、アルバイトは、技能のステップアップに限界がある)。
 わたしは、神聖なる教育共同体とでもいうべき学校の倒錯を批判してきたが、その神聖教育によって「ケガレ」とみなされてきたもののなかに、可能性を見出す。つまり、お金である。
 神聖な学校での勉強は、多くの場合、無報酬の奴隷労働になっている。そこで身につくのは奴隷根性である。奴隷は本質的に、仕事をする人間類型としては、無能である。有能な仕事のプロにとって、お金を儲けることは、とても大切な要素である。また、自分のお金を持つことが、奴隷を市民にする。神聖教育共同体は、生徒が奴隷状態から市民になると崩壊する。だから学校関係者たちは、お金を「ケガレ」と言い立てる。
 学校ではない業績認定団体が、優秀な業績に補助金を出したり、またその業績が次のステップアップに有利に働くような制度をつくるべきである。学校の学歴によるステップアップではなく、業績の積み重ねによるステップアップを、人生の早期から積み重ねるシステムを構築すべきだ。


#『学校マネジメント』(二〇〇八年一月号、通巻六一二号、明治図書出版)所収